見出し画像

【卒論】「なぜ自己啓発書は心の「処方箋」になるのか ~ポジティブ・努力の信仰と「自己責任」について~」   終章 自己啓発はどこへ向かうのか

第一章・第二章・第三章はこちら↓

終章 自己啓発はどこへ向かうのか


・いかがわしさのゆくえ


 第三章でも取り上げたPodcast番組「奇奇怪怪」では、いつの時代にも「いかがわしい」ものは存在し、それが二○○○年代は占いや(1)「『オーラが見えます』とかそっちへ流れていった」と語っている。人間は「いかがわしい」ものにどうしても惹かれてしまうとしつつ、(2)「今、人は何を『いかがわしい』と思いながらも面白がってしまっているのかということを知っておくことが大事」だという。では、我々は何にそうして、惹かれているのだろうか。
 番組上でTaiTanは(3)「経済の領域」に、このいかがわしさがあるのではないかとの見方を示す。スピリチュアリティの世界は、その手の非科学的なイメージがあるものは信じないという人も一定数いるが、「経済の話」は毛嫌いする人も少ない。

(4)「ロジックの強固さみたいなものは確かにあるんだけど、だからこそ怪しい。(中略)人がそれをありがたがってしまいすぎている」ともTaiTanはしている。理詰めで人を圧倒できる人がもてはやされる風潮は確かにある。「それってあなたの感想ですよね?」というひろゆきの言葉が流行したのも、こうしたロジックを第一に重んじる流れから来るものだ。
ここでいう「経済」とは、「金銭のやりくり」という辞書通りの意味合いよりも、広くビジネス的なもの全般を指す。


内藤理恵子の『新しい教養としてのポップカルチャー マンガ、アニメ、ゲーム講義』(日本実業出版社)では、(5)「二○二〇年代の自己啓発本のメイン(売れ筋)は、経済的な豊かさを目的とするものが増えています」との記述がある。
内藤は例として、FIREなど早期退職を目指す人や、(6)「低収入で楽しく暮らす系」を挙げる。低収入で生きていく方法は、経済的成功ではないように一見すると思えるが、少ないお金でも幸せに生活するという、豊かさを目指している点では、FIREを目指す人と似ていると言える。
また、内藤は同書のなかで、二○○○年代にスピリチュアルと自己啓発が結びついていたとしており、その原因を「就職氷河期」(一九九三年から二○○五年)と「自分探しブーム」だとしている。厳しい現状のなか、

(7)『何か魔術的なパワーで一足飛びに自己実現したい』という気持ちと、スピリチュアルなトレンドとが結びつきがちということは、同世代人として理解できる

と、自身の当時の心境と重ね合わせて意見している。
内藤は一九七九年生まれで、二○○○年代前半は二十歳前後であり、就職氷河期を自分事として体験している。「奇奇怪怪」のパーソナリティの二人がせいぜい細木数子の「大殺界」を意識していた程度なのに比べて、切実に二○○○年代を振り返れるのは、内藤と二人の年齢差から来るものだろう。

・現在も残る「自己責任論」

「就職氷河期」と「自分探しブーム」に、スピリチュアルと自己啓発の結びつきがある、と内藤は論じていたが、これをさらに煽っていたのが「自己責任論」であるという。
「自己責任論」に関しては、第三章でも現代のスピリチュアルに潜む問題や、ネットワークビジネスの行き過ぎた個人の努力についての部分で触れたが、ここでも再度登場する。

「自己責任」という言葉は元々経済用語で、(8)「金融商品への投資において損失を被るリスクは自らとらなくてはいけない」(『ファスト教養 一〇分で答えが欲しい人たち』レジ― 集英社)という意味合いで使用されていた。これが今のように広く一般的に使われるようになったのは二○○四年以降のことであると、同書には記載がある。

イラクでの日本人人質事件に対して、自らの意志でイラクへ行ったのだから危険な目に遭うのは「自己責任だ」という批判が集まったことから、同年に「自己責任」は新語・流行語大賞に入っている。
 内藤はなぜ「自己責任論」がこの時期に巻き起こったのかに対する、詳しい記述を行っていないが、「イラク三邦人人質」の際は世間の声のみならず、当時の小泉純一郎首相や首相周辺の政治家も、イラクに向かったことを「自己責任」だと非難している。
「このときの政治家の言葉がそのまま一般に『論』として残っている」とプチ鹿島は文春オンラインの記事(「十四年前、誰が『自己責任論』を言い始めたのか?『イラク三邦人人質』記事を読み直す」文春オンライン)にて述べており、二〇一八年に「自己責任論」が現代にも続いているとしている。

・「努力」という美徳がうやむやにするもの

 ここまで第一章では「ニューソート」の流れを汲む「引き寄せの法則」、日本の自己啓発書の源流となった「修養」、そして昨今のオンラインサロンに潜む危険性を考えた。第二章では小説の世界から、オンラインサロンがカルトに転じる様子と「大衆」との向き合い方を論じた。
 第三章では視点をスピリチュアリティに向け、江原啓之らの主張からスピリチュアリティとお金の関係性や、そこから見える「現世利益」の考えを追った。自らの利益・幸福に最も重点を置くという点が、「古い宗教」と現代スピリチュアリティという「新しい宗教」の違いである。そして、こうした「個人の幸福」に軸を置きすぎると懸念されるのが、あらゆることが「自己責任」になってしまうのではないかということだ。

 第三章で「『個人の幸福』のみを考えることは、社会的な問題や本当の助けを求める人の声を無視することに繋がってしまう」と記述したが、具体的な例をここでもう再度挙げたい。

 メンタリストのDaiGoが二〇二一年の八月に、ホームレスの人や生活保護利用者に対する差別発言を行ったことが問題になった。「生活保護の人たちに食わせる金があるんだったら猫を救って欲しい」といった趣旨の発言をしたのである。(「『ホームレスの命などどうでも…』配信が批判されるべき理由」朝日新聞デジタル)
後日謝罪をしているが、その内容は(9)「社会復帰を目指して生活保護を受けながら頑張っている人」に対したもので、これは(10)「『“頑張っていない”生活保護受給者』は認めないという本音が漏れ出ている」と、『ファスト教養』(レジー 集英社新書)では指摘がある。

ここには、努力というものへの信仰が強すぎるという問題もはらんでいる。何事も努力をすれば叶うというポジティブな発想は、希望的であると同時に、努力が出来ない人を置き去りにする。

「努力が出来ない」ということには、病気や金銭的な問題など、単に怠惰だという以外の可能性があるにも関わらず、「努力不足」として片づけられてしまう。自助努力という底なし沼に陥ってしまうのである。
第一章で取り上げた「ニューソート」も、(11)「ネガティブな思考は努力不足」として、「ネガティブな思考を追い払うべくたゆまぬ努力」が必要だと、柳澤田実は「感情が“現実”を作る時代 ~なぜニューエイジというアメリカの病はこれほど根強いのか~」(『現代思想 スピリチュアリティの現在』二〇二三年一〇月号)で述べる。
また柳澤は、(12)「新自由主義が登場する以前から、アメリカ人にとってネガティブであること、不幸であることは悪いことであり、個人の責任だった」とする。バーバラ・エーレンライクの『ポジティブ病の国、アメリカ』という書籍を第一章で用いたが、ネガティブであることをここまで避ける姿勢は、病的であると言える。

・「推し活」と「ニューエイジ」の結びつき

今回の論文ではあまり、海外の事例をみることが出来なかったが、アメリカでは社会的問題への無関心は課題となっており、そこにはポジティブ・シンキングや「新しい宗教」が原因としてある。こうしたニューエイジの態度に関してはもう少し深く迫る必要があった。
 ニューエイジは、現代の日本にも浸透していると柳澤は論じる。(13)「現実逃避的な傾向が強い今日の日本人にもあまりにもフィットしている」という。(14)「日本社会である種の疑似宗教として機能しているオタク・ファンダム文化とも重なりあう」としている。

「オタ活」の一環として推しの「祭壇」を作ったり、推しのぬいぐるみを連れてアフタヌーンティーに行ったりする様子は、(15)「『ベストフレンド』の『神』とコーヒーを飲むという、(キリスト教)福音派の若者たちとよく似ている」という見方だ。
 柳澤はこうした行動を幼い子供のままごとであれば、微笑ましいという程度にとどまるが、成人の消費活動になった場合は、(16)「際限のない消費になりかねない」と警鐘を鳴らす。筆者も少々行き過ぎた推し活をしている自負があり、そこに現実逃避的な傾向があることは否定できない。こうした指摘は、現代ほど「推し活」が浸透していなかった十七年前の書籍である『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』(香山リカ 幻冬舎新書)でも言及されている。

 幼い子供が、母親と二人だけの世界を離れ、外的世界に向かうときに、ぬいぐるみや毛布に執着するという。そのことは「移行対象」名付けられていて、成長するにつれて不要になっていく。けれども、大人にもこれに似た現象が起きているというのだ。会社のデスクに、キティちゃんなどのぬいぐるみを飾る女性たちは、移行対象を必要とする子供のようだという。

 香山は (17)「一般的に考えて大人が会社という公共空間に、(中略)移行対象(中略)をはっきりと必要としている、というのはやはりおかしな話だ」と否定する。しかし、現代ではこの移行対象の必要性はむしろ強まっていると言える。成人を超えても、可愛いキャラクターのぬいぐるみを公共空間に飾ることは容認されているように思える。


 シルバニアファミリーが大人を中心に、人気が再燃しているという事例もある。「赤ちゃんコレクション」という、シルバニアファミリーの中でも、小さなキャラたちの人形が、二〇一八年から特に人気を見せている。就活のバッグに何匹もシルバニアを忍ばせて面接に向かったというツイートには、八万いいね以上がつけられている。(「自粛生活で『シルバニアファミリー』が人気の訳」東洋経済オンライン)
 大人が可愛いものを持つことの自由は、多様性の時代の後押しもあり、寛容になっているが、そこには、現実逃避と内向き志向が潜んでいるということには、意識的になる必要があるかもしれない。

・おわりに

 卒業論文では初め、『教養としての○○』という書籍がなぜこんなに世の中に多いのか、というテーマを扱う予定だった。どのようなものがあるか、いくつか例を紹介したい。

・『教養としての「世界史」の読み方』(本村凌二 PHP研究所)
・『教養としての財政問題』(島澤諭 ウエッジ)
・『ビジネスエリートだけが知っている 教養としての日本酒』(友田晶子 あさ出版)
・『ビジネスエリートが知っている 教養としての紅茶』(花井草苗 あさ出版)
・『教養としてのラーメン』(青木健 光文社)

 これはほんの一部に過ぎず、本当に大量に出版社を問わず『教養としての○○』という本は発売されている。「世界史」、「財政問題」と言った硬派なテーマに収まらず、「ラーメン」「サウナ」「お笑い」など、何かの入門書にはひとまず『教養としての』を付けておけば良いというくらいに乱立している。中でも、例に挙げたように「ビジネスエリート」という言葉が頭に付くものが多かった。
「ビジネスエリート」たちに、なぜこんなにも色々なことを「これくらい教養として知っておけ」と説くのだろうと、疑問に思ったことが卒業論文の出発点になっている。
 そこから、自己啓発書の研究をするなかで、スピリチュアリティの方面から自己啓発する流れを知り、そこにハマる人と問題点を探る方向へと興味が発展し、こうした形をとることにした。結果として、自己啓発書のジャンルすべてを網羅することは難しく、ビジネス書の方面の研究が手薄になってしまったことは、今後の課題としたい。

自己啓発書はけして、「ビジネスエリート」のためだけにあるものではなく、誰しもがその沼にハマってしまいかねないものだと分かった。それは、小説をよく読む人は、自己啓発書に感化されないという簡単な話ではなく、自己啓発は本以外の場所にも思想として根付いているため、全てを避けて通ることの方がむしろ難しい。心の「処方箋」として付き合いつつも、「自分の幸福の追求」求めすぎることが果たして正しいのかは、常に注意を払わなくてはならない。

【終章 註】

(1)TaiTan 玉置周啓『奇奇怪怪』「平成の胡散臭さ文化論」(二〇二一年十一月二十三日配信)石原書房 八六頁
(2)同上 八六頁
(3)同上 八七頁
(4)同上 八七頁
(5)内藤理恵子『新しい教養としてのポップカルチャー マンガ、アニメ、ゲーム講義』日本実業出版社 二○二二年 五五頁
(6)同上 五四頁
(7)同上 五四頁
(8)レジー『ファスト教養 一〇分で答えが欲しい人たち』集英社新書 二〇二二年 八三頁
(9)同上 八二頁
(10)同上 八二頁
(11)柳澤田実「感情が“現実”を作る時代 ~なぜニューエイジというアメリカの病はこれほど根強いのか~」『現代思想 スピリチュアリティの現在』二〇二三年一〇月号 青土社 二〇二三年 四九頁
(12)同上 四九頁
(13)同上 五一頁
(14)同上 五一頁
(15)同上 五一頁
(16)同上 四九頁
(17)香山リカ『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』幻冬舎新書 二〇〇六年 一一八頁

【参考文献】(掲載順)

書籍・雑誌・論文

【はじめに】
・安達裕哉『頭のいい人が話す前に考えていること』ダイヤモンド社 二〇二三年
・永松茂久『人は話し方が九割 100%好かれる話し方のコツ』すばる舎 二〇一九
・F『二〇代で得た知見』KADOKAWA 二〇二〇年

【第一章】
・岡部光明「自己啓発は『より良い人生』をもたらすか」二〇二〇年六月
・バーバラ・エーレンライク『ポジティブ病の国、アメリカ』河出書房新社 二〇一〇年 
・『SPECTATOR 第五十一号 自己啓発のひみつ』有限会社エディトリアル・デパートメント 二〇二三年 
・大澤絢子『「修養」の日本近代 自分磨きの一五〇年をたどる』NHK出版二〇二一年
・サミュエル・スマイルズ 中村正直訳『西国立志編』求光閣書店 一八九九年 
・佐藤悌二郎『松下幸之助の生き方 人生と経営七七の原点』PHP研究所 二〇一五年
・江口克彦『こんな時代だからこそ学びたい 松下幸之助の神言葉 五〇』アスコム 
二〇二一年 
・渡邊祐介『松下幸之助物語 一代で世界企業を築いた実業家』PHP研究所 二〇一九年

【第二章】
・羽田圭介『Phantom』文藝春秋 二〇二一年 
・砂川文次「羽田圭介作品論『待ちに待った終末』」『文學界』二〇二一年九月号 文藝春秋 二〇二一年
・島田裕巳『日本の一〇大新宗教』幻冬舎新書 二○○七年 
・島田裕巳『反知性主義と新宗教』イースト新書 二〇一七年 
・香山リカ『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』幻冬舎新書 二○○六年
・羽田圭介『滅私』新潮社 二〇二一年

【第三章】
・『現代思想 スピリチュアリティの現在』二〇二三年一〇月号  青土社 二〇二三年
・伊藤雅之『現代スピリチュアリティ文化論 ヨーガ、マインドフルネスからポジティブ心理学まで』明石書店 二〇二一年
・藤本さきこ『お金の神様に可愛がられる方法』KADOKAWA 二〇一六年
・江原啓之『自分のための「霊学」のすすめー人間を磨き、霊性を磨く』ハート出版 一九九五年
・江原啓之『幸運を引きよせるスピリチュアルブック』三笠書房 二〇〇一年
・吉野奏美『お金に愛される魔法のレッスン』SBクリエイティブ 二〇一五年
・大槻麻衣子『愛とお金を呼ぶスピリチュアルセラピー』宝島社 二〇〇五年
・佳川奈未『お金持ちが持っている 富の循環☆スピリチュアル・マネー』青春出版社 二〇二二年
・本田健『お金に愛されるためのスピリチュアルな法則』ゴマブックス株式会社 二〇二一年
・ガイタニディス・ヤニス「スピリチュアルとビジネスの共通の構成性を考える」『現代思想』二〇二三年一〇月号 青土社 二〇二三年
・TaiTan 玉置周啓『奇奇怪怪』「平成の胡散臭さ文化論」(二〇二一年十一月二十三日配信回)石原書房 二〇二三年
・細木数子『運命を開く先祖のまつり方』世界文化社 一九八八年
・『真の幸せをつかむ六星占術の極意―宿命を逆転させる「因果の法則」入門』主婦と生活社 一九八六年
・細木かおり『母・細木数子から受け継いだ幸福論 あなたが幸せになれない理由』講談社 二〇一九年 

【終章】
・内藤理恵子『新しい教養としてのポップカルチャー マンガ、アニメ、ゲーム講義』日本実業出版社 二○二二年 
・レジー『ファスト教養 一〇分で答えが欲しい人たち』集英社新書 二〇二二年 
・柳澤田実「感情が“現実”を作る時代 ~なぜニューエイジというアメリカの病はこれほど根強いのか~」『現代思想 スピリチュアリティの現在』二〇二三年一〇月号 青土社 二〇二三年 
・香山リカ『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』幻冬舎新書 二〇〇六年 
・本村凌二『教養としての「世界史」の読み方』PHP研究所 二〇一六年
・島澤諭『教養としての財政問題』ウエッジ 二〇二三年
・友田晶子『ビジネスエリートだけが知っている 教養としての日本酒』あさ出版 二〇二〇年 
・花井草苗『ビジネスエリートが知っている 教養としての紅茶』あさ出版 二〇二三年
・青木健 『教養としてのラーメン ジャンル、お店の系譜、進化、ビジネス――五〇の麺論』光文社 二○二二年


 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?