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【ショートショート】行きすぎ

 純喫茶でできることは珈琲を飲むことだけだ。
 少なくともうちの近くにある純喫茶「珈琲」では。
「よくこんなストレートな名前をつけましたね」
 とマスターに聞くと、
「シンプルでいいでしょ」
 と答えた。
 客がおとなしく珈琲を飲んでいる限りはニコニコしているいい人なのだが、話し込むと機嫌が悪くなってくる。
 せっかくの絶品珈琲が冷めてしまうからだ。
 かといって、一気に飲んでしまうと、もうなにもすることがない。マスターに話しかけてもろくに返事もしてくれない。
 新聞も雑誌もマンガも、置いてない。
 選択肢は二つ。出て行くか、おかわりを頼むか。
「おかわり」
 というと、マスターは輝くような笑顔を見せる。
 この笑顔みたさに珈琲をがぶ飲みして、何人の女の子がぶっ倒れたかわからない。私が目撃しただけで、近くの女子大の女の子が三人は倒れている。
「アメリカン」
 と言って、店から叩き出された人もひとりやふたりじゃない。
 純喫茶の誇りがかかっているのか、ブレンドがだんだん濃厚になってきているのはきっと気のせいじゃない。毎日飲んで、胃を壊した私がいうのだから確かだ。
 しばらく入院して、退院してからまた行った。妻にはバカと言われたが、自分でもそう思う。立派なカフェイン中毒だ。
 出てきた珈琲カップを見て、私は凍り付いた。
「マスター、なにか忘れてない?」
「うん?」
「うん? じゃなくて、珈琲をいれてよ」
「それでいいじゃん」
「だって豆だよこれ」
 といって回りを見回すと、女の子たちがぼりぼりと珈琲豆をむさぼり食っている。さすがに付き合いきれないと思って、外に出た。振り返ると、店名が純珈琲「豆」に変わっていた。

(了)

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