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海をみたかい ?

「東京の三鷹の家にいた頃は、毎日のように近所に爆弾が落ちて、私は死んだってかまわないが、しかしこの子の頭上に爆弾が落ちたら、この子はとうとう、海というものを一度も見ずに死んでしまうのだと思うと、つらい気がした。」

そのような冒頭で始まる太宰治の短編『海』が沁みる。たった5分で読み切れるテキストだが、何度読んでもぐっとくる。

戦争末期になると、日本の本土空襲は激しくなり、明日は我が身かもしれないという気持ちを日々、みな抱いていた。いつも死と隣り合わせの中、幼い子を持つ親はどういう気持ちで暮らしていたのだろう。想像するだけで胸が痛くなる。

太宰治も5歳の長女、園子ちゃんに対して、親心をみせている。

「私は津軽平野のまんなかに生れたので、海を見ることがおそく、十歳くらいの時に、はじめて海を見たのである。そうして、その時の大興奮は、いまでも、私の最も貴重な思い出の一つになっているのである。この子にも、いちど海を見せてやりたい。」

私には、はじめて海を見た記憶はない。海の近くで育ったので、物心ついたころには、海はそこにあった。珍しいものでもない。だから、はじめて海を見た感動を語れることに嫉妬すらしてしまう。

寺山修司の「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり」という短歌が好きだ。絶対にこの少女は美人で白いワンピースの似合う女の子で、麦わら帽子で一生懸命にイメージを伝える少年は、きっとその子のことが好きで、きっとふたりで海を見に行くことを夢みてしまうんだろうな、と十代の頃の私は妄想し、すでに海を知ってしまっている自分を嘆いたりもした。海を知らない少女にあこがれた。海を見せてくれる少年と出会いたかった。そういう映画みたいな恋愛をしてみたいとこっそりと願っていた。我が平和な子ども時代のはなし。

(伊豆 城ケ崎海岸のつり橋 2019.7.9)

「ほら! 海だ。ごらん、海だよ、ああ、海だ。ね、大きいだろう、ね、海だよ。」
 とうとうこの子にも、海を見せてやる事が出来たのである。
「川だわねえ、お母さん。」と子供は平気である。

太宰治は、三鷹や甲府で二度も空襲に遭い、命からがら「最後の死場所」として津軽へ疎開した。その道ゆきに、秋田県から五能線に乗り換えて、海が見える座席に家族で座り、念願の海を園子ちゃんに見せることができた。上記は、そのときのやりとりである。お母さんの美知子さんも「ああ、川。」と、半分眠りながらつれなく答えている。三昼夜かかって大変な思いをして移動してきたのだから仕方ない。ひとりで盛り上がっている太宰が気の毒だが、まるで落語のオチのような話になっていて笑える。

が、はたっと、園子ちゃんとシンクロした。

実はいま、私は伊豆高原に来ている。昨日、城ケ崎海岸へ向かうバスの中で、今年初めての海を見た。梅雨空の下で相模湾は暗い薄水色をしていて、地平線はどこか頼りなくぼんやりしていて、浦島太郎の絵本に出てくような「海」というイメージからは程遠いものだった。ここで、もしも私が「海」というものを知らなかったら私も大きな川と感じてしまったかもしれないと思った。

浜辺を歩き、打ち寄せる波や潮の香を嗅がないと、「海」をとらえることは難しいのか、どうなのか。連想ゲームのように話は転がる。

私の大好きな現代アートの作家ソフィ・カルの作品で、『海を見る』という映像作品がある。この作品は、「海に面した土地ながらも、生まれてから一度も海を見たことない内陸部に住み続ける貧困差別の対象となるイスタンブールの人たちが、初めて海を見る瞬間を捉えた作品」で、初めて海を見たひとの表情がドアップで画面に映し出される。みんな、なんとも言えない表情だった。

10歳の太宰少年がはじめて海をみたときのことを想像する。両方のこぶしを固く握ぎることなく笑いながら、子どもらしくはしゃいだのではないのかしら。それとも、厳かに「海」という存在を受け入れたのだろうか。

太宰治生誕110年記念祭の新聞記事の中で園子ちゃんこと、津島園子さんの写真を見つけた。あのとき5歳の園子ちゃんが、 今もご健在でうれしい。

◆参考 青空文庫より 太宰治『海』