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『いいタッチわるいタッチ』 自分を守る知識を!子どもの性教育の普及を支えた絵本

子どもに対する性教育への関心は、年を追うごとに高まり続けています。
伝え方の難しさから多くの保護者を悩ませる性教育ですが、子どもたちの安全を思えばこそ、避けては通れない道。最近では、小さな子どもが順を追って性への理解を深めていけるよう、さまざまな絵本や指南書が出版されています。

しかし、そう遠くない過去には、子どもへの性教育はタブー視さえされるものでした。性教育への必要性を唱えれば厳しく批判され、話題にすることを避けようとする時代があったのです。

そんな時代に出版され、性教育絵本の先駆け的な存在となった絵本があります。2001年に岩崎書店から出版された、安藤由紀先生の『いいタッチわるいタッチ』です。初版が出版された当時から教育機関や福祉機関から高い信頼を得ていた同書ですが、2016年に復刊されるとSNSを中心に大きな反響を呼び、現在に続く性教育ブームへの火付け役となりました。

「口と水着で隠れる場所は、自分だけの大切なところ。さわっていいのは自分だけなの」。プライベートゾーンを優しく説く同書は現在までに18刷を重ねており、同書を参考として生まれた性教育本も少なくありません。

作者である安藤先生は長年人権活動に従事し、いじめや誘拐、性暴力をテーマに、子どもたちが自分の身を守るための知識を伝えてきました。そんな中で、学校での授業や講演に回るだけでなく、より多くの子どもたちに知識を届けたいとの思いから制作されたのが、この絵本です。

性教育が普及途上だった時代に生まれた『いいタッチわるいタッチ』。復刊され、広く受け入れられるまでの歩みはどのようなものだったのでしょうか。

2016年に復刊された『いいタッチわるいタッチ』

 <作品紹介>
何が性的虐待で、何がそうではないのか…その境目を判断することは、子どもにとっては難しいもの。本書は、人を愛したり守ったりする“いいタッチ”と、人に暴力をふるい権利を奪う“わるいタッチ”があることを教えます。絵本だからこそ、深刻になりすぎず、日常的に子どもたちを啓発できることが、何よりの魅力です。同書を第1弾とする<だいじょうぶの絵本>シリーズでは、性的虐待のほか、児童虐待や自己肯定感をテーマに、子ども自身が正しい知識を持ち、自分を守る大切さを説いています。


『いいタッチわるいタッチ』の原点

今でこそ、性教育の大切さは多くの人が共有するところとなりました。
しかし、『いいタッチわるいタッチ』が一度は絶版となり、復刊されたことを思えば、性教育の普及がいかに険しい道のりを辿ってきたかは想像に難くありません。人権活動の一環として子どもへの性教育の普及に努めてきた安藤先生も、その活動の中で何度も苦しい時期を経験してきたと言います。実名を出されての激しいバッシングや、付きまといなどの嫌がらせを受け、仕事が減ってしまった時期もあるほど、性への拒絶感は大きなものだったのです。

それでも、安藤先生が厳しい世間の目に耐え続けられたのは、自らを突き動かす原体験があったからでした。

安藤先生は、男尊女卑の風潮が色濃く残る地域で生まれ育ちました。安藤先生の母親は、女性であることで損をしたり、苦しんだりしないようにとの願いから安藤先生を厳しく育てたといいます。ですが、その厳しさは時に安藤先生を傷つけるようなものでもありました。人一倍感受性が強かったという安藤先生は、母の言葉や態度に苦しみ、一人で生きていく術を真剣に考えながら育つことになります。また、家庭や周囲の環境で目にした男女のあり方、例えば、風呂や食事の場で男性が優先されることは、安藤先生にとっては強い違和感を抱かせるものでした。その当時はまだ「人権」という概念にこそ辿り着かないものの、子どもや女性が抑圧されながら生きなければならないという現実を身を持って経験した安藤先生の中には、後に人権活動へと繋がっていく種火が生まれ始めていたのです。

その後、上京して美術大学に進学し、イラストやデザインの仕事で生活していたという安藤先生ですが、誰かが割りを食う世間への不条理感は心の中に燻り続けていたといいます。そして、その心の燻りはやがて安藤先生を直接的な人権活動へと駆り立てるようになりました。被害者支援や性教育、心理学などの分野の学びを深めながら、虐待やDV被害の相談員などを経て、『いいタッチわるいタッチ』などの作品を出版、人権活動の幅を広げていくことになったのです。

『いいタッチわるいタッチ』は性教育の絵本ですが、安藤先生にとって、人権活動の中の一つが性教育。人権という、より大きな視点を持ち、誰かに抑圧されて生きる人を一人でも少なくしたいという意識が、安藤先生の心を支え、燃やし続けていたのです。

『いいタッチわるいタッチ』の復刊

さて、『いいタッチわるいタッチ』が復刊されたのは2016年。子どもが犯罪に巻き込まれる事件が特に目立っていた頃でした。復刊を担当した編集者は、当時は子どもの性教育に積極的な風潮はあまりなく、性教育に関する絵本は1冊あったのみと振り返ります。そんな中でも、あるいは、だからこそか、同書には多くの復刊リクエストが寄せられていました。児童文学作家である、ひこ田中さんも同書の復刊を強く推薦するなど、初版から十数年という月日が流れながらも、同書は性教育の必要性を感じていた人々の間で静かに広がり続けていたのです。

作者の安藤由紀先生は、復刊が決まった時のことを次のように語りました。

「ものすごくびっくりしました。2001年に出版された当時は、日本では性教育は受け入れられない文化なのかな、時期が早すぎたのかな、と感じていました。大事なことなのに広がっていかない無念さも抱えていたんですね。でも、復刊ドットコムに集まった復刊を望む声を見たときは、そんなものがあるとは思ってもみなくて。感激して泣いちゃったんです。」

子育て真っ只中だった担当編集者の「子どもが自分の身を守れるようにしなければ」という思いも相まって、同書の復刊は滞りなく実現。復刊後は二人三脚でイベントなどを回り、『いいタッチわるいタッチ』の輪を広げてきました。

広がり続ける『いいタッチわるいタッチ』の輪

『いいタッチわるいタッチ』が復刊されると、その評判は人づてやSNS、イベントなどを通して広がっていき、今では性教育の絵本といえば真っ先に名前が上がる本の一冊となっています。それと同時に、安藤先生の元にはさまざまな声が届くようになりました。

関連するイベントや講演には、性的な被害を受けた人や、子どもが被害にあったという保護者が訪れ、その辛い経験を語りました。親しみやすい絵本を入り口とするからこそ、今まで誰かに話すチャンスがなかった人や、打ち明ける相手に巡り会ってこなかった人でも話しやすい雰囲気が生まれていたのかもしれません。

同書の中の表現に少し抵抗があるという意見もありました。例えば、“いいタッチ”として登場する「おばあちゃんからのキス」は馴染みがなく、「おばあちゃんのハグ」に変えて読み聞かせているという読者もいるのだそうです。

同書を毎日読み聞かせているという声が届くこともあります。頻繁な読み聞かせは、保護者自身の不安の裏返し。子どもの不安を煽らないためにも、ある一時期読んだり、思い出したらまた手に取ったりという程度の頻度で十分だと安藤先生は話します。

多く読者の信頼を得ている同書ですが、その受け止められ方は読者によってさまざま。安藤先生は、同書の活用について次のように話しました。

「この絵本は、子どもができることを応援する、エンパワーメントのために描いたものです。非暴力とプライベートゾーンという根幹の部分はそのまま伝えてほしいと思いますが、感覚は人それぞれです。小さいところは変えながら読んでくださって構いません。過敏にならず、何があってもあなたは悪くないんだし、何かあったらお母さん、お父さんに言っていいんだよ、ということを明るく伝えてほしいですね。」

時の流れは、しばしば作品を風化させてしまうことがありますが、『いいタッチわるいタッチ』はその反対。時代が追いつくのを待っていたかのように、大きな飛躍を遂げました。

同書の初版が出版された2001年頃から徐々に性教育への理解が進み、ようやくその重要性が認識されるようになった昨今。皮肉にも子どもへの性被害や虐待といった事件が目立つように感じることもあります。ですが、それは、社会全体がそうした現実から目を逸らさず、向き合うようになったことの証と言えるかもしれません。

『いいタッチわるいタッチ』はこれからも親から子へと受け継がれ、子どもに正しい知識を手渡すと同時に、大人たちの意識をも高め続けてくれることでしょう。


■取材・文
Akari Miyama
元復刊ドットコム社員で、現在はフリーランスとして、社会の〈奥行き〉を〈奥ゆかしく〉伝えることをミッションとし、執筆・企画の両面から活動しています。いつか自分の言葉を本に乗せ、誰かの一生に寄り添う本を次の世代に送り出すことが夢。
https://okuyuki.info/

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