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【卒論】「なぜ自己啓発書は心の「処方箋」になるのか ~ポジティブ・努力の信仰と「自己責任」について~」   第二章 小説『Phantom』から見るオンラインサロンと自己啓発書の世界

第二章 小説『Phantom』から見るオンラインサロンと自己啓発書の世界


卒業論文「なぜ自己啓発書は心の「処方箋」になるのか ~ポジティブ・努力の信仰と「自己責任」について~」の第二章です。
第三章・終章の構成になっているのでここで前半戦終了です。

第一章はこちら


・「ムラ」に集う人々

羽田圭介の小説『Phantom』(文藝春秋)は、オンラインサロンの危うさと、そこにのめり込んでいく人々の様を描いている。フィクションではあるが、二〇二一年に発売されたこの作品から浮き彫りになる、実社会でのオンラインサロンの問題等についてみていきたい。

作品ではネット上の仮想空間ではなく、日本の山奥に実在するという設定の“ムラ”という場所にサロンのメンバーが集う。そこでの彼らは、報酬を得るために躍起になるのではなく、自らお金を払ってでもムラに貢献しようとする。

主人公の華美は将来への不安から、投資に没頭する。一方、華美の彼氏の直幸は「使わないお金は死んでいる」と、オンラインコミュニティに積極的に参加する。コミュニティの会員数はおよそ三五〇〇人で、もし本当に実在すれば日本屈指の規模を誇ることになる。このコミュニティは、月額会費五九八〇円という高額な会費を取っておきながら、現在の貨幣システムには懐疑的な姿勢を持ち、独自の“シンライ”という通貨を活動では使用している。

(1)オンラインサロンに関する調査(ビルドサロン「オンラインサロンに関する調査」PR TIMES)を参照すると、月額の会費の希望金額は平均二一九〇円だった。無作為に選ばれた二〇代から五〇代の男女にアンケートをとったものなので、実際にどこかのサロンに加入している人よりも、会費に対してシビアな可能性はある。しかし、それでもおよそ二千円が月額会費の希望なところでの五九八〇円は、けして安価ではない。

シンライに重きを置きながら、会費は円できっちり回収する所に華美は警戒心を持つが、直幸はどんどん活動にはまっていく。

・作品内の自己啓発書像

作品内では、自己啓発書に関する描写も度々登場する。オンラインコミュニティの主宰の末(スエ)という男は、『解脱三・〇』という本を出版している。華美はその本を(2)「余白と字間のやたら広い本」と評していた。これは筆者も自己啓発書を手に取った時に、何度も感じた事がある。もちろん、字間がしっかりと詰まった重厚な本もあるが、余白が多く太字やマーカーを多用した本が、他の分野の本よりも多いことは、「あるある」として感じられるところである。

『解脱三・〇』の内容には、「忙しい情報社会で電話やメールに五分以内に連絡を返さない相手は切れ」や、「電話をかけてくる人は時間泥棒だから無視しろ」などと書かれているのだが、このような電話に対する主張には見覚えがある。堀江貴文の『多動力』(幻冬舎)に登場する持論だ。

『多動力』の書籍の刊行インタビュー(堀江貴文「電話してくる人とは仕事するな」自分の時間を取り戻して「多動力」を発揮せよ 東洋経済オンライン)でも、

自分の時間を奪う最たるもの。それは電話だ。(中略)やたらと気軽に人の電話を鳴らす者がいるが、僕は絶対に応答しない。電話は多動力をジャマする最悪のツールであり、百害あって一利ない

と答えている。「電話をかけてくる人は時間泥棒」の主張とほとんど同じだ。末の作品内での立ち位置が、実在する堀江貴文をイメージすることでよりはっきりと伝わる。

こうした現実でも耳にしたことがある主張が、各所に散りばめられることによって、作品のリアリティが増している。そもそも、このコミュニティ自体が「あの団体」を想起させるという論もある。『文學界』(二〇二一年九月号)に砂川文次が寄せた、『羽田圭介論 「待ちに待った終末」』では、(3)「ヨガからスタートし、最終的にはサリンや自動小銃を製造するようになったあの教団をモチーフに」と書かれる。ここでも団体名の明記は無いが、サリン・自動小銃という言葉からはオウム真理教が浮かぶ。

自己啓発書にまつわる描写は、末の書籍以外にも登場する。華美が書店の自己啓発書コーナーで、オンラインサロンメンバーの書籍を見つけるシーンだ。このシーンでは、末のみならず、書店の自己啓発書コーナー、そしてそれを支持する人全員を批判している。華美個人の抱いた感想ではあるものの、現実の自己啓発書の“界隈”も少なからず同じ問題を抱えている。

川井恵子という、作中で多数の自己啓発書を刊行している人物のコーナーの前に立ち、 (4)「彼女の経歴や考えはすべて著書のタイトルにあらわされているようで、各著書の本文を読む必要があるのかと思う」と揶揄するのは、自己啓発書のつっこみどころの一つとして、クスッとする程度にとどまる。

しかし、自己啓発書を“見世物ビジネス”とし、「見世物としてビジネス界を舞台にした地下芸能界」とまで言い放つ。「地下芸能界」という表現は、自分のようにオンラインサロンにハマっていない人にまでは届いていない、「独自の世界」という意味で用いている。芸能界を、“テレビで活躍する人の世界”とするならば、テレビを旧態依然とした古いメディアと否定する末や直幸たちは、自分たちが下の存在だと思っている芸能界の「地下」扱いされるのは心外だろう。むしろ、自らのほうを本流と思っていそうである。

また、界隈にいる人たちのことを「金持ちや成功者への願望がある人たちしか知らない。(中略)そしてたぶん、本当の金持ちや成功者たちからは、他人事だからどうでもいいと思われている」と華美は言う。これが事実かははっきりとは描かれないが、納得は出来る。ここで、「自分は本当の金持ちだから、自己啓発書なんてどうでもいいと思って生きてきた」と、成功者側の立場に回れる人は少ないだろう。

・カルト集団の行く末

その後物語は、ムラに行ったっきり戻って来なくなってしまった直幸を、華美が連れ帰すために二人の傭兵を雇いムラに潜入する、というように展開する。ムラでは、一人の元アイドルを集団で批判する(ムラの教えを叩き込む)という名目で監禁し、自殺未遂にまで追い込んでいるところを華美が目撃し、警察が介入。最後にはオンラインコミュニティごと解体される。オンラインサロンのメンバーや幹部の面々は、自分たちは以前からあるカルト集団ではないと否定していたが、結果的には、既にこれまでも聞いたことがあるような、怪しい集団の事件として世間では片づけられる。

ムラのシステムは、オウム真理教や連合赤軍を思わせると述べる記事(「あなたなら儲けたお金を何に使う?羽田圭介の『Phantom』が問う!」ダ・ヴィンチweb)があるが、彼らは頑なに「我々は至って真っ当なコミュニティだ」という主張を崩さない。というよりも、過去の事案をあまり知らない。歴史に対する知識がないからこそ、同じ過ちを繰り返すのだ。

また、このオンラインサロンのことを「新宗教」と呼ぶことを、彼らは反対しそうだが、島田裕巳の『日本の一〇大新宗教』(幻冬舎)によると、(5)「社会的な問題を起こす新宗教がカルトとしての批判の対象になることが多い」とされる。ムラには警察が介入し、メディアで報じられているため、カルトと言ってしまって差し支えないだろう。

また、カルトを(6)「学問的に定義することは難しい」とも島田は述べている。それは、カルトという区分が存在しないという意味にもなるが、反対にどんな集団もカルトに転じる恐れがあるという意味でもある。

・かけがえのない「私」と「大衆」の自覚

直幸は、華美と一緒にテレビを見ていた時に流れたあさま山荘事件について、ほとんど何も知らなかった。華美がどんな事件だったか知っているか問うと、「なんか、鉄球のやつでしょ。どういう事件だったかはしらない」とさほど興味もなさそうな曖昧な答えを返している。このシーンは、作品の前半に何気なく書かれた一部分なのだが、これが作品全体を通じての一つのテーマになっている“大衆”というものに繋がってくる。

華美は自身の投資の話がメインの前半から、直幸ののめり込んだムラがメインになる後半まで“大衆”と自分について考え続けている。彼女は、「市場に参加している大衆はバカではない。大衆は自分たちなのだ」と、そこに参加している全員が同じことを考え動くからこその、投資の難しさを身を持って実感している。自らも市場に翻弄される大衆であることを認め、そこからさらに先回りしてはじめて、勝ち抜ける可能性が生まれるからだ。

そんな、日々自分が特別な存在ではなく、有象無象の大衆であることを感じながら生きる華美が、自分たちのことを、誰も成し遂げたことがないシステムを構築し、「無我夢中!」(ムラで掲げられるスローガン)で生きていると思っているムラに集まる人たちを否定することは当然とも言える。

生物学者の池田清彦は、(7)「オウム真理教を含むオカルトブームの陰にあるのは、『かけがえのない私』という物語信仰」である」と指摘している。また、池田の指摘を引用した香山リカは、『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』(幻冬舎)で、「そのかけがえのない私」を実現するために、(8)「オウム真理教では出家や修行、過酷で能動的なトレーニングが必要だ」とする。過酷なトレーニングというのは『Phantom』のムラでも実践されていた動きである。短眠が推奨され、短い眠りのあとすぐに、早朝から湖のほとりでヨガをし、そのあとはランニング、そして矢継ぎ早に集団での自己批判と、過密なスケジュールが組まれていた。このような極限状態では思考停止に陥ってしまう。

テレビを「あんな質の悪い客しかいないところ」と見下していた直幸は、“あんな質の悪い”メディアですら取り上げるあさま山荘事件や、地下鉄サリン事件の事を知らない。けれども、直幸のような思想はないが、日中ずっとテレビをつけている華美の両親は、それらの事件については知っているのである。独自のコミュニティの世界しか知らない者と、「大衆であるそこらのテレビ好きのおばさんやおじさん」の溝は深まる一方なのだろうか。

『反知性主義と新宗教』(島田裕巳 イースト新書)では、新宗教が(9)「現実社会とは異なる独自の世界を提供することで、大衆に居場所を与え、誇りを持たせてくれるものとして機能してきた」との見方を示す。ムラは確かに直幸たちの居場所としての役割を果たしていた。

しかし、華美のような外部の人間を取り込むことは出来ず、世間からも批判を受けたように、(10)「外側に向かって広がり、社会全体に影響を与えるという点では、十分にその力を発揮することはできない」ともされる。そして、信仰心を持たない者にとっては (11)「信仰を押しつけてくる厄介な組織にしか見えない」と一蹴されている。外の世界に浸透せず、あくまで内輪の場でのみ発展していくという構造が、新宗教及びオンラインサロンの実態である。

・自己啓発書のように「わかりやすい」小説とは

『Phantom』は『滅私』(新潮社)という羽田が書いた別の作品と姉妹作のような位置付けとされている。『滅私』はミニマリストをテーマにしていて、二つの作品に登場する人物たちに関係性があるわけではない。しかし、羽田はインタビューにて根底はほとんど同じだと述べる。

(12)「『結局は経済力に心情を左右されてしまっている』という点です。(中略)両者とも『自分とお金しか信用していない』という点が共通しています。つまり、他者を信頼していないから、人間関係も必要最低限の繋がりしか持たないんです」

「経済力に心情を左右されてしまっている」のは、直幸ではなく華美の方だろう。直幸はお金で買えない価値に魅力を見出していたので、実際に年収が二五〇万円だとしても、さほど未来に不安を感じてはいなかった。“大衆”の自覚を持ち、怪しげなコミュニティのムラに潜入しても、決して飲み込まれなかった華美の不安定な要素はここにあった。

そして、この二作を羽田は(13)「自己啓発書のように読みやすい作品」になったという。『Phantom』に出てくる自己啓発書への批判を読んで、少し気分が良くなっていたため、この言葉にすべてを見透かされていると恥ずかしくなった。『Phantom』を読んで、自分も投資を頑張ろうと思ったり、『滅私』を読んで、物を捨ててすっきりした部屋で心地良く過ごそうと思ったりはしなかった。むしろそうした自己啓発書じみた部分に、疑いの目を向ける方面に感化された。元々ミニマリストには反対なので、『滅私』を読み終わったあとはより一層、無駄なものを排除しないでいようと強く決意した。

だが、このように読後に感想をしっかり言語化出来ているということからも証明されているように、この二作は“わかりやすい”作品なのである。

羽田は二作品について、(14)「小説が苦手で普段読まない人も、読んだ後に『こういうメッセージなのかもな』って腑に落ちやすい内容になっていると思います」としている。(羽田圭介 「人間関係断つ“安易リセット“は不可能 不要なものを捨てても人の「記憶」は消せない」 東洋経済オンライン)

確かに、この論文を書くにあたって再度作品を読み返したが、途中メモを取ったり、どこを引用するか考えたりしながら読んでも、そこまで時間を要することなく読み終わってしまった。それに、内容が読み取りやすかったからこそ、こうして拙い大学生の卒業論文にも用いることが出来ているとも言える。小説は読まないのに自己啓発書を読む人のことを疑問に思い、半ば見下していたというのに、“自己啓発書のように読みやすい”小説に感化されそれを卒論のテーマにするというのは何とも皮肉である。

【第ニ章    註】

(1)ビルドサロン「オンラインサロンに関する調査」PRTIMS
(2)羽田圭介『Phantom』文藝春秋 二〇二一年 三二頁
(3)砂川文次「羽田圭介作品論『待ちに待った終末』」『文學界』文藝春秋 二〇二一年 一九一頁
(4)羽田圭介『Phantom』文藝春秋 二〇二一年 一〇九頁
(5)島田裕巳『日本の一〇大新宗教』幻冬舎新書 二○○七年 二〇七頁(6)同上 二〇七頁
(7)香山リカ『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』幻冬舎新書 二○○六年 一三五頁
(8)同上 一三五頁、一三六頁
(9)島田裕巳『反知性主義と新宗教』イースト新書 二〇一七年 一九二頁
(10)同上 一九二頁
(11)同上 一九二頁
(12)伯耆原良子「羽田圭介、貯金した末の将来をきたいするのは賢明?今あえてお金の価値を問い直す作品を書く理由」東洋経済オンライン
(13)伯耆原良子「羽田圭介『人間関係断つ“安易なリセット”は不可能』」東洋経済オンライン
(14)同上















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