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「不在の騎士」 イタロ・カルヴィーノ

米川良夫 訳  河出文庫  河出書房新社

先週から夜寝る前にちびちびやっているカルヴィーノ「不在の騎士」。「我々の祖先」三部作の最終作。翻訳はこの米川訳(元々は国書刊行会)と、脇功訳の松籟社版がほぼ同時に出た(こちらは1989年)。

空っぽの騎士

甲冑だけで中身は空の騎士アジルールフォ、父の敵を討つことが目的の熱血?青年で、割と早く(笑)敵を討ってしまってからは女騎士に恋してしまうランバルト、その女騎士はどうやら唐突(第4章から)に物語の書き手として現れた尼僧と同一人物(に作者にされてしまう)。そして見たものの仲間だとすぐに思い込んでしまうグルドゥルー。背景はシャルルマーニュのサラセンとの闘い。

  ここには存在しておりながら、自分の存在しておることを知らぬというこの男。そしてむこうには、おのれの存在しておることを承知してはいるが、その実、存在しておらぬわしの臣将!
(p42)


シャルルマーニュがアジルールフォとグルドゥルーを指して言った言葉。この二人。ドンキホーテでもあるし、グルドゥルーはのちのQfwfqの前身でもある。

  しかしそれは先ほどまでのあの完璧な武芸の達人といった仕草ではなく、皿だろうと刷毛だろうと男の頭めがけて手当たり次第に投げつける、怒りに我を忘れた女性の仕草そのものだった。
(p71)


昨日までのところこのページまで。
ここで現代の(男性)読者はシャルルマーニュの御代から、急に現代に連れ戻される。そして苦笑するのだが、こういうところは翻訳も神経使いそう。
現代女性読者はどうなのかな。
(2018  10/08)

シャルルマーニュと現代の重ね合わせ画法

  みずからに確信はなく、ただ幸福に酔いつつまた絶望し、青年は走って恋をする。青年にとって女とは、確かに存在するその女であり、ただ彼女だけが彼にその確証を与えることができるのだ。しかし女もやはり、存在して存在しないのだ。
(p97)


不在の騎士アジルールフォが象徴しているのはいろいろあって、ブラマンテもその一つ、らしい。
その次の章、小説の半分くらい。これまでの総括とこれからの急展開…を感じる。主な登場人物たちが皆動き出す。
その中から、青年騎士ランバルドのところを少し。なんか彼は取り乱しているらしい。

   ぼくはここにいる、若く、愛をたっぷり充電させて。
(p128)


当然だけど時代考証がおかしい。けど、前もちょっとあったように、だから、こういう物語設定時期と、語り手カルヴィーノがいる現代とが語りの次元では重ねて透き通って見える、という仕掛けにも、読者は慣れてきている。こういう布置を見せているから、物語最終部分の書き手尼僧とブラマンテの同一化というのにも納得してしまう。
(2018  10/19)

未来への疾走、または遁走


「不在の騎士」をようやく読み終えた。

 滑らかなこのページのなかをあらゆるものが動いておりますが、その表面には何一つ目につくものはなく、何一つ変わるものもありません。ちょうど、ごつごつと皺だらけのこの世界の殻のなかでは、あらゆるものが動いていながら、何一つ変わらないというのと同じです。
(p161)


書き手修道尼が書くこの文章は中世という時代を越えて、どこか不特定な端緒の時代を思わせる。「世界の殻」という表現を地殻という概念がないこの時代にぽんと置いて行く。そしてまたしばらく物語の筋に戻って行く。オルランドとか聖杯の騎士とか既存の物語の再構成を寄せ集めながら。

 存在するということだって、学びとるものなんですよ…
(p210)


とトリスモンドが前に聖杯の騎士から守った農村の人に言われる。この農村民も以前は権力の言いなりで「存在」しているという自覚がなかった「非存在」の仲間。カルヴィーノはアジルールフォやグルドゥルーのような「非存在」を中心に描きつつも、本当に主題としたかった(少なくとも政治的見解には)のはこちらのほうではないのか、いやそうではないのか。それは自分にはよくわからないのだが、グルドゥルーは存在を学ぶことが果たしてできたのだろうか。
そして、残りのこの二人は?

 過去形の物語から、そして慌しい身振りで私の手を引いてゆく現在からも、ほら、御覧なさい、未来よ、私はお前の馬の背に乗ってしまったの。
(p214)


女騎士=書き手修道尼と若き騎士ランバルドは存在を学んだかどうかも不明なまま、どうやら未来へ向かって行ったようだ。ここで前のp161の文章などを顧みていくと、この作品執筆中にカルヴィーノは「レ・コスミコミケ」や「柔らかい月」などのイメージは既に描いていたとしてよさそうだ。
(2018 10/21)

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