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【短編小説】最後の〇〇

 大好きなアイドルの最後のライブに行き、最後のチェキを撮った。
まゆゆんとはいつもと変わらない笑顔で、他愛もない話をし、握手をしてから両手を振って別れた。
 今日は私にとっては最後となる特別な日だったが、口に出して伝えることは出来なかった。

 新宿MARZを出たら外は既に夜で空気は冷たかった。電飾の明かりのせいか、歌舞伎町は昼みたいに明るかった。私は会場の熱気を体内に込め逃がさないよう、マウンテンパーカーのファスナーを上まで上げた。
 呼吸をするたび体内に冷気が入り熱気が逃げていく。「店内の空気は約20分で全て入れ替わります」と書かれた居酒屋の張り紙に目をやり、一体何分で私の中の空気は入れ替わるのだろうかなどと考えていた。人間の細胞自体数年でほぼ全て入れ替わるなんて話もあるのだから、きっと数分後にはあの新宿MARZの空気など残っていないのだろう。出来るだけ逃がさないよう。マスクをし、浅く、息をする。

 最後の松屋入り、最後の牛丼を食べる。最後の注文を取ったのは中国か韓国っぽい訛りのある若い女性だった。最後まで「つゆだくで」と言い出す勇気は湧かなかった。

 明日私は火星に行く。ズレてしまった火星の軌道を正すべく、核弾頭を積んだロケットで火星に向かい、起爆し、帰ってくる計画だ。しかし私はこの計画がうまくいかないことを知っている。
 社長は国からこのプロジェクトを受託し、肩をブンブン回しながら指揮を執っていたが、その実プロジェクト自体は全く回っていなかった。
 無理なスケジュールに社員のモチベーションは下がり、今に至るまで誰も「無理です」とは言えなかった。
 落としどころとして、乗組員の地球への帰還を要件から外し、火星の軌道を戻すことにした。そして「無理です」を言えないチームの中で一番「無理です」が言えなかった私がパイロットに決定したわけだ。パイロットが決定した全社ミーティングでは全社員が拍手をしてくれたが、社長以外は目を合わせてくれなかった。

 最後の松屋を出て、最後の新宿駅へと向かう。最後に私に声をかけたのはバニーガールの服を着たガールズバーのキャッチだった。

 〇

 初めてフォボスを肉眼で見た。初めてオリンポス山を横から見た。目標の地点に到達し、準備を始める。練習では何度も設置した機器だったが、実際の核弾頭に触るのは初めてだった。
 準備が完了し、あとはこのボタンを押すだけで核弾頭が爆発する。社長以外の全員はこれが時限式でなく即時起爆であることを知っている。ボタンに指で触れ、目を閉じる。
 思い出す同僚や社長のこと、まゆゆんのこと、両親の事。

 無理だった。

 押せるはずがないだろうこんなボタン。

 万が一小石が当たって起爆などしないようにダクトテープでがちがちに固めた。
 指令本部に"muridesu"とメッセージを送った

 太陽系もこのままだと数カ月で消滅するらしい。なんとかまゆゆんだけでも生き残らないかな。
 新宿MARZの空気をどのくらい火星に持ってこれただろうか。
 そんなことを考えながら最後の息をした。

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