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会議とわたしと打ち合わせ。
これが職人気質、というものなのだろうか。
会議が苦手である。会議の場になると緊張するとか、なにも発言できないまま終わってしまうとかではなく、むずむずしてくるのだ、会議が続くと。もちろん会議が大切であることはよく知っているし、朝から晩まで会議の連続でヘトヘトになっている人のことも知っている。大変だなあ、と思うし、心からのお疲れさまを贈りたい。
しかしながら自分のことにかぎって言うと、たとえば2時
あのとき学んだ生きるための知恵。
話の流れで、小学生のころの記憶をさかのぼっていた。
転勤族の子どもとして生まれ、ぜんぶで4つの小学校を渡り歩いてきたおかげでぼくは、「2年生のころにはあの学校にいた」「3年生になってこの学校に移った」みたいな学年ごとの記憶が、かなり鮮明に残っている。それぞれの校舎も、校歌も、クラスメイトも。そして「4年生のとき、あの先生の授業でこんなことがあった」とかの記憶も。
ところがどうやって思い出そうと
書類の数だけぼくたちは。
書類の多い人生だ。
毎日のように、役所や取引先、不動産会社などから封書が届く。カッターナイフでそろそろと開封する。中身を確認して、指定口座にお金を振り込んだり、判を押して返送したりする。もちろんそれぞれの書類は保管しておかねばならない。紙の書類は、たまる一方だ。
一方、届く書類のほとんどすべては封筒に入っている。口座番号だの請求金額だの場合によってはパスワードだの、秘匿情報満載の書類だ。まさか
「がんばる」の前に意識すること。
昨夜、サッカーの試合を観ながら考えた。
観たのはイングランドプレミアリーグ、フラム vs. リヴァプールだ。そして今季のリヴァプールを観るということは当然、遠藤航選手を中心に観ることになる。もうずっと、ほとんど毎試合観ているけれどほんとうに遠藤選手はよくやっている。
彼にかぎらず、だけれども、活躍している選手を観るときのぼくらは「がんばってるなあ」ということばを漏らす。最近のヨーロッパでいえば
キッチンを変える、という考え方。
休みをいただき、近県の宿にきている。
宿と言ってもロビーやフロントがあったり、朝食や夕食のついている宿ではなくて、ドッグランの併設された一軒家、すなわち貸別荘である。貸別荘ということは、朝昼晩のごはんを自分でこしらえなければならない。そうすると出立にあたってあらかじめ肉や野菜を買い込んで、保冷剤とともにそれをクーラーボックスに詰め込んで、万全の準備を整えたうえで車を走らせることになる。
そして
熱いと冷たい、そしてぬるい。
熱い涙、という言いまわしがある。
たとえば「あふれる熱い涙」とか、「熱い涙が止まらない」とか、「おまえの熱い涙を」みたいな呼びかけだとか。このへんのフレーズ、みんなどこかで耳にしたおぼえがあるんじゃないかと思う。
この「耳にしたおぼえがある」という表現は意図的なもので、小説やエッセイのなかで「熱い涙」に遭遇することは稀である。散文ではなく、もっぱらポピュラーソングの歌詞として流れ落ちるのが「熱
書き手にとってのおしゃべりとは。
おしゃべりのありがたさを考える。
ぼくはライターであり、書くことを職業とする人間だ。実際にいまもこうして、お金にもならない文章をつらつらと書いている。書くことを苦にしないし、むしろ好きだったりする。
そしてどうして書くことが好きなのかと問われた際には、「話すのが苦手だから」と答えたりする。対面するとうまく話せない。緊張のあまり思ったことがことばにできない。家に帰ってから「ああ言えばよかった」「
正解がない時代って言うけれど。
まったく知らないことばかりだなあ、と思う。
本を読むとき、新聞を読むとき、報道番組を見るとき、いつも「知らないこと」の多さにあきれかえる。たとえば「税制がこんなふうに変わる」みたいなニュースがあったとして、しかもそれについて「もう知ってるよ」と思っていたとして、解説記事を読めばちゃんとしっかり「ぼんやりとしか知らなかったこと」が書いてある。つまり、知らなかったわけだ。
そして途方に暮れてしまう
「最近の若いもんは」と「わしらの若いころは」。
いつの時代にも「最近の若いもんは」と語る人はいる。
現在も、20年前も、そして100年前や1000年前にも「最近の若いもん」は、似たような理由で責められている。常識を知らないとか、礼儀がなっていないとか、やる気がないとか、なにを考えているかわからないとか、そういう責められ方を、ずっとしている。
同様に、いつの時代もセットのように語られてきたであろう話が、「わしらが若いころは」である。
「わし
書いているとしか言えない自分。
いま、本を書いている。
それが仕事だ。なにも特別なことじゃない。料理人がオムレツをつくるように、漁師がイワシを獲るように、そしてキース・リチャーズがギターを弾くように、ぼくも本を書いている。お互い、そういう仕事に就いているだけの話だ。
しかしぼくの場合、365日の毎日、ずっと本を書いているわけではない。
構想を練るとか、編集者さんと話し合うとか、集めた資料を読み込むとか、取材をするとか、それ
鬼よりも悪魔よりも恐ろしいもの。
日常のなかで「悪魔」ということばは、なかなか使わない。
悪魔を使わないぶん日本人は、「鬼」を使う。むかし話にも多数登場する鬼は、なんとなく日本版の悪魔と言えなくもない。しかし、どうなんだろう。西洋の言語に暗いぼくはよく知らないのだけれど、たとえば「練習の鬼」とか「鬼教官」みたいな用法は、西洋の悪魔にもあるのだろうか。「あいつは練習の悪魔だぜ」「ジーザス、なんて悪魔教官なんだ」なんてことを、あちら
うどんとラーメンの境界線。
ラーメンとは、ふしぎな食べものである。
多くの日本人がそうであるように、ぼくにも突然に湧き上がるラーメン欲、みたいなものがある。無性にラーメンが食べたい、なんとしてもラーメンが食べたい、どこのお店でもいいからとりあえずラーメンが食べたい、という欲求である。
そしてこの欲求は、どこのどんなラーメンを食べても最低限は満たされる。すっきりとした醤油ラーメンでも、野菜たっぷりのタンメンでも、濃厚な魚介
知らないことを知らないと知らないままに。
知らないことを知らないと言える人になりなさい。
大切なアドバイスである。人はどうしても背伸びをしたがる性質があるものだし、たとえば知っているふりをして聞いたほうが話の腰を折らずに済む、という判断もときにはあるだろう。それでもやはり、正直な「知りません」や「教えてください」を言える人であったほうがいい。これは——少なくとも理屈や理想論としては——多くの方々が納得してくれる話だと思う。
一方で、し
「とりあえずnoteを書いてみなよ」
noteのサービス開始から10年が経ったのだそうだ。
当時のことはよく憶えている。現在のnote社にもちょいちょい顔を出していたし、毎週のように加藤さんと会っていた。今度こんなことをはじめようと思っている。いまこんな本をつくっている。一緒にこんな本をつくろう。そういう話を、会うたびにしていた。
その「毎週会う」のサイクルが途切れたのは、思えばコロナ禍だった。なるほどあそこで途切れてしまった流れ