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現代アートと最近のガンダム

現代アートはこじらせていると思う。カメラ機の出現により、美しいものを正確に描く写実主義から感覚に委ねて描く印象派へと移っていった。ここまではまだ視覚的な被写体に依拠した芸術であったが、抽象絵画あたりから様相が変わってくる。音を絵にしてみた、感情を絵にしてみた、といった類の絵が現れ始め、描写対象が必ずしも視覚的なものではなくなっていく。

それ以降、芸術の世界に衝撃を与えたのが、デュシャンが展示したトイレの便器だ。そこには、「芸術とは何か」「芸術は作品であるのではなく鑑賞者が決めるものではないか」といった問題提起があり、芸術の概念が音を立てて崩れていった。その後も、企業の包装ダンボールやゲーム機などが芸術作品として展示されるようになっていく。

芸術の定義が拡大解釈された現代、芸術と芸術でないものの境界線が曖昧だ。むしろ、「芸術でないものがあると言うのなら、何があるか教えてほしい」ぐらいの勢いである。

北野武の映画『アキレスと亀』のラストに、売れない芸術家が道端で錆びた空き缶を20万円の値付けをして売るシーンがある。素人目から見たら「なんで空き缶が20万円なんだよ」と一笑されるシーンかも知れないが、芸術を志す人からしたら笑えない。

現代アートの有様を見ていて、私は既視感を覚えた。そうだ、これはガンダムと同じ変遷をたどっている、と。ご存知の通り、40年前に初代ガンダムが放送されてから今までに様々なガンダム作品が誕生した。

私のようなオタクになると、「初代ガンダム以外、ガンダムではない。ほかは、ガンダムの名を冠したロボットアニメである。妥協しても宇宙世紀までが限界である」といった言説を垂れ流すことになる。作品として面白くないと言っているのではなく、ガンダムではないと言っているのだ。ガンダムという作品には、そもそもニュータイプという概念が必要不可欠であり、それを排除したガンダムは……、おっと、このへんで止めておこう。

とりあえず、最近のガンダムを見てみよう。アニメ『ガンダムビルドファイターズ』がある。この作品は一風変わっていて、作ったプラモデルをヴァーチャルの世界で戦わせることができる。プラモデルの完成度が高ければ高いほど機体の性能が上がるというシステムなのだ。プラモデルだから、様々な改造が可能である。ガンダムシリーズの垣根を越え、敵キャラの垣根を越え、色々なパーツを組み合わせてオリジナルの機体を作っていく。このアニメから数々のガンダムが生まれた。

私はこのアニメを見て「ガンダムとは……」と問われたような気がした。そう、デュシャンが便器を展示し、「芸術とは……」と世界に問うたときのように。

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