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あるものからはじまる場「あいだす」 はじまります

解放されたかった。
誰のためだかわからない仕事からも、ビルの森に通うルーティンも、経済動物としての価値を、プレゼンテーションすることからも。
東京では、それは叶わなかった。実力がなかった。適応もできなかったし、根性もなかった。
もう無理だと思って、どうしようもない気持ちで投げ出そうとしていたら、手を差し伸べてくれた人がいて、今自分はこの久比という集落にいる。
嬉しいことにやりたいこともある。

誰もが、幾つになっても、自分の生き方、在り方を再び編み直すことのできる場を作りたい。

そのために必要なことはなんだろうか?今ここでできることはなんだろうか?
そんな問いが形になったのが「あいだす」という場であり、コンセプトだ。

不便と未完の豊かさ

東京生まれ東京育ちであるから、もちろん「田舎」の、しかもこんなに僻地に住んだことは一度もない。ここは異国のようなものだ。
そんな中で見つけた久比の面白さが、不便さと未完成さだった。

今、島の寺子屋というプロジェクトを、広島大学(休学中)の福島大悟を中心に大学生たちがやっている。

https://www.instagram.com/shima_terakoya/

夏休みの特別プログラムとして、ソンクラーンというタイの水かけ祭りをやるから、水鉄砲を作ろうとしていた。
地域の方に頼んで山に入らせてもらい、竹を手に入れることから始めていた。

左は竹を切っている姿、右はガーゼを巻いて穴のサイズを調整している。

工作は想像以上に失敗していた。
竹を切るのも楽ではない。竹筒に棒をピッタリはめなければ水は反対から出てくる。棒にガーゼを巻きすぎると今度は竹筒に入らない。真ん中の画像はやっとのことで水が出てきた様子だ。
見切り発車で、準備不足で、はたから見ればこれは失敗したワークショップとして捉えられてもおかしくはない。
しかし、ここに関わっていた人たちは、その「うまくいかなさ」も含めて夢中になっているようにみえた。
この時間の在り方が、僕にはすごく魅力的にみえた。立場や年齢なんて関係なく、試行錯誤を楽しんでいた。

ないからつくる、あるものでなんとかする。

都市は便利で、バッチリ準備されていている。少しの不備があれば、クレームが来ることもある。それは保険でもあるし、ある種の矜持でもあるのかもしれない。

でも、その完璧さは、参加者が受け手に、あるいは消費者にさせられてしまうのではないか。自分が関わる余白がないのではないか?この水鉄砲だって、コンビニが近くにあれば買って済む話だ。
でも、久比にはない。
だからこそ「ないからつくるし、あるものでなんとかしよう」と、自ずから思える。みかんのコンテナが椅子になるし、ゴミもゴミではなくなる。
不便さの余白が創造の出発点となり、未完成さは人を惹きつける引力となるのかもしれない。

コンテナは丈夫だから台にもなるし、机の足にもなる(奥の机)

この視点を「隙のデザイン」と呼ぶことにした。

受け手から読み手へ。隙はいかにデザインできるか?

久比の古民家を片付けていると、みたことのないものとたくさん出逢う。王貞治が現役時代の新聞や、大量の壺、手作りの竹籠。
これらのモノたちは、使い道がわからないけれどなんだか魅力的なものばかりだ。

野生の思考を執筆したレヴィ=ストロース曰く、その場、その土地のありものでつくることをブリコラージュというらしい。

ゴミと思えばゴミだが、何か見出せそうな気がする。

そんな想いから、ブリコラージュのワークショップを開催した。

古民家から出たモノを整理して選んでもらった。

お題はこの場にあったらいいなと思うもの。

お茶室のようなものを、梁を駆使して使うチーム。鍋の蓋をたたいていたら楽器に聞こえたから、ドラムセットを作るチーム。家族写真のセットを用意する人・・・

ただの蓋だが、見る人によっては楽器にもなる
記念写真という作品。間に合わなかったらしい。
低い梁を使って茶室を作る様子

あのゴミ山に可能性を見出す態度が、人の好奇心をこんなにも触発する装置になるとは思いもよらなかった。
そんな中で、自分と建築士の方とで作ったものが「隙のデザイン」の原体験になった。

あいだすの設計施工をされている建築士の方と一緒につくった。

何に見えるだろうか。
これを作っている最中、どうやったら天秤のバランスをとれるか。自転車の空気入れをバラしたらどんなパーツがあるのか。衝動的に、そこにある物をバラしたり、組み合わせたり。
つくることそのものが目的だったし、素材で遊んでいたら時間切れになった。
だから説明する時に、「これです」としか言えなかった。
意味もコンセプトも何もなかった。
それはとても不安だったし、恥ずかしかった。
しかし、一人が落ちてた木屑を入れてお焼香を上げる動作をはじめた。

あとで聞くと、「神聖に見えた」と話していた。

それに釣られるように、みんなが同じ動作を始めた。儀式化された行動を通して意味が後付けされていた。もはや一番初めにお焼香をあげた人が、創作をしたといっても過言ではないのかもしれない。
僕は美術大学にいたから、練られたコンセプト、作り込まれたクオリティの必要性を疑ったことはなかった。ある意味で、自分の知る創作は、つくることは作り手に全てが委ねられているものだと、思い込んでいた。
しかし、ここで生まれた出来事は、作った人の造形がそれを想起させたともみえるし、空虚だった意味を受け手側が生成し作品化したようにもみえる。
ありもので作ったからこそ生まれた隙が、受け手を読み手に変えたのではないか。

そして創造性とは、個人だけでなく場も持てるのではないか?
そうであるなら、場の創造性も“育てる”ことができるのではないか?

作るのか、作らされたのか、それとも生まれたのか。
果たして、創造の主体はどこにあるのだろうか?

これからあいだすで試してみたいこと

あいだすを通して完璧なモノ、プログラムを作り、それを「提供すること」は、今はあまり興味を持っていない。(それ自体は素晴らしいことであると思う。)
むしろ、そこにいる人、あるもので、とりあえず作り上げてみること、不完全でいいから形に表すことを、みんなと共有してみたい。

年末に行った餅つき大会は、こちらの手際が悪く、
見かねた地域の方がゴリゴリに手伝ってくれた。
そこでの出会いから地域の方との新しいプロジェクトも生まれた。
あいだすの敷地にある90本の柑橘を保全するためのお庭学科。
10〜70代まで、大学生からパティシエさんなど多種多様な方々が体力と知恵を重ね合わせて楽しんでいる。
サポーター制度やお菓子も作る予定。

それに不完全であるから生まれる、関わりの余地、解釈の余白は、新たな創作を生成する予感がある。

みかんコンテナの棚を見た人が、勝手に並べ方を工夫してライティングをしていた。

つくることは、自分の存在を確認するための行為のように思える。生きることと、未分化な行為のように感じる。
自分はつくることの敷居を下げたい。そのために、不完全さの余白を肯定したい。
あいだすは、この「余白」という「間」を、身体で理解するための現場である。

間の複数形、「間s」があいだすの由来だ。時間も空間も人間も「間」でつながっている。間に踏み込むことで、自分の新たな一面を発見できると思う。

自分を肯定しながら生き抜くために、自分というありものの可能性を見出していく。すなわち、自分自身の在り方もブリコラージュできる気がするのだ。

これが初めの問いである、自分の在り方を再び編み出すための第一歩だと思う。

そうはいっても、今はただ稚拙で、言葉だけが先行してしまっている。

もしこの記事を読んで、楽しそうだと思った方がいらっしゃるなら、この生まれたばかりのあいだすを、一緒に育てていきませんか。

あいだすメンバーの記事

あいだすは、共通のビジョンよりも、「どうしたら自分を、場を[解放/開放]できるのか?」という問いをもとにそれぞれの視点や感覚を重ね合わせながら進めてきた。だからこそ、共通のキーワードもあれば、全く違った考えも内在しているし、それを良しとしている。これらの記事はそれぞれの視点のあいだすについて語った記事だ。興味のある人はぜひ見てもらえると嬉しい。

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