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「九夜」 ベルナルド・カルヴァーリョ

宮入亮 訳  ブラジル現代文学コレクション  水声社

アメリカの人類学者とブラジル

図書館で借りてきた。作者は1960年リオデジャネイロ生まれ。
この「九夜」はアメリカの人類学者クエインがブラジルのクラホー族の村で自死したことをきっかけに、その記事を見た語り手の「私」と、クエインと九夜話したことのあるマノエル・ペルナという技師の書簡がクエインという人物をあぶり出す。欠落部分は読者に委ねられる、という作品。レヴィ=ストロースなど実在の人物も出てくる(クエインは実在したのか?)。彼らが来たのは第二次世界大戦直前、ブラジルはヴァルガスの独裁政権下。ここに来る前クエインはフィジーで人類学研究で成功を収めている、が。

 一つの死が様々な死の原因を示すというそのこと自体に意味があると言えるのではないだろうか。
(p242)

 インディオたちのなかでは本当も嘘も等価であるように、何が真実か嘘かなのかではなく、問題は全てどう捉えるかということにあるのだ。
(p245)


他の文学作品からの引用、ポンジュの「カタツムリ」の詩、カルロス・ドゥルモン・ジ・アンドラージ、メルヴィルの「白鯨」、それにコンラッドの「秘密の同居人」(ちくま文庫の短編集に有り)「ロード・ジム」など。
(2021 03/21)

「手紙」の謎

 これはあなたがやってきたときのために。覚悟しておかなければならない。誰かがそう前もって教えるだろう。ここまであなたを導いてきた真実と嘘が意味をもつことなどない土地へ入ることになる。
(p9)


「九夜」冒頭。マノエル・ペルナという技師の手紙(らしい)。現代(2001年の新聞記事が起点)からクエインを追う「私」の語りと、このマノエル・ペルナの手紙が交互になってこの小説を構成しているのだが、この手紙がよくわからない。何かを隠しているのか、理解を拒もうとしているのか、そもそも「あなた」とは誰? とにかくこの冒頭で既にこの小説のテーマの一つである「真実と嘘」というのが出てきている。

 彼はほとんど子供のように科学やテクノロジーに魅力を感じていた。人間が死から逃れようとすればするほど、自らの破滅に近づくのだとは考えなかっただろうし、おそらくそうしたことが科学の隠された不実なる意図、その代償なのだということは彼の頭には浮かんでいなかったのだろう。
(p21)


これは第2章、現代の「私」の語り。ここには「私」(カルヴァーリョ自身の考えと言っていいのかはまだわからないが、解説を見る限り、またオートフィクションのスタイルを感じさせることもあって、案外イコールに近いのでは、と推測してみる)の考えがみられる。でも、これはまだ「私」がクエインに興味を持った最初期なので、この後「私」のクエインの理解が変わっていくのではと思われる。徐々にクエインは芸術等に興味を持ち出してきたが、科学と芸術どちらにも開いていたと解説にあったし。
(2021 03/28)

結局、購入して最初から読み直すことにする。
(2022 09/19)

写真から逃げた男

 物語というのは何よりもまず、それを聴く者からの信頼、解釈する能力に依拠しているのだ。
(p11)


現代小説のうちで書くことについての小説は多数ある。一方、読むこと聴くことについての小説はそれほどにはない気もする。小説冒頭から、読者に謎かけあるいは前振りをしてくる。となると「あなた」とは読者なのか。

 三〇年代半ば、ニューディール政策が開始された頃、フランツ・ボアズによって運営されていた、コロンビア大学の人類学部は学問的に社会における偏見の根を断ち切ろうとしていたリベラルな思想に惹かれた学生たちを受け入れた。生徒や同僚の証言によれば(ルーズ・)ベネディクトは、帰属している世界に肌が合わず、アメリカ文化の規範については何らかの形で適合することができない学生たちをひいきにしていたという。
(p24)


これは、フィクションと現実のはざまをさすらうこの小説の、おそらくは現実に近い側の興味。視点人物ブエル・クエイン含めこのような学生が、現地に一人だけでなく数名集まっていた、という事実に、おそらくブエルの自殺の数パーセントの理由があるのだろう。

続いて、カストロ・ファリーア(彼も人類学者、p45掲載の写真にもレヴィ=ストロースやエロイーザ・アルベルト・トーヘス(リオデジャネイロの国立博物館の館長で、クエインらのアメリカ人学者の監督もしていた)などと一緒に写っている。逆にそこにはクエインの姿がない)が作者と思われる「私」にクエインについて語るところ。

 彼はいつもそんな妄想を生きていた、つまり『のように』ではなく現実に『である』ということ。彼は外的な文脈から完全に私的な生活を守ろうとしていたんだよ
(p52)


世の中から期待される一連の「役割セット」からの自由。「人類学者」でも「アメリカ人」でも「夫」(クエインが結婚していたのか否かは様々に語られ、解説によると最後までわからないままだという)でもなく、「ブエル・クエイン」ですらない、その時々瞬間の自分そのもの。それを守り通そうとしたのか。
また…

 一度、彼は私にこう言ったよ。『カストロ・ファリーア、僕は世界にこれ以上見るものが何もないんだ』。かつて、最も荒っぽく、あらゆるもののなかでも最も卑しい仕事ではあるが、世界を巡る船の乗組員だったんだ。彼は私に世界中を巡ってしまっていて、もうこれ以上見るものがないのだと言った。孤独な人だった。
(p59)


この小説で語られるクエインの自殺の理由のその一つだろう。他にもこれまで、両親の離婚とか彼自身の病気とか挙げられてはいる。ここの乗組員云々は、「ロード・ジム」との関わりで語られるであろう箇所。
読んでいても意味が取りにくい、わからない文章も多いが、とりあえず読み進め、後から振り返ると違った風景が見える小説だ、これはたぶん…と思って先読みを心がけていく。
(2022 12/08)

人類学と共有する小説

 ある人々の夢は他の人々の現実なのだ。
(p71)


ブエルが中国滞在中に、中国から出たいと言ってきた青年について。ここの挿話はコンラッド 「秘密の同居人」を踏まえていると解説にあり。
次は、まだ語り手「私」がブエルを知る前の、レヴィ=ストロースへのインタビュー(パリにて二度)。以下はレヴィ=ストロースの言葉。

 私がブラジルにいたとき、五十年前のことですが、いたく心を動かされました。もちろん、あの絶滅に脅かされている小さな文化の運命にね。五十年後には、私を驚かす確信を得ました。つまり、私自身の文化もまた脅かされているということです。
(p77)

 人格がもつ特徴として彼自身が経験していた絶望を集団的に表現している文化をもつ民族を彼は見つけたのではないかと私には思える。
 彼らが永久にいなくなってしまうのを阻止したかったのだろう。彼らについて書いていたであろう本があるとすれば一つの形として彼らを生かし続けることになっただろう。そして彼ら自身をも。
(p84)


この本のあらすじざっと読んだ時には、これは一人類学者が何かについて迷って自殺する物語であり、人類学者であるということは、史実でありその人物の一つの肩書きにすぎないと考えていた。しかしここまで来ると、彼と彼の自殺とトゥルマイ族の現状が不可分になっていたこと、人類学の内容とも密接に関連し合っていることがわかってくる。

 息苦しくなって目を覚ますと汗でびっしょりになっていた。彼は私がそうした夢についてどう思うかたずねた。そして私が答える前に、トゥルマイ族は夢を眠りながらにして見る方法と考えているのだと言った。
(p85)


前のp71の文章と付け合わせると、トゥルマイ族が恐れていた夢は、ブエルにとっては日常だった、ということか。
(2022 12/10)

上の方の時間とカントゥヨン

第11章は今までの章よりかなり長く(まだ読み終えていない)、「私」の父の飛行機話(ブラジル奥地では飛行機は自家用…ここでの「私」が作者カルヴァーリョと同じかは不明、重なり合う面もあるとは思うが、かなり安く広大な土地を手に入れたとかその辺はどうだろう?)の後に、「私」がクエインを追ってカロリーナへ、またクエインが自殺した(墓碑がないため、推測で探すしかないが)場所へ、クエインの自殺の理由を探しに向かう。マヌエル・ペルナ(もう一方のパートの語り手)の娘、当時実際にクエインにあったインディオの老人、そして公式見解、とそれぞれやはり食い違い、ミステリー要素も濃くなる。

次の文章は、カロリーナの町の鐘楼に登った場面。

 私は一人きりだった。風の他には何も音が聞こえなかった。目眩を感じたりはせず、あたかも初めて自分の身体が制御できなくなるのを意識し、あたかも私の意思へむけられた外的な力が一方の時間から上の方の別の時間へと私を投げ出すかのようであった。あの広がり全体の南のどこかに、ブエル・クエインの遺体が埋葬されていたのだ。
(p110)


「一方の時間から別の一方の時間へ」ではなく、「上の方の時間」というのが気になる。「私」がこれほどクエインを追いかけているのは、「私」がクエインの人生を生き直したい、と思っているのではないか。もしそれが可能になるのならば、それはこうした状況でしか起こらないだろう。

先のクエインに会ったことのある老人は、クエインのことを「カントゥヨン」と呼んでいる。ここではその名の意味はわからなかったが、あとで「村のインテリ」と同行の人類学者にからかわれている若者夫婦に聞くと、「なめくじ、蝸牛、その痕跡」だという。ただこの人類学者によると、名付けは「偶然に空いている名前が割り振られ、意味は全く関係ない」という。しかし、「私」にとって「全く関係ない」とはどうしても考えられなかった。

 つまり、「カントゥヨン」は、私にとっては、蝸牛の家であると同時に、世界における彼の重荷、どこにいようとも彼が運び、雨宿りに役立つ殻、死によるのでなければ解放されることのない彼ら自身の身体、彼にとってのここ、そして彼にとっての永遠の今となっていった。「カントゥヨン」は私には蝸牛の痕跡になっていったのである。
(p114)


クエインの自殺のとき、まずクエインが自分の身体を切り刻み、それを2人の同行していたインディオに見られたことによって首を吊る。前段階で自分の殻を壊そうとする衝動に駆られ、見られたことで後戻りできないと悟って自殺した。そう考えられないだろうか。
上の文章は続いてこう語られる。

 そのイメージは私に蝸牛たちについてのフランシス・ポンジュのテクストを思い出させた。「今の君として君自身を受け入れなさい。君の欠点に応じて。君の寸法に従って」。
(p114)


さて、この老人が「私」のレコーダーをどうしても欲しがる場面や、このあと(まだ読んでいないが)「私」がこっそり食べたチョコレートをインディオたちがねだる場面は、解説で「未開」からの「文明」への奪取、という文脈で書かれている。まだこの辺り自分の中で整理がついていないが、その二分法を便宜的に受け入れた上で、両者のバランスが崩れていく瞬間であることは確かだろう。

こうなると、ポンジュの詩を見ないわけにはいかないではないか…

 彼らの分泌そのものが、形をなすようなぐあいに産み出される。彼ら自身に対し、彼らの欲求に対して外部にあるものの何一つとして、彼らの作品ではない。彼らの身体的存在にとって-他方-不釣合な何ものも。彼らの存在にとって必然でないもの、必須でないものは何もない。
(p28-29 「フランシス・ポンジュ詩集」阿部良雄訳 小沢書店)


(とりあえず今はここを挙げておく)

虚構の存在しない世界

第11章を最後まで(150ページ越え)。「私」は、村のインディオたちが行う「洗礼」も、村から出た後も「親戚」として村人からの執拗な電話(だいたいが無心)も応じなかった。そうした「私」に対して村人はけなしたり笑ったりした。その「私」によれば、クエインもまた、同じように村人との「親戚」付き合いを拒否したのだという。

 彼は次のことを言っただけだった。「あなたは過去について何を求めているのですか?」と。彼は繰り返した。そして、彼の牛のような執拗さを前にして、私は彼の質問に答えることができないということを認めざるを得なかった。フィクションが何なのか(実際のところ、彼は興味がなかったが)を理解させることもできなかったし、私の過去への関心も現実に影響をもたらさず、最終的にはすべて作り話になるのだと納得させることもできなかった。
(p134)


いったい、一読者としての自分はこれらの問い、これがフィクションなのか、フィクションとは何なのか、について理解しているのだろうか。クラホー族には虚構という概念自体が存在しない。虚構の成立と過去への興味は表裏一体、ほぼ同時に生まれてくるものだと思う。
(2022 12/12)

自分という蝸牛とアンドラージ

 彼が世界を旅したことについて話していたあるとき、私がどこへ行き着きたかったのかと尋ねると、一つの視点を求めていたのだと言った。私は彼にこう質問した。「何を見るために?」彼はこう答えた。「視界にもう僕が入ってこないような視点さ」。
(p154-155)

 それはそのとき、自分自身からの、新たな危機が偶然起こるなかで、彼を殺そうと迫ってきていた分身からの逃亡となっていた。新たな危機が目前に迫っていることを感じ、手遅れになる前に出て行くことを決めたに違いない。孤独のなか、彼の亡霊たちにつきまとわれながら過ごし、自分自身のことを、その人から解放されようともがく他人のように見ていた。
(p157)


自分というカントゥヨン(蝸牛)の殻を捨てようとした、周縁に追いやられて行くインディオ達を助けようとした、両親の離婚…など、クエインの自殺の動機の候補はいろいろ出てきたが、まだあるらしい。
それが、手紙パートで「あなた」と言われている、若い頃のクエインのアパートへ侵入して顔写真を撮りにきた男と手紙の書き手マヌエル・ペルナと、それからクエイン自身と、何か関係があるらしい。現代パートで隠された手紙への言及が何度かあるのだが、それはひょっとしたら手紙パートのテクストそのままなのかも。
あとは、クエインは結婚しているのかどうかの謎もある。今までは、妻帯者の方がブラジルで信用されやすいという理由でその振りをしていると考えていたけど、そこに関わる女性も実はいるみたい。

 ブラジルはというと、間違いなく、最初の接触で先住民の文化から最も好ましからざる特徴を吸収してしまった。
(p170)


追い詰められて外界と接触できないインディオ民族の近親相姦と、それと並行する構図のクエイン始めとする男達の関係。作品構図とすればこのようなかたち。この文章自体が示すブラジルの捉え方はどうだろう?全ては正しくはないだろうけれど、一理はあるのかも。

最後に詩のコーナー? ドゥルモン(カルロス・ドゥルモン・ジ・アンドラージ)の「哀歌一九三八年」から。

 君は廃れた世界で喜びもなく働く、/そこでは形式や行為がいかなる例を閉じ込めてしまうこともない。/君はあくせくと普遍的な身振りを実践し、/君は暑さ、寒さ、金欠、性欲を感じる。/(…)誇らしい心で、君は自分の敗北を告げようと/そして集団的な幸福を次の世紀へ先送りにしようと急ぐ。/君は雨を、戦争を、失業と不公正な分配を受け入れる/君一人ではマンハッタンの島を爆破することはできないからだ
(p160 「/」はたぶん改行?)


そういえば現代パートの冒頭は2001年のニューヨークテロから始まっていた…
(2022 12/13)

一つの石

いよいよ佳境に入ってきて、あと20ページほど残して、一旦まとめる。
「私」の父の見境ない女依存症と病気、病院に入れられて3日間「私」は昼夜付き添うのだが、その部屋の同居人の描写が重なる。毎日若い男がやってきて、この隣の病人のお気に入りだというコンラッド 「秘密の同居人」、「ロード・ジム」(「私」もお気に入りだったという)を朗読している(あと、「白鯨」第42章「鯨の白さ」もこの老人のお気に入りだという)。何かこの老人は誰かをずっと待っている。3日目、「私」は看護婦を呼んでもらいたいのか、とその老人に聞くと、彼は「ビル・コーエンじゃないか!」と「私」に繰り返す。そしてその興奮が切れたのち、彼は亡くなり、「私」は病院をあとにする。「私」の父はそれから3か月後に亡くなった。

ところが、この小説冒頭にある、記事を読んだ時に「あの時言われた「ビル・コーエン」とはブエル・クエインのことだったと気づく。「私」はこの老人について調べ始める。前にいた保護施設、そこで同じように読み聞かせをしていた女性と知り合い、あの時の老人に朗読していた男を紹介してもらう。
老人の名前はアンドリュー・パーソンズといい、どうやら写真家らしく、ブラジルのインディオの写真や水泳パンツ姿の若い男の写真などを持っていたという。そう、彼が昔クエインのアパートに入って写真を撮った人物で、水泳パンツの若者はきっとクエインなのだろう。「私」は今その写真の入ったトランクを持っている息子の住所を教えてもらう約束を交わす。
というところまで。

 彼は死とは何であるのか知っていると私に語った。つまり、自らを無に帰すほど限界を越えることだと。
(p188)

 戻らなければならないと理解したとき、かなり遠く離れていたので、旅する気力はもう残っていなかった。どんな動物も、たとえ地を這う蛇であっても、なめくじや蝸牛であっても、その生涯で一度であっても、一本の樹、一つの石、空の一部を目にして、宇宙の全体を見て、一瞬のうちに、何であるのか、どこにいるのか、周囲で何が起こっているのかを理解するものだ。
(p188-189)


蝸牛がこれまでの自分の痕跡、軌跡を全て一望に理解する瞬間であるとか。その時、蝸牛が元の場所、安全な場所に戻ることができないと察した場合はどうか。
「一つの石」と引用して気づいたが、前に引用していたアンドラージの別の詩に、そのようなものがある。

 道のまん中に

 道のまん中に石がひとつ
 石がひとつ 道のまん中に
 石がひとつ
 道のまん中に石がひとつ。

 けっして忘れはしまい こんなにも疲れはてた
 ぼくの網膜の一生におきたあの出来事を。
 けっして忘れはしまい 道のまん中に
 石がひとつ
 石がひとつ 道のまん中に
 道のまん中に 石がひとつあったことを。

(p144-145 集英社版 世界の文学 第37巻「現代詩集」より ナオエ・タケイ・ダ・シルバ訳)


このp188-189の文章はこの詩を踏まえているか、呼応し合っている。

 私は、彼らの人生がどんなものであったのか、若い頃はどんなものだったのか、愛したであろう女性のこと、初恋のこと、そして私がいつも想像しようとすることだが、なぜそこにたどり着いたのかを想像しようとしていた。
(p208)


ここでの「私」は作者の分身たる「私」のこと。先の文章の蝸牛の痕跡もそうだけど、ここはこの小説が始まる地点でもある。そしてここ(アンドリュー・パーソンズがいた保護施設)にも読み聞かせをする若者がいる、彼らは作家志望であって、ここの老人たちが物語の源泉なのだ、と案内の女性が語る。この箇所は地味ではあるが、この小説の白眉ではあるまいか。
あと20ページは明日に残す…
(2022 12/14)

消え去る社会と消え去る人類学者

ラスト20ページを読み終わり。
アンドリュー・パーソンズの息子シュローモ・パーソンズに会うためにニューヨークへ行く。それまでに、テレビのプロデューサーに会おうとしたり、クエインの甥に手紙を出そうと電話帳の同姓の住所に片っ端から送ったり、ただそれが手紙に炭疽菌をつけて送るというテロの直後に重なったりした。ただ、写真家パーソンズの息子シュローモに送った手紙には「手伝えないから探さないでほしい」と返信があり、それを手がかりに「私」はニューヨークへ向かう。

一目だけでもシュローモ氏を見ようと訪れた家に、偶然から入り込むことができて話をする。シュローモ氏もまた父を探して、探しついた時にはもうブラジルで死んだあとだった、という。シュローモ氏の母は「娼婦」と祖父母に言われて、父アンドリューはブラジルへ逃げるように向かう。クエインを介して何かを探していた二人は彼の部屋で邂逅する。ここも昨日の読み聞かせの場面と同じく静かに迫ってくるところ。ある瞬間など、「私」にはシュローモ氏の顔がクエインに見えてきたりもする。

 私は言いたいことを言い、全くないといっていいほどの意味も生まないようにはできたが、ただ真実だけは言えなかった。ただ、真実だけが全てを水の泡にしてしまうのだった。
(p225)


真実とはフィクションとは。インディオ達にはその二つの区別はないと作品中盤で述べられていたが、その区別などしない方がいいのでは。という気配り、醸成されているその場のフィクションを壊さないで大切にする、その結果として作品最終ページのブラジル行き飛行機の中、ブラジルにインディオの研究をしに出かけるという若者を、出現させることができたのではないか。

訳者あとがきから。

 しかし、その写真(p45)には、クエインの姿はない。彼の肖像写真は作品のなかに残されているが(p41)、集合写真には不在のクエインはひょっとすると、もう本の外に出ていったのかもしれない。
(p247)


クエインの自殺を巡るミステリのはずなのに、クエインはそこにいない感覚は、作品中にずっとあった。

 クエインや他の人類学者にとっても、研究の主体と対象の関係が崩れなければよいのかもしれないが、このフィクションにおけるクエインのように研究対象としている人々たちの社会のなかに引き込まれてしまうと、関係が崩れ、消えようとしている社会であれば、その苦痛も引き受けなければならなくなる。そして、小説における「私」と同様に、文学(フィクション)の話をインディオにしても理解されないことが示しているように、(なぜなら彼らには本当と嘘の二分法が意味をもたないからだ)インディオたちを対象化することができず、彼らからそうした意図を理解されることもない。
(p251-252)


その結果、クエインという存在が、インディオ社会の何かを崩れさせ、彼は自殺し、次の月には白人農園主から襲撃を受けてしまうことになる。何があったのかは最後まで不明なままだが…
(2022 12/15)

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