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わたしのシネマレビューノート

はじめに

 「我がシネマヒストリー」の作品から1年経った。あれからも映画へのオマージュはますます強くなり、今も30km先の映画館通いが続いている。上映初日に鑑賞したいとの思いは、「初日観客として映画と対面したい!」という私なりのこだわりからである。
映画はフィクションとして真実を描いていることを私たちは理解し、その真実と自らの思考を相乗させることで、深い意義を持つと考える。
日々、直面する現実への不満や解決不能に陥った時こそ映画館に飛び込む。スクリーンに見入っているうちに、思考が物事や現状を深く捉え、本質を探りだそうと脳神経が動き出す。
エンディングの黒いスクリーンに、キャストの白文字が編まれていくうちに、私のエゴイズムは霧散されカタルシスを得る。
特にフイルムノア-ルといわれる映画が、頭の核に燻っていた思考を刺激し、論理学的な「二項対立」の挟間で両極の対立思考を深く考えさせてくれる・
明と暗、善と悪、闇と光、英雄と悪人、内戦等。社会の「正義」の図式に異とする「不義」に目を向けることは、行き場のない閉塞感に貶められるが、二極の真意を理解してこそ、揺るがぬ正義を持ち得るのではないだろうか。それを映画から提示された時に、心の昂りを感じる。
この1年間に観た映画は30本ほどである。
その30本の中で、強烈なメッセージを残した作品を数本上げてみた。

1. ヒッチャー(サイコスリラー)

 この作品は1986年に公開され、当時は賛否両論のB級映画とされたが、35年経った今、復刻版として公開された。
ルトガーハウアーの負の領域での怪演を楽しみにしていた。
「ブレードランナー」で冷酷なレプリカントを演じたハウアーは、圧倒的な存在感を放ち、私に強烈な印象を残していた。
人間は、レプリカントの感情の芽生えを阻止するために、4年の寿命年限を装置した。レプリカントと人間感情の交差する宿命に抗いながら闘うハウアーだが、寿命が尽きることを悟った時の、彼の淡いブルーの目に湛えた哀しさと静かさが叙情を感じた。
そのハウアーが「ヒッチャー」で、指を上げた黒いシルエットのローアングルポスターでは、得体の知れぬ恐怖感を誘っていた。
雨の中、青年がハイウェイで一人のヒッチハイカーを拾ったことが恐怖の始まりであった。ハウアー演じる殺人鬼は、悪魔のごとく神出鬼没に現れ、青年を執拗に追いかけながら、残虐死体を見せつけて行った。
恐怖に慄く青年を何故か殺そうとはせず、好意すら感じる笑みを浮かべて、「俺を止めてみろ!」と挑発する。
連続殺人鬼に翻弄された青年は、殺人犯とされ窮地に立たされるが、そんな彼を逃すための殺戮と変わる。この不可解な行為の本性は、自らを青年に殺させるための自分事情であった。
青年はこうして死闘を繰り広げていくうちに、いつしか不思議な共鳴感が生まれていく、青年が殺人鬼に執拗に追い詰める理由をなじれば、「俺を止める方法は自分で考えろ!」と応えるだけで、死の恐怖から立ち止まることも逃げことも許さなかった。あたかも倒錯した「獅子の子落とし」のように、死の断崖から突き落としては這いあがる試練を彼に課し、非情な成長を促していた。
青年が生き残るためには、殺人鬼へ立ち向かうことで成し得る結末であった。
青年はライフル銃を向け、怒りと恐怖の終結を付けたが、言い知れぬ虚しさでロードに立ち尽くすのであった。
 殺人鬼の動機や人物背景などはなく、現況に係る人物だけを描いたことで、それぞれの本質を感じ取らせた映画であった。
このヒッチハイカーは人間の闇の心を抉るための悪魔の幻影だったのであろうか。
ここ数年に起きる殺人事件の凄惨さは、心を蝕んでいる闇が、狂気と化して起爆するのは何故なのか、映画と照らし合わせて考えみたい。
「ヒッチャー」をサイコパスの映画と括らず、現代の実存的不安と空虚さが人間の深淵に潜む、暴力と恐怖を生み出す要素となってはいないか、視点を変えることで社会環境の影響が見えてくると思う。

2. レミニセンス

 クリフトファー・ノーランの作品、「メメント」や「テネット」の脚本を担当していた弟ジョナサン・ノーランが製作を手掛け、妻のリサ・ジョイが監督した作品である。
これらの映画のように、時系列の難解な映画と予想し、迷路に嵌らぬようスクリーンを凝視していた。
未来・現在・過去を行き来する列で進めてはいるが、数十年後の映画の現在は、まさに現代の抱える最大危機を描いているため、切実に現実化していた。
海水に沈んだディストピアの都市では、人々が未来に対する希望を失い、ノスタルジアに浸ることが一番の娯楽であった。
記憶から情報を引き出し、真実を再現する「記憶潜入エージェント」がビジネスとして暗躍する男は、心に傷を抱えた顧客に過去の記憶を時空内映像で再現させていた。
世界を激変させた災厄など、辛い過去に耐えながら生き続けた人々は、水没した過酷な現実に疲れきっていた。幸福な過去の記憶だけが人々の慰めであり、記憶の舟で時間の川を遡ろうとする。それはあたかも羊水という過去の流れに浮かぶ胎児のような感覚ではないだろうか。
ラブストーリーでのミステリーの展開は、私の期待とは異なっていたが、貧困と犯罪の暗躍するディストピアの社会で生き続ける人々は、誰もがラブストーリーの幸福感を再現したいと願うのかもしれない。
記憶装置の世界は、花の香り、肌の温もり、ワインの味、交わす愛の言葉など、五感すべてが再現できる。過去が実感出来るのである。
就寝時の夢は、無意識や意識の残像であり意思選択のない意外性の出現である。
この映画を観た夜の夢は、彼岸の懐かしい人たちが現われて、とりとめのない会話を交わすことが出来た。

3. 群集

 今回、セルゲィ・ロズニツアの数あるドキュメンタリー作品群から三作品がセレクトされ「群集」として日本初公開となった。
この三つの作品は「粛清裁判」「国葬」「アウステルリッツ」で、これらに映し出された人々は同一化群集となり、それぞれの時代の象徴となった。
 ロズニツア監督が2017年に発見されたソ連の独裁者、スターリンに関するアーカイヴ映像を入手して映画化したものだ。
「粛清裁判」はスターリンの大粛清時代の前段として行われた、見せしめ裁判「産業党裁判」のアーカイヴ映像を使った作品である。
この裁判は、当時社会の上層部にいた研究所の技師や大学教授など、高度な知識を有する人々を、でっち上げの罪で粛清するために仕組んだ見せしめの裁判である。被告たちは捏造された罪で、法廷に引きずりだされ「助命」を条件に虚偽の陳述をしなければならなかった。
 裁判は全て虚構であり、裁かれる者は事前に準備されたシナリオに沿って陳述している。
法廷を傍聴しながら、無実の人間に死刑判決が出ると拍手喝采する人々。また法廷で裁かれる人たちに対して「銃殺しろ」と書いた横幕を掲げながら、夜の街をシュプレヒコールする民衆。これらの人々こそ、1930年のソ連を象徴する群集だという。 
当時のスターリンの独裁体制は恐怖政治によって民衆をコントロールし、ナチスより危険と言われた。スターリンに忠実であった者たちも、数年後に彼の指示により虚偽の罪状で銃殺された。
 今のロシアでは、独裁政治の限りを尽くしたスターリンが、また偉大な人物として尊敬され、国民的評価が高まっているらしい。
独裁にどんな魔力があるのか、スターリンを描いた映画で、ソ連史と国民性を理解しょうとした。

4. スターリン映画の数々

①「スターリン葬送狂騒曲」
 1930年、スターリンの死によって引き起こされる、ソ連の権力闘争を描いたブラックコメディであった。この映画で、ソ連の社会システムはスターリンだけが作ったのではなく、彼を取り巻く者たちがスターリン主義を国民に浸透させたことで、独裁が可能となったことが分かった。

② 「赤い闇・スターリンの冷たい大地で」
 世界恐慌下の1930年、スターリン体制のソ連で、決死の潜入取材を行った英ジャーナリストによって、ソ連の偽りの繁栄が暴かれた実話である。極寒のウクライナを巡り、そこには苛酷な生活を強いられ飢えに苦しむ人々の姿を目撃し世界に知らしめた。

③ 「DAU・ナターシャ」
 ソ連の全体主義社会を完全に実現するというスケールで、独裁政治による圧政の実態と
その力に翻弄されながらも逞しく生きる人々を描いた。
史上最も狂った映画撮影といわれ、バイオレンスとエロスの描写が延々と続いた。人間の本質に迫る手法として、現代に蘇えさせたものであろうと理解した。

5. 「群集」の特徴

 群衆研究の祖と言われる、ル・ボン著作の「群集心理」に群集の性質が説明されている。
群衆は、①「匿名性による無責任」 ②「暗示に掛りやすい」 ③「等質性である」等質性とは個人的相違に関係なく、同じ考え方、感じ方、行動の仕方が共通している。④「衝動的」感情の趣くまま衝動的に行動する。
ソ連のような社会環境でないにしても、まさに現代の日本のSNSコミュニティ問題が、この群集心理に当てはまるのではないだろうか?
 現代はメディアを利用したある種の権力が、知らないうちに人々を支配する。群集は模倣によって周囲と一体感を感じ、孤独を緩和していく。
群集の危険性を察知するには、歴史に近づくことで現代が見えて理解できると考える。

6. ホロコーストから

 ナチス・ドイツやホロコーストの実話を描いた映画が数多く公開された。
実話に基づく多くの作品が映画化されているということは、現在ヨーロッパ全土で史実の悪夢を呼び戻すファシスト思想の勢力が、増えている危惧感からか・・・。
実話の映画化は、過去の同じ過ちを繰り返えさないための強い警告だと考える。

① 「アイダよ、何処へ」
1992年に始まったボスニア内戦では、スレブレニツァに住むムスリム、セルビア人、クロアチア人の三勢力が領土の拡大を目指して凄惨な戦いを展開していた。その中で起きた大量虐殺事件「スレブレニツアの虐殺」の全貌と、官僚主義に支配された戦争構造に翻弄されながらも家族を救おうとしたアイダの悲劇と生き方の物語である。
長く続く内戦は、「善と悪」「英雄と悪人」の対比が入れ替わることがあると思う。
国民同士の領土争いは難民を生み出し、悲惨さを継続させている。「民族問題だから」と傍観するのみの自分に無力を感じるが、物語の背後にある真実や、戦争そのものの愚かさを認識し、戦争に反対して行かなければなければならない。

② 「ホロコーストの罪人」
 ノルウェー秘密国家警察が、ナチスのユダヤ人強制移送に加担した事実を一家族の悲劇を焦点に描いた実話である。
第二次世界大戦時に、ナチスのノルウェー占領に協力した傀儡政権グヴィスリングは指導者としてナチズムを主導し、戦後処刑された。ヒットラーは、ノルウェーの女性を女神と見なし、ドイツ兵と関係を持つことを奨励した。国民はナチス化を拒否し抵抗したが、戦後にはノルウェー人の罪も問われ投獄と処刑が行われた。

③ 「沈黙のレジスタンス」
 「パントマイムの神様」と称えられたマルセルマルソーが、ナチと協力関係にあったフランス政権に立ち向かい、レジスタンスとして、123人のユダヤ人孤児を救った秘話である。
この事実は、没後10年過ぎて明かされた。

④ 「アイシュヴッツレポート」
 アウシュヴッツ強制収容所の実態を告白したレポートを提出すべく、命をかけて脱走した男たちの行動が、12万人のユダヤ人の命を救った実話である。
強制収容所の厳しい監視下での脱走は、想像を絶する過酷さであった。

⑤ 「異端の鳥」
 この映画はヴェネツィア国際映画祭において話題となり、上映されると少年の置かれた過酷な状況が賛否を呼び、途中退場者が続出した。確かに大人の醜態を少年に絡ませる残酷さに、私も目を覆いたくなるシーンがあった。だが少年の純粋を踏みにじる、狡猾な大人を対比することによって、メッセージの深さを読み取ることができる。それ以上にモノクロームの映像が美しく、残酷さえも緩和してくれた。
ナチスのホロコーストから逃れるため、独り田舎に疎開した少年が、地域の人々の差別と迫害に抗い、想像を絶する大自然と闘いながら強く生き抜く姿と、少年を異物とみなし徹底的に攻撃する「普通の人々」を赤裸々に描いた。
少年は迫害を生き抜くうちに心を失っていき、もはや純粋で弱い少年ではなく、ユダヤ人と罵られれば躊躇なく報復する人間になっていた。
人は何故、異質な存在を排除しょうとするのか。
この人間の本質がホロコーストの発端となり、時代を超越した普遍的な争いの、源流となっていることを垣間見せた。
 作者のコシンスキ自身もホロコーストの生き残りであり自伝小説とされていたが、実は創作されたものだと分かったが、経験したことのない恐ろしい状況をリアルに表現する芸術性は素晴らしいと思う。
 善と悪、光と闇、明と暗、真の信仰と組織化された宗教など相反するものに苦しむ人々の本質を容赦なく描いている。
 「二項対比」が成り立たず、九章すべてに反倫理的な結末で少年の成長を追っている。だからこそ「善」と「愛」の価値を認識し求める。それがこの映画の意図するところかもしれない。

あとがき

 ノルウェー、スウェーデン、デンマーク等の北欧映画には独特の雰囲気がある。それぞれ自国の自然を魅力的に活用し、映画を厳かにしている。映画の作家性を第一に表現した映画を求めるようになっているのが見える。
ソ連映画は、ハリウッド的娯楽性がなく、極めて娯楽的要素のない映画であるゆえに深い余韻を残す。
緊張を強いられる映画を観た後は、リラックスしたいがため、アイロニー的ユーモアの映画を求める。軽妙さと重厚さの両極のバランスを図ることで、映画の持つ深さを知ることができる。
心に感じるままにペンを進めたため、異論の声があると思うが、あくまでもわたしのシネマレビューであることをお許し願いたい。

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