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「東欧怪談集」

沼野充義 編  河出文庫  河出書房新社


「サラゴサ手稿」第五十三日 トラルバの騎士分団長の物語 ヤン・ポトツキ
「不思議通り」 フランチシェク・ミランドラ
「シャモタ氏の恋人」 ステファン・グラビンスキ
「笑うでぶ」 スワヴォーミル・ムロージェック
「こぶ」 レシェク・コワコフスキ
「蝿」 ヨネカワ・カズミ
「吸血鬼」 ヤン・ネルダ
「ファウストの館」 アロイス・イラーセク
「足あと」 カレル・チャペック
「不吉なマドンナ」 イジー・カラーセク・ゼ・ルヴォヴィツ
「生まれそこなった命」 エダ・クリセオヴァー
「出会い」 フランチシェク・シヴァントネル
「静寂」 ヤーン・レンチョ
「この世の終わり」 ヨゼフ・プシカーシ
「ドーティ」 カリンティ・フリジェシュ
「蛙」 チャート・ゲーザ
「骨と骨髄」 タマーシ・アーロン
「ゴーレム伝説」 イツホク・レイブシュ・ペレツ
「バビロンの男」 イツホク・バシヴィス(アイザック・シンガー)
「象牙の女」 イヴォ・アンドリッチ
「ハザール事典」ルカレヴィチ、エフロニシア ミロラド・パヴィチ
「見知らぬ人の鏡」 ダニロ・キシュ
「吸血鬼」 ペトレ・M・アンドレエフスキ
「一万二千頭の牛」 ミルチャア・エリアーデ
「夢」 ジブ・I・ミハエスク
「東スラヴ人の歌」 リュドミラ・ペトルシェフスカヤ
編者あとがき 沼野充義
出典一覧

足あとの不思議

東欧怪談集。チャペックの短編がやはり面白い。謎は日常的に出合っている普通の人物そのものにある。ただ99パーセントはそれに気付かないだけだ…と。ハンガリーのカリンティの短編は前に読んでいたはずであったが…「悪い子」とは何か考え出すととめどがなさそう。
(2009 03/09)

図書館でチャペックの選集を見たのだが、その中で「足跡」という短編が2つあってどっちも「東欧怪談集」にある「足あと」と違う(みたい)。チャペックは足跡にこだわった作家だったのだろうか?
(2009 03/12)

ゴンブロヴィッチの中欧論

と、読んだ時の情報これだけなので、今回また借りていくつか読み返してみた。

 どんな風にも簡単にさらされてしまうこの平原の国は、長い間、「形式」と「崩壊」の間の大いなる妥協の現場であり続けてきました。ここでは何もかもが消し去られて、分解させられた…。[中略]形式が欠けているという感覚がポーランド人を苦しめてきた。しかし、同時にそれは彼らに奇妙な自由の感覚をも与えたのです。
(p424-425 ゴンブロヴィッチのインタビューから)


(2023 09/18)

同時に借りたダニロ・キシュ「死者の百科事典」とダブりあり。
「見知らぬ人の鏡」(栗原成郎訳)…「未知を映す鏡」(山崎佳代子訳)
記載はない?が、栗原訳の方が古いと思われる。
(2023 09/19)

「笑うでぶ」、「蝿」

ポーランドの作品。
あとがきには「ここには常識的には「怪談」とは分類できないような作品もいくつか入っている」(p427)とあるけれど、上に挙げたのと翌日読んだ2編、合わせて4編始め、「いくつか」ではなく「すべて」ではないか?という気も。「吸血鬼」くらいか、「怪談」は(あとキシュの「見知らぬ人の鏡」も)。少なくとも「笑うでぶ」は違うし、「こぶ」も違うと思う。別にいいのだが…

「笑うでぶ」スワヴォーミル・ムロージェック
久しぶりに読みたいと思ってはいたのよね、ムロージェック。いいわ。笑ってばかりいるでぶが次々出てくる家。それだけでなく、何故か風見鶏も犬も太っている。語り手は忍び込んで家の中心たる部屋で、笑うでぶ達の中心にいる「やせこけて筋ばった男」に出会う。テーブルには地球儀が載っている。

 「つまり、全部で十八人だけか」私はほっとした。「犬と、屋根の雄鶏と、地球儀を合わせて。でぶは十八人というわけだ」
(p77)


「蝿」ヨネカワ・カズミ。ポーランド文学者米川和夫の息子。1992年にウッチ映画大学在学中に交通事故で亡くなったという。沼野充義氏は米川家で家庭教師もしていたという。これ原文ポーランド語。もっと生きていたら多和田葉子のようになっていたかも。

「吸血鬼」、「こぶ」


「吸血鬼」ヤン・ネルダ
昨日、今日読んだ4作品のうち、これだけチェコの作家。(1834-1891)だから完全に19世紀の人。物語はイスタンブール近郊の島で、「吸血鬼」と呼ばれる男に知らないうちに顔を描かれてしまった娘が亡くなるというもの。この舞台となってる島、ひょっとして、ディッシュの「アジアの岸辺」と同じ? いろいろ何かが起こる時空の歪んだ島なのかも。あと、このヤン・ネルダという作家兼ジャーナリスト。実はチリの詩人パブロ・ネルーダのペンネームはこの人から取ったらしい。これが一番の収穫。

レシェク・コワコフスキ「こぶ」
マルクス主義哲学者兼作家。両立しなさそうな感じだけど、なかなかに面白い作品。これは「ライロニア国物語」(哲学的寓話集)の一編。「ライロニア国物語」は国書刊行会より近刊の予定、ここではとあるので邦訳あり…また気になる本が…
こぶが分身化してオリジナルを消す、ここだけ見ると昨年話題になった「異常」(アノマニー? これは未読)みたいだけど、こちらのこぶ分身はでしゃばりでイミテーション感極まる。どちらかというと焦点は、オリジナルの方のバイタリティの無さと、何故かこぶ分身のいうことに飲み込まれてしまう周りの人間。
引用は主題に入る前、医者が集まっているところの会話から。

 「患者を治療するのは、全治の見込みがあるなんてことは、まったく関係ないんだよ。それが医術の基本というものです。治療の目的はただ治療すること。歌の目的は歌うこと。遊びの目的は遊ぶこと。それと同じでしょう」
(p82)


危うく、納得しそうになる(笑)。こんな会話聞いてると、よくこの医者たちが、こぶに効く薬を開発できたなあと思う。「笑うでぶ」にしても「こぶ」にしても「怪談」というより「ハルムスの世界」。あっちほど無意味ではないけれど。
(2023 09/22)

「蛙」

チャート・ゲーザ(1888-1919)
これは「怪談」というより、作家本人が怖い。神経クリニックで助手として働いている頃、モルヒネを打つようになって、第一次世界大戦で負傷し、モルヒネ中毒となり妻を射殺して毒薬で自殺した、という。
作品は家の中にいた蛙を殺す話。この地方では家に毛の生えた蛙が夜中に現れると家人の誰かが死ぬ、という迷信があった。語り手はいつもはそれを信用してはいなかったが、この時は恐怖を感じてその源である蛙を惨殺する(ここ、書き方がかなり緻密なのだが、恐怖にかられて殺した割には、というよりだから一部始終の記憶が貼り付いているのかも。あと、もう少し一般的に蛙って何かのアレゴリーだった気も)。
最後の節は翌朝「驚いたことに、何の痕跡もなかった」…読んでたこっちが驚いた…これ夢落ちなのかよ、そこまで不条理には落ち込んでいないのに夢落ちでなくても処理できるだろう…
ただ、その次の結末は、2週間後に実際に妻が死んだ、というもの。原因とか書いてない(この夜は何も病気とかではないようだ)し、夢落ちのはずが違った結果でなかなか怖い。
そして、夢落ちならぬ作品内落ちではなく、現実にもこの構図が完成して、これはますます恐ろしい。
(2023 09/24)

「吸血鬼」

ペトレ・M・アンドレエフスキ
(北)マケドニアの作家。これは結構「怪談」なのだが、幽霊の行動とそれに対する村人の行動が、若干可笑しくもある。個人的に一番気になったのは、幽霊のせいで川が止まったこと。それも約一年間…こういうのは初めて聞いた。
(2023 09/30)

「この世の終わり」

ヨゼフ・プシカーシ(1951- )

 この世の終わりは人々の終わりです。あなたはもうあなたではないし、私はもう私ではない。見てごらんなさい。他の人がどこへ消えてしまったのかを。誰もがたがいに入れ替わり、それから同時に無へと流れこむのです。
(p225)


スロヴァキアの若手作家。駅で2時間の待ち時間になった時の夢想。浮浪者っぽい人が十字架持って脅し、それから逃れようとして語り手は倒れ込む。夢から覚めるち状況は逆さまで、浮浪者っぽい人物が倒れて列車に轢かれたらしい…という話は、日本作家も得意?そうな気もする。
日本人の場合はp225の文の方が常態?

「一万二千頭の牛」

ミルチャ・エリアーデ
(上の作品一覧は目次からとったから「ミルチャア」になっているけど、作品直前の作者紹介では「ミルチャ」になっている)
作品はブカレスト北駅付近、多分第二次世界大戦前後の空襲された街。ゴーレという男が、空襲警報が鳴ったので防空壕に入ったらそこで上流階級の夫人と女中、そこに下宿している男の3人に出会うという話。作品冒頭の居酒屋に戻ってきて、それを主人に話すと空襲警報は今日は無く、その3人は前の空襲で亡くなった、という。強情っぱりのゴーレは信じられず、ちょうど居酒屋に入ってきた男達がその界隈の後片付けをしたとのことで一緒に現地に戻るが…
という話。現実と幻想の合間にある、子供を呼ぶ母親の声の使い方を含めさすがに巧いけれど、表題の「一万二千頭の牛」はどうしてつけられたのか。これは、このゴーレが山師に騙されて手を出した牛の投機のことで、ゴーレはずっとこの山師に激怒しているのだが…この設定含めいるのかな?
(連作短編で他に絡むのだったら別だけど)
(幻想部分の防空壕の3人の会話の中でも、この山師は出てくるが)
怒りで見境つかなくなった(+5月なのに暑い日で軽く熱中症?)ところに幻想は潜む?
(2023 10/01)

関連作品


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