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故郷喪失

私には帰る実家がありません。

と言ってもべつに深刻な事情があるわけではなく、親が早くに実家を売り払って引っ越した、というだけのことです。
現在親が住んでいる家に行くことはありますが、自分がそこで育ったわけではないので「実家に帰る」というより「親宅を訪問する」という感覚です。

私は典型的なニュータウンの団地で育ちました。

高畑勲監督の『平成狸合戦ぽんぽこ』という映画の舞台になったあたりです。

ニュータウンの都市開発によって棲家を追われた狸たちが人間に戦いを挑む、というストーリーらしいのですが、私はあらすじを聞いただけで自分が責められているような気持になって、結局見たことはありません。
監督としてはそういう意図はなかったのかもしれませんが、子ども心にも、自分の生まれ育った場所はみんなが思うような「正しい故郷」ではないのだな、と思った記憶があります(冷静に考えると新宿や渋谷だってもともと狸が棲むようなところを開発してああなったのでしょうから、あとから開発されたという理由でニュータウンが槍玉に挙げられるのは理不尽な気もしますが…)。

昔ながらの農村でもない。
離島の漁港でもない。
人情味あふれる下町でもない。
歴史と伝統の古都でもない。

そこで生まれ育った人間以外には何の思い入れもないであろう、という場所です。
親としても子育ての利便性を考えて一時的に移り住んだだけのことで、だからこそためらわず売り払ったのでしょうし、あんな坂が多くて車がないと最寄り駅に行けないようなところは老後の住まいとして不向きでしょうから、親の判断は正しかったとも思います。

それでも私にとってはそこが故郷です。
引っ越したのが春だったので、この時期になると「ああ、団地の植え込みで椿の花をむしったな。坂をのぼっていくと歯のかたちをした岩のある公園があって、ツルツルした巨大モニュメントに駆け登って遊ぶのが好きで、その先は大きな犬を飼っている○○ちゃんのうちで、バス通りの反対側の階段を下りていくとピアノの先生のうちで…」といったことをまざまざと思い出します。
べつに原発事故や内戦が起こったわけでもなく、行こうと思えば電車で1時間半のところなのですが、生まれ育った団地にはぜんぜん知らない人が住んでいるわけで何の用事もないですし、今もそこに住んでいる幼なじみはほとんどいないでしょうし、記憶が上書きされてしまうだけなので、ここ何十年も訪ねたことはありません。

帰る場所のないこと、私の経済力からして「自分の家」と呼べるものを所有することは一生ないであろうということは、不安かもしれませんが、自分の性にあっている気もします。

むしろお金持ちの老人になったら映画評論家の淀川長治さんのようにホテルで暮らすか、豪華客船で世界一周して途中で死んだら海に放り込んでもらうのが夢だったくらいです。
(お金持ちの老人になれそうもないですが)

私にとっては文字通り「故郷は遠きにありて思うもの」状態で、そこに住むことはもうないでしょう。

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