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「最初の物語」 ジョアン・ギマランイス・ホーザ

高橋都彦 訳  ブラジル現代文学コレクション  水声社

読みかけの棚から
読みかけポイント:「第三の川岸」、「喜びの縁」、「名うての」の3編のみ。「第三の川岸」は早稲田文学2015年冬号に宮入亮訳でも掲載されていて、読み比べ?した。

「第三の川岸」翻訳読み比べ

このホーザは、早稲田文学2015年冬号に「第三の川岸」が訳されている(早稲田文学では「ローザ」になっていて、訳者は宮入亮)。
突然カヌーで川の真ん中に停泊して接触を断つ語り手の父親。ノアの方舟への連想も書かれているが、それよりも「第三の男」三途の川の渡し守のイメージの方が自分には近い。ともかく諸外国語に堪能(日本語も?)で新語をたくさん詰め込むところ、ブラジルのジョイスそのもの。
ホーザはミナス・ジェライス州の小都市生まれ。同じ州のミルトン・ナシメントらによって、この「第三の川岸」を歌詞にした歌が作られた。

最初に読んだのは、早稲田文学の宮入氏の訳の方。その後、高橋訳と見比べてみて、あれれ、結構違うものだなあ、と思った。作品の最後、そして書き出ししかチェックしてないのだけど、高橋訳の方が大仰、というか神がかり的?に書いてあるのだ。それに比べては滑らかな宮入訳では気づかなかったカフカ「判決」の父親との相似も、この訳だから気づいたのかも。

まずはラストシーンから。

 父が僕の声を聞いた。彼は立っていた。水中の櫂を動かし、同意した様子で、こっちにむかってきた。すると、不意に、僕はひどく怖くなった。なんと彼が腕をあげて挨拶の仕草をしてきたからだー最初にそうしてから、なんて多くの年を経たことか!
(p258-259 宮入訳)

 親父は俺の言うことに耳を傾けたのだ。立ち上がった。頷いてオールを水に浸し、舳先をこちらに向けた。すると、俺は突然、心底から震えたのだ。というのは、その前に親父が腕を上げ、身振りで挨拶したからだーあれほどの歳月が経った後の初めての挨拶だった!
(p56 高橋訳)


ここだけでも随分違う。ほぼ年代的には同時期の翻訳のはずだが(時間的には高橋訳の方が後に出た)。下の方が、その場にいるような臨場感があって凄みがある。上の方はそれに比べ後の回想のような感じ。2番目の文とかにもそれが現れている。一番の理由は「父」と「親父」という単語の違いだろうか。

次は書き出し段落の一番最後から。

 しかし、ある日、僕らの父が一艘のカヌーを作ってくれと命じたことがあった。
(p255 宮入訳)

 ところが、何とある日のこと、親父が自分のためにカヌーを一艘注文したのだ。
(p49 高橋訳)


この、筋からいって、一番重要なところ。宮入訳ではするりと抜けて、ああそうですか、という印象だったけど(後で気づいて呆然となる)、高橋訳では、「何と」である。それも「自分のために」。この二つの訳、訳者がどのように作品を読んでいってもらいたいかの着地点が全然異なるのでは。自分の好みは宮入訳の方だけど・・・
(2018  11/25)

訳の違いの追加
作家の名前。宮入訳ローザ、高橋訳ホーザ。
作中の語り手の…宮入訳 妹、高橋訳 姉。

「喜びの縁」、「名うての」

冒頭の作品、「喜びの縁」。この短編と最後の短編「梢」がセットになって、建設中のブラジリアを訪れた少年の話になっている。「喜びの縁」は解説にあるように「死」が重要なテーマ。
首都建設中の工員が少年と家族の前で「試しに」一本の樹を建機で倒してみせる。

 彼は震えていた。樹はあれほど烈しく死んだのだ。細くて美しい幹と、その枝の突然の最後のさざめきーそれはどこからともなくやってきた。樹は石のように黙った。
(p17)


これに七面鳥の死も加わり、最後の蛍が果たして「希望」に思えるかどうか、自分はそこまでは思えなかった…
(2018  12/24)

2編目「名うての」読んだ。語り手が医者だってどうしてわかるのだろう(笑)
(2019 01/11)

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