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ただの田んぼの風景が宝物になる話

私の実家周辺は、いわゆるベッドタウンと呼ばれている地域だ。
私が子どもの頃から徐々に家が増え始め、道路が整備されていった。
そんな私が通っていた中学校は、周囲一面を田んぼに囲まれた自然豊かなところだった。
すると当然のことながら、子どもや若者が好きそうなお店は近くには全くない。
せいぜい、駄菓子屋で駄菓子を買ってアーケードゲームをするくらいが関の山だ。
だがそんな場所だからこそ出会えたものがあった。
今回はそのことを話していきたい。

私は中学生の頃、とある運動部に所属していた。
顧問の教師は碌でもない大人で、練習試合中に酒を飲んでは生徒のミスを怒鳴り、物陰に連れていっては殴る蹴るの酷いものだった。
そんな環境だったこともあり、私は中学校が心底嫌いだった。
しかし、部活をサボるわけにもいかなかった。私が部活へ行かなくなれば他の誰かが代わりに顧問教師の餌食になるだけだからであり、そのことを顧問教師からも遠回しに言われたことがある。本当に碌でもない。
そして中学校は田んぼの中にポツンとあり、外部の目は届かない。まさに牢獄のようなものだ。
登下校の最中は刑場へ連れ出される囚人の気持ちそのものとなる。

そんなある夏の日のことだった。
昔のことなので記憶は曖昧だが、日が高く昇った正午ごろのことだったと思う。
私は中学校付近の道路を部活のために陰鬱な気持ちで歩いていた。
夏の日差しが容赦なく私の体を焼いている。
田んぼに囲まれたいつもの何でもない道であり、車がやっと一台通れるかというくらいの細いボロボロの道だった。いつもの見慣れた風景である。
新しく赴任してきた教師は例外なく周囲の自然の豊かさを素晴らしいと言うが、住んでいる人間からすればそんなことを言われても反応に困る。それくらい当たり前の風景だった。
私はいつも下を向いて歩いている子どもだったから、その日もやはり下を向きながら歩いていた。
だがその日はとても暑かった。そのため、思わず恨めしい太陽を見上げるために顔を上げた。
そしてあることに気がついた。いつも工事中だった新しい道路の工事が終わっていたのである。
田んぼだったところに新しい道路を作っているようだ、というのだけは以前から分かっていた。
私は特に何か考えていたわけではなく、何となくその新しい道路の方へと目を向けた。

そしてその光景に目を奪われた。
水が張られ稲が植えられたキラキラと光る一面の水田の中に、真新しい綺麗な広い道路が一直線に伸びていた。
それは私が今までに見たことがない風景だった。
田んぼの風景自体は見慣れたものだが、そこにある道路はいつも細いボロボロの道路だけだった。
しかし、目の前にある美しさすら感じる新品の道路は、一直線にどこまでもキラキラと光る水田の中を伸びていたのである。
もちろんこれは中学生の視点でしかないので、実際はそこまで長く伸びた道路ではない。
だが、当時の私はこの何でもない光景にとても心を動かされたのである。
それは典型的な田舎の風景を描いたキャンバスに新しく一本の直線を書き足したかのようだった。
そしてその異質とも言える道路の直線が周囲の水田の美しさを際立たせていたのである。
私はただの水田を見て美しいと思ったのは、この時が初めてだった。そして、感動というのをしたのもおそらくこれが初めてだった。
この時の印象があまりにも強すぎるため、それ以後に風景や景色を見て感動したことはおそらくない。今後もないのではないかと思う。

とはいえ、これはただそれだけのお話。
教師の暴力が収まるわけではなかったし、中学校生活は相変わらず憂鬱だった。
そんな中で差した一筋の光のようなものが殊更に美しく見えただけなのだろう。
だが私は30年近く経った今でもその感動を覚えている。
こうやって文章にしても人には伝わらないであろう感動だが、私自身がそれを覚えていればそれでいいのだと思う。
あの日に見た水田の煌めきは、私の心の中でこれからも輝き続けるはずだ。
本当に何でもないただの一瞬、そこで見たただの視覚情報に過ぎなくても、それが宝物になることだってある。
だから私はこれからも偶然の出会いを大切にしたいと思う。
そしてまた新しい宝物を探していくようにしたい。

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