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「いいなづけ(下)」 アレッサンドロ・マンゾーニ

平川祐弘 訳  河出文庫  河出書房新社

いよいよ「いいなづけ」も下巻に入り、ドイツ人傭兵部隊が立ち去ったのも束の間、ペストが侵入し猛威を振るう。第31章から。

 だがしかしこの話すということにかけては―これはいかにも人間に独特な能力であって、右にあげた他の能力(よく観察し、よく聴き、比較し、考量する・・・補足)すべてを合したよりもずっとたやすく出来てしまうことなのである。だからその点についてのわれわれの咎―というのはわれわれ人間一般の咎ということなのだが―は、やはり多少大目に見てやらねばならぬものと思う。(P139)


「話す」ということに関しては、胸中で話すことも合わせるとこの小説においてはかなり「特権的」な役割を作者から与えられていると思う。「話す」には、胸中で自分自身に話すとしても、一旦言葉にしなくてはならない。言葉にした以上、それ以前のもやもやした曖昧な状態とは違った「権威」を持つことになる。たとえその「権威」が誤っていたとしても。

そしてこのペストの章で見た通り、実際には誤ることがほとんどではあるが、それでも民衆の「言葉」を信じ、「言葉」に賭けることしかできない。とマンゾーニは考えているのかもしれない。 
(2009 05/03)

「いいなづけ」の第33章から、レンツォとアッボンディオ司祭の会話。ペストに罹ったものの治癒したレンツォは久しぶりに故郷の村へ帰るが、そこでペストに罹って痩せ細った村の司祭アッボンディオに出会う。第8章ではレンツォの為に災難にあった司祭は有難迷惑気味で「もう帰ったらどうだ?」と話しかけるが、
 

司祭さんはいつももう帰れなんですね。(P201)


と、返される。苦笑である。
もっとも、アッボンディオはペストで死ぬわけにはいかない運命にある。何しろこの小説は最後(第38章)でレンツォとルチーアが結婚しなければ幕が下りず、その為には村の司祭が必要不可欠なのである。アッボンディオはレンツォに感謝しなければならない立場にある。
(2009 05/08)

一昨日、読んだ第35・36章では、いよいよラスト大団円に向けての最後の筋の転換。ミラーノのペスト避難院でレンツォ・ルチーア・クリストーフォロ神父・ルチーアに横恋慕した領主ドン・ロドリーゴが集まってくる。そこで神父は、レンツォに「汝の敵を愛せ」と彼の結婚を邪魔だてし今は瀕死のドン・ロドリーゴの傍らで一緒に祈り、またルチーアの「結婚しない願」を解いて、これでやっと二人は結婚できそうである。

「いいなづけ」は今まで読者からすると、「このいいなづけの二人は幾多の困難を超えて無事結婚できるのか?」という俗な意味を持っていたのであるが、ここでの二人に対するクリストーフォロ神父の言葉をみてみると、「いいなづけ」が俗な意味から聖なる意味に変換されていることがわかる。神に祝福され、いや、神に選ばれた二人。レンツォの例で見ればわかる通り、この「幾多の困難」で彼は神の愛を子孫に伝えていく人物に変化していった。その意味での神に認められた「いいなづけ」であったわけである。

・・・と、こう考えてみると、この小説の最初の紹介で書いた「スコットの弟子?で、教養小説のように主人公の成長に重きを置いた小説ではない」という自分の考えが否定されてくるようにも思えてくる。が、やっぱり、ドイツの例えば「魔の山」辺りの教養小説とは少し意味合いが違うような、そんな気もする。ここの問題を詳しく論じていくことが出来れば、それだけで比較文学の主要テーマになると思うのだが・・・そこがうまく言い表せない。(だいたいが「ヴィルムヘルム・マイスター」未読のまま・・・) 
(2009 05/14)

別嬪の空豆
おはようございます。
さて、「いいなづけ」全38章先程読み終わり、やーっと(この「ー」の間に38章、上中下3巻、1ヶ月半の読書期間がある…)いいなづけ同士は結婚できました。もちろんアッボンディオ司祭の下で。
いろいろ言いたいことや考えてみたいことはあるのですが、とりあえず一言。
「やっぱり空豆なのかよっ」
(空豆…ベルガモ(レンツォ達が移り住んだ)辺りで、ミラーノ領の人々を呼ぶ俗称)
(2009 05/18)

「いいなづけ」からの経済史、法制史

昨日で「いいなづけ」の第37、38章を読み終わり、これで(解説除いて)全て読んだことになる。第37章では糠雨の中、レンツォが故郷の山を見るシーンが印象的。ここは第8章の一行が村を去るシーンと対をなしている。鋸状の山も見える。糠雨のシートが乱反射して、後の時代のイタリア移民達が自分の村を新たに作るべくアメリカの大地を見ている姿もそこに映し出されているよう・・・多くの人々にとって、この第8、37章の場面には思い入れがあり、それらを交差し累積すれば面白い仕事ができるのかな、などと思わず考えてしまう。

第38章は大団円。アッボンディオ司祭の陽気な豹変ぶり?に驚きつつ、レンツォは「農業か、産業か」の二択を考える。まずはベルガモ近郊の村で農業。ところがちょっとした村人達とのいざこざで居心地が悪くなってしまう。ちょうどその頃従兄のボルトロが織物工場の共同経営の話を持ち出す。そうしてレンツォは産業の道を歩んで、子供も産まれてめでたしめでたし・・・という結婚式以後のこうした筋は、ひょっとしたら人によっては「蛇足」と思うかもしれない。ただ、そこにマンゾーニは何を語ろうとしたのか、を考えてみるのも面白い(自分は筋的にもこの流れはあった方がよいと思う)。

19世紀のマンゾーニがここで17世紀の一農民の選択を描くことによって、「心性」の経済史を語りたかったのかもしれない。そして、そのような一農民を描くことによって、現にマンゾーニが生きていた19世紀の社会に何を望んでいたのか?「鉄砲の玉」と揶揄される連発されるだけの17世紀のお布令と、マンゾーニの頃の法制との比較も面白そうであるし。イタリア社会が立ち現れてくる「いいなづけ」は、社会史はもちろん、経済史、法制史的に見ても有用な読みを与えてくれると言ってよいだろう。 
(2009 05/19)

限界と距離
今朝ほど「解説」を読んだ。初版時の解説とそれについていたホーフマンスタールの批評、それに文庫化に際しての海外文学の翻訳と研究についての解説と豪華3本仕立て。

そのうち前2つには、「いいなづけ」の魅力として(社会的にではなく神に対しての)人間の限界を知り、限界の喜びを知る、という点と、もう一つ作者マンゾーニの登場人物や思想などそれぞれに対する一定の距離感という点、この2点が共通に挙げられていた。

「限界の喜び」とは聞き慣れず、今の世の中にはどんどん欠けていっている言葉だと思われる(小説内では、ルチーアの願を解く場面など)。また、ホーフマンスタールの批評には「あらゆる瞬間にはすべての限界を飛び越えて無限なもの、神へ、そのまま直行するという可能性をも秘めている」とも書いてあった(こちらの典型的な場面はインノミナートの回心)。

「距離感」・・・こちらは、「作者の分身」のような人物も、狂言回しのような人物も、作者が展開したいと思っている思想や効果も、表には出てこない、全方位にわたって等距離にマンゾーニは立っている。こういう小説は実は、一般の多くの人が思っている小説のイメージではないかとも思うのだが、その条件を満たしている小説は驚くべきほど少なく、だいたいが何かしら歪んで(といってもそこが魅力でもあるのだが)いるものである。その意味で「いいなづけ」は希有な一例と言えるのではなかろうか。 
その背後には「劇」的な文化思想があるのでは?神の御前で催される演劇。 
(2009 05/20)

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