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「見ることの塩 パレスチナ・セルビア紀行」 四方田犬彦

作品社

第1部 イスラエル・パレスチナ
第2部 セルビア・コソヴォ
第3部 見ることの塩
2004年、3-6月にテルアヴィヴ大学に、10-12月にベオグラード大学、プリシュティナ大学ミトロヴィツァ分校に滞在した時の記録。四方田氏は映画史研究家。
(2022 02/06)

エドワード・サイードと映画監督アモス・ギタイという、四方田氏が以前から知っていた人を鍵に、イスラエルに渡る。

イスラエルにおけるアラブ文化


イスラム編「日常生活」の章まで。前に読んだ臼杵氏の「イスラエル」(岩波新書)と同じく、イスラエルという国家の謎と複雑な真実がわかって面白い。
西欧に住むユダヤ系の人の中には(四方田氏の友人等)、ユダヤ系という出自は認識しているにも関わらず、イスラエルという国とは一緒にされたくない、という人も多い。

最初はアシュケナージム、施策の方向転換でセファラディムやミズラーヒムという地中海諸国(モロッコなど)、ついでロシア系(イスラエルの文化に染まらずロシア語を公然と話す)やエチオピア系と、「ユダヤ系」の人々が世界中から来る。この土地に来た順に階層が上がる。ロシア系やエチオピア系の場合、セキュリティチェック要員など多少リスキーな職場で働く人も多い。

ユダヤ系の少子化とアラブ系の人口増加で「ユダヤ人の国」という建物が危うくなっているイスラエルではあるが、実はユダヤ系の人々が流出している例があるという。四方田氏が示したのは、インドへの流出。

「フツバ」という礼儀知らずなとか粗野な行動とかいう意味の言葉だけれど、これがイスラエル独自の文化だと四方田氏は言う。建国以来の開墾作業と、常時臨戦態勢という独自の理由によりそれが発達した。これに関しては、新たに来た移民が驚くというから、旧来のユダヤ系の文化にはなかったことらしい。

テルアヴィヴとは、19世紀シオニズムのジャーナリスト、テオドール・ヘルツルのSF小説作品の中に出てくる都市の名前から取られたという。

 テルアヴィヴの街角を歩いていて気がついたことは、今日の日本社会が演歌の旋律から焼肉の味付け、不良少年の隠語まで、多くの要素を韓国の朝鮮文化に負っているように、いやそれ以上の度合において、イスラエルのユダヤ人はアラブ文化から富を得ているという事実だった。
(p57)


この時期の20年以上前に、著者四方田氏は韓国で生活していたことがある。その視点を生かした論考。
例えばファラフェルは、元々はアラブの料理だったものをイスラエル料理として宣伝している、とか。
(2022 02/07)

「若者たちと軍隊」、「テルアヴィヴという都市」


イスラエルに兵役があることは知っていた(無い方がもちろん特殊だが)、女性に徴兵制度があるのはイスラエルくらいではないか、と四方田氏。イスラエルでは兵役終わるまで自由に海外渡航ができないので、兵役が終わると、世界放浪する若者が多いという。その中でも、ネパール辺りでアクセサリーを買い付け日本の路上で売ったりホストになったりして金稼ぐ若者が多かったという。四方田氏のテルアヴィヴ大学の講義に出ていた学生には、こうした体験を持って来る人達がいた。

兵役体験(アラブ人はベトウィン人など除き免除(隔離)されている)を経ると、多くのユダヤ人は公には口には出さないが、占領下のゴラン高原を車で見て回った人のように誇りに思う(サボテンのように柔らかい中身を外壁の棘で守る)というが、中には兵役拒否や兵舎に鉤十字とともに「イスラエル」と書く若者もいる。兵役終わっても、45才までは年に一月元の部隊に戻る必要がある。

世界遺産登録のバウハウス流「白い町」から、南へ。ヤーファ(要塞のある19世紀までの町)に近づくにつれ、アラブ人やミズラーヒムやロシア系、それから出稼ぎアジア系の人々が多くなる。アレンビー通りで無言で穴を掘る男とその周りの人々を描いた「ブラウミフ運河」(エフライム・キション監督)という喜劇映画は面白そう。そして南端には更地のままの地区がある(ハコヴィシーム通り辺り)。ここは元々のヤーファの飛び地でアラブ人居住地だったのを1948年のアラブ人追放の後に更地にしたところ。ここにはモスクの廃墟だけがある。
先に挙げた新たに来た外国人街の描写で、この章最後の部分を引く。

 ネヴェアシャナムの殷賑はそうした新しい外国人人口の急速な増加が原因だった。東京の新大久保やソウルの九老洞で生じているのと同様の現象が、この都市の一角でも生じていた。ユダヤ人国家として厳密に構想されたイスラエルは、こうした一角からゆっくりと解体してゆくようだった。だが皮肉なことにこのネヴェアシャナムは、百年ほど前にヘルツルが『古くて新しい国』のなかで描いた、世界中の言語が語られるコスモポリタンな商業都市の姿にもっとも近いように、わたしには思われた。
(p92)


「イラン・パペは語る」と「イスラエル国内のアラブ人」

前半は、「新歴史学派」と呼ばれた中の一人で、それらの一人ベニー・モリスが第二次インティファーダ以降転向したのに対し、いまだ「ポストシオニズム」の論調を張るイラン・パペと会ったこと。サイードとともにユダヤとアラブが「パレスチナ」という一つの国家を作ればよいという考えを持っている。ホーム・ユニヴァーシティという周りに住む普通のユダヤ系住民を招いて、パレスチナの歴史、アラブ人虐殺の話をゆっくり聞かせるという試みもしている。

後半は、大学学寮に住む少数派のアラブ人学生、イスラエルに住む映画俳優、ヨルダン・アンマンへの短期旅行などの話。ユダヤ系住民がアメリカで白人が黒人に抱くような強迫観念を持つのに対し、「イスラエル・アラブ人」も周りのアラブ諸国に流入したパレスチナ人から、侮蔑的感情と経済的恩恵への憧憬が入り混じった感情を受けている。それら周辺アラブ諸国も、ヨルダンのように国交があり、一時的帰還も可能な場合(彼らがヨルダンの経済を握っていて、旧住民のベトウィンは遠ざけられている)と、レバノンやシリアなど国交がなく難民としてしか生活できない場合とでは、また変わってくる。
(2022 02/08)

「エルサレム」、「壁と検問」

エルサレムからヨルダン川西岸地域へ。
1967年以降占領した東エルサレム。東西エルサレムの境界は今でもよくわかる、という。この時できたユダヤ人街区は、元々住んでいた貧困層のユダヤ系の人々が去って、またこの時新たに作られたものなので、生活臭がないという。
シャロン政権が建設している遮断壁、土地は欲しいがパレスチナ人はいらない、またパレスチナでの水源を分断するためでもあるという。
検問のイスラエル兵はパレスチナ人を粗暴に扱う。

 ついさっきまで高校で善悪の区別を教えられてきたはずの少年少女が、いきなり軍隊に入って実弾入りの銃を渡され、卑小な権力を手に人々に命令するようになる。
(p157)


ガザ地区では、イスラエルが外国人労働者を受け入れたため、地区から出ることがほぼなくなってしまった。開いているのは北のエレズ一箇所。

 十二年おきに人口が二倍に膨れ上がっていくというこの地区に、職もないまま監禁されている若者たちが、その不満の解決策として暴力に訴えないとすれば、その方が不思議かもしれなかった。
(p158)


(2022 02/09)

ヘブロン、ジェニン、そして帰国


というわけで、第一部「イスラエル・パレスチナ」編読み終わり。ユダヤ人入植地に町を分断されたヘブロン、難民キャンプ虐殺があったジェニン…と、話はどんどん悲惨になっていくのに、読む方はだんだん慣れてきて驚かなくなってくる、という展開。これまでもそうだが、映画研究家である四方田氏は、このジェニンに関しても3本の映画を見る。映画を通して世界を見る…というか。

最終章でも二つの映画、帰国途上のパリで見たゴダールの最新作「われらが音楽」はイスラエルと旧ユーゴの要素が混ざり合い、この後セルビアへ行く四方田氏の象徴のよう。一方、帰国の飛行機に乗った時に思い出した「ソラリス」は、緑の大地を周囲から浸す不吉な青、というシーンが、アラブに囲まれたイスラエルという存在を思い出させる。

 わたしはつい先週まで滞在していたテルアヴィヴの街が、急速に遠のいてゆくような感想をもった。この四ヶ月の間、微妙に強弱を変えながらもわたしに付きまとってしかたがなかった不思議な浮遊感から、ようやく解放されたような気がした。と同時に、巨大な非現実感がわたしにむかって押し寄せてきた。
(p215)


イスラエル・パレスチナからパリに来ると、そこはアラブ的なものが露呈し解放されていると感じるようだ。実際には差別化もされていると思われるけれど。
ところが、日本に帰国した直後、テルアヴィヴのバス停付近で爆破事件が起こる。それは四方田氏もよく利用していたバスであり場所であった。現地に連絡とってみると被害者もいるという。

 パリを出発した直後にわたしを襲った蜃気楼のような非現実感は霧消し、わたしは今一度、あのテルアヴィヴの雑踏の現実にいきなり引き戻されたような気持ちを感じた。イスラエルへの旅はまだ終わっていなかったのだ。複雑な気持ちを抱きながら、わたしはこの蜃気楼に似た四ヶ月の滞在に、書くことを通してもう一度向き直ろうと決意したのだった。
(p217)


(2022 02/10)

第2部「セルビア/コソヴォ」


前記イスラエル/パレスティナから3ヶ月後、セルビアのベオグラードへ向かう。その間に韓国の光州と釜山、ニューヨーク、リマへ行っていたという。

ベオグラードで一番目についたのが「廃墟」だという。空爆で破壊された政府系建物は、撤去に資金がいるという理由と、廃墟のままにしておくことで民族主義を鼓舞しやすいという理由とでそのままにしてある。破壊された建物でなくても、様々な時代の建物が使われなくなっていたり、使われているのは1階だけという場合が多いという。
四方田氏はそういう廃墟や半ば不法占拠化された建物を丹念に見て回る。中国系移民と間違えられて襲われそうになったこともあった(ミロシェヴィッチの時代に独裁政権に協力すると約束させて連れてきた人々・・・こういった人々の末裔が自身のアイデンテティを書く時代はくるのだろうか、と四方田氏は考える)。

ティトーの墓はいまはもうほとんど省みられていない。コソヴォでの報復のために破壊されたベオグラードのモスクが修復され、ムスリム代表が演説していた。最後に「製糖工場アートセンター」という郊外にある工場の廃墟の再利用例、様々な意匠が雑多に並び、何の統一感もなく並んでいる。旧ユーゴが「進歩」を掲げていたとすれば、ここはそのような「統合」を「真正面から嘲笑」しているという。

 この混沌とした都市が目下企てている自己言及性の意識に、とうとう触れたような気がした。それは廃墟をめぐるメタレヴェルでの廃墟であり、栄光に輝く歴史の観念をめぐる服喪の行為であるという印象をもった。
(p256)


「敗戦国の街角」


セルビアの人々に話を聞いてみると、意外にも1999年のNATO軍の空爆は「お祭り気分」だったという。セルビア人はそういう歴史を笑い飛ばすことを好む傾向がある。が、お酒など飲んだ後には、敗戦国の鬱憤が噴き出すこともある。
1993年の『ティトー再臨』(ジェリミル・ジルニク監督)という映画は、死後13年を経て突然蘇ったティトーが、ドストエフスキーの『大審問官』のようにベオグラードの街角に降り立ち、民衆と会話するという映画。
セルビアのロックは、旧ユーゴ時代から西側でも評価されていた。四方田氏が見るところ、今も、民族主義者たちが宣伝する「ネオフォーク」に対してのカウンターとして、ロックの力を失っていないという。

p221で、四方田氏が東京大学院生の時に、急にユーゴスラビアへの留学を勧められたとき、傍らの同級生が「行きます」と言って、ベオグラードからそのままニューヨークへ行った平野共余子のことが出ていたが、ここ読んで3、4時間後、平野氏の「天皇と接吻」(草思社…文庫?新書?)の現物を池袋ジュンク堂で見た。
(2022 02/11)

「三人の映画人」と「コソヴォへの旅」

(アルバニア語ではコソヴァ)
前者では、近作の映画のレヴュー(前に書いた『ティトー再臨』の監督の別作品(ドキュメンタリー)含む)と、エミール・クストリツァ、ニコラ・ストヤノヴィチ、ドゥシャン・マカヴェイエフの三人。ストヤノヴィチは黒澤明研究もしていた…この三人の中では一番経済的に恵まれていない環境。マカヴェイエフは1960年代にはゴダールやパゾリーニと並んで「三狂人」と呼ばれ性的過激な作品を作っていた。『魂に空いた穴』では先述のロックシーンで紹介されていたランボー・アマデウスも出演している。

後者ではミトロヴィツァ分校へ。ベオグラードからもバスが出ている。この街はコソヴォの北にあり、セルビア側とアルバニア側に分断されている。分校はセルビア側にあり、プリシュティナなどから避難した学生、ミトロヴィツァ周辺の学生、セルビア・モンテネグロからの学生と三分されている。
国連軍(フランス人が多い)の地図は、現地地名が消されて、パリの地名が仮に付けられていた(GHQの地図もそうなっていたという)り、英語教師の回相談で、アルバニア学生と仲良くしてた思い出など。
この後の章では、分断線を越えてアルバニア側へ向かう。
(2004年当時の記録)
(2022 02/12)

「アルバニア人の側へ」と「ロマ」


前者は上記の続き、ミトロヴィツァの南側へ、それから首都プリシュティナへ、最後にアルバニア側にあるセルビアの飛地で修道院があるグラチャニツァ。アルバニア側なのでモスクがあったり、サウジアラビアなどからの援助による建物があるのはわかるが、何故かヌード写真が大きく扱われていた…これは占領軍?への見せ物なのだろうか。国連軍によりなんとか平和が保たれていた飛地の修道院、ミトロヴィツァ最後の夜に詩の朗読会があった時の、民族主義の高まりと、ヨーロッパーアジア(アルバニア)の二分法が気になると四方田氏は言っている。

後者はセルビア国内(ベオグラードで2箇所)、コソヴォのミトロヴィツァ郊外のロマの集落を訪ねる。セルビア人はすぐ近くにロマの集落があること自体知らないことが多いという。ここのくだりは「ポーランドのボクサー」を思い出させる。この章か前の章かは忘れたけど、小学校廃校の難民キャンプ(ミトロヴィツァのセルビア人の)も周りのセルビア人に蔑視されている。ロマは、セルビア側からもアルバニア側からも迫害を受けた。それを四方田氏は在日朝鮮人と重ね合わせている。

 もしロマが朝鮮半島を通って日本に到来していたとしても、徹底した管理社会に生きる日本人は、はたしてここまでの表象を彼らに対して持ちえただろうか。
(p348ー349)


(2022 02/13)

ボスニア・ヘルツェゴビナ編


ボスニア・ヘルツェゴビナの内戦は、セルビア(新ユーゴ)対クロアチアとムスリムの連合という第一段階の後に、クロアチアとムスリムとの争いという第二段階があった。サライェヴォはベオグラードに比べ、小さいけど整然としていた。が、ユーゴ時代よりイスラム原理主義の影響が強くなってきている。
バスでヘルツェゴビナのモスタルへ。有名な橋も含めてベオグラードやサライェヴォよりももっと廃墟度?が強い、という。セルビア教会が爆撃されているのに対し、ここから近いメジュゴリエというルルドのようなマリア出現の奇跡(1981)の場所は、西欧からも観光客が集まる場所となっていた。

 私の見ることは 塩である
 私の見ることには 癒しがない
(p371 高橋睦郎の言葉)


(2022 02/14)

クロアチア・ザグレブ行き、再びベオグラード

途中でボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア側の首都バニャルカで一泊。そこはセルビア以上にセルビア民族主義が主導している、そんな地域。市内に2箇所あったモスクは破壊され墓以外は更地になっている。
クロアチアでは、セルボ=クロアート語として同一化してきた言語をセルビア語から切り離す(セルビア語には字幕をつけるなど)ことをしている(「時期もあった」と書いてあるから今全ての政策が続いているわけではないようだが)。

ベオグラードに戻り、大学連続講義で三島由紀夫のことをやった時には立ち見も出たという。例の市ヶ谷に私兵を率いて立てこもった事件…三島はセルビアでそれをやったら「成功」しただろうか。あと、次の部に書いてあることなのだが、西欧の人にとって、セルビア人とは性的マッチスモのイメージがあるらしい。それがNATO空爆の一理由とされたし、映画のイメージでもそうした取り扱いが多いのだそう。

ベオグラードから日本へ帰る日、聖ニコラの休日で家庭の祝宴に招かれたりした。経由地のミュンヘンで、四方田氏がボローニャ留学時に出会った(当時は結婚前)、セルビア系とクロアチア系の夫婦一家と再開する。夫は「旧ユーゴの国が全てEUに加盟したら、今までの戦いはいったいなんだったのか、皆考えることになるだろう」と語る。
そして帰国。

 わたしはふたたび日本で、日本人たちに混じって生きることをしなければならなかった。
(p409)


「帰国」という言葉を使わない、使うことができない、様々な思い。

第3部「見ることの塩」


イスラエルでもセルビアでも共通していたものがあった。それはブーレカ(ブレク)という小麦粉を練った軽食。
サイードはイスラエルという国家をオリエンタリズムの産物である、と喝破している。

 それは西欧の内側で生じたシオニズムが、度重なる試行錯誤の末に作り出した擬制の国家であって、現実の上に覆い被さった映像に基づいて建設された観念の産物に他ならない。
(p433)


クロアチア生まれの作家ドゥブラヴカ・ウグレシィチが「バルカン・ブルース」という作品で取り上げた、古代のシモニデスが壊れた家での宴会の席順を記憶で再現するという方法、現代では壊された家に集まった人々を狙って新たな爆発が起こり、記憶は機能不全に陥る。

 ちなみにウグレシィチのこの一節に注目したピーター・ラマドノヴィチは、「シモニデスの死を記録しながらウグレシィチは、まさしく新しい主観性の到来をも設定しているのであって、そのとき彼女はまさしく反復と断片化こそがバルカンの歴史的法則であると提示している」と論じ、ここに古典的な記憶・秩序意識から断絶した新しい証言のあり方が認識論的に始まろうとしている事実を指摘している。
(p442)


そして、日本で閉じこもってこの旅行記を書いている四方田氏は、阿部公房「砂の女」の昆虫採集家のように忘却という砂に押し流されながら砂を掻き分け、漸く立っているという。
(2022 02/15)

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