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ニューヨークのほろ苦い思い出

2012年の秋。私は1人、上野駅で右往左往していた。
成田空港に向かう途中、数年ぶりに使うことになったスーツケースが、上野駅の改札を下りた瞬間に壊れたからだ。すぐさま兄に電話をし、大急ぎで来てもらった。壊れた原因はわからないが、多分靴と服を入れすぎたせいだ。
私は近くのヨドバシカメラで頑丈そうな新しいスーツケースを購入し、壊れた方の処分を兄に託して、大慌てで成田空港行きの電車に乗った。

こんな風に、何かを予感するようにして、私のニューヨークへの旅はスタートした。

* * *

私がこの年の秋にニューヨークに行くことになったのは、当時ブルックリンに住んでいた恋人に会いに行くためだった。
会社の夏休みに有給を数日つけて、まとめて10日程の休みをもらった。

多忙な毎日からの解放、久しぶりの外国。

飛行機の中では当時買ったばかりのiPadで、事前にダウンロードしたセックス・アンド・ザ・シティを観て旅のテンションを高めながら恋人のいるNYへ向かった。

途中、乾ききったパンに、味濃いめのチキン、といったような機内食を機械的に食べたり、日本時間だと深夜3時だろうと思われる時間にハーゲンダッツのアイスが配られたりした。久しぶりに会える恋人とどんな会話をするのだろうか、そんなことを考えそわそわしながら、過ごしていた。

* * *

当時の私は、27歳、東京で一人暮らし。
ITサービス大手の上場企業に勤めていた。ウェブの広告代理店の部署で、大企業向けにウェブ広告を提案する仕事だった。GoogleだとかYahoo!だとかの広告のプランニングをする仕事だ。

こう書くと、なんだかキラキラしていそうだが、実際は全くそんなことはなかった。

今でもなぜ、私があの会社に採用してもらえたのかわからない。
同じ部署には現在でも名前を検索すれば何かしらのインタビュー記事が多数ヒットするような、業界ではそこそこ有名な人もいたり、現在ある会社で役員をやっている人などもいる。

本当に周りは皆とても優秀だったし、皆とてもいい人だった。

そんな中で私は、たいした実績も出せずただ先輩の企画の資料を言われたとおりに作るだけという駒になり必死に働いていた。コンペの前日には徹夜することも普通にあった。

ただただパワーポイントを毎日開いてプレゼン資料を作り続ける毎日。自分で企画するなど一切できず、さらには全く成長している予感も感じられなかった。(数年後には、朝起きると体と頭が重くて起きられなくなるという不調も起きた)

大した才能もなく八方ふさがりだったのだと思う。

でも同時に、「都会の上場企業でクリエイティブな仕事に携わっている」という肩書きに心底満足してもいた。

むしろ、それにしがみつくことが働いている理由だったようにも思う。

実際に、名の知れた安定企業で働いている娘の姿に両親も喜んでいたし、名の知れない中小企業にいたときよりも、かつての友人からの連絡が増えた。
だいたいが合コンなどへの誘いだったが。

「ずっと心配してたけれど、やっとあなたもこっち側にきたね」なんていうデリカシーのないことをいう人もいた。

その人とはそれ以来連絡をとるのをやめた。

私自身は、中小企業にいたときのほうがずっとやりがいがあり充実した日々を過ごしていた実感があった。むしろこの会社への転職を後悔したぐらいだった。だが周囲の目は真逆だった。なんだか皮肉だなと思っていた。

* * *

ニューヨークでは、8日間、エアビーアンドビーを利用して過ごした。ブルックリンのパークスロープという閑静な住宅街だ。名の通り、近くにとても美しい公園があり、この時から私は世界中の「都会の公園」という存在が大好きになった。それは、紛らわしい人間関係だとか欲だとかそういう、すべてから解放されるような気分を味わえる気がするからだ。

ブルックリンで教師をやっているという女性の自宅の一室が、私たちの部屋だった。バスとトイレとベッドのみのこじんまりとした部屋だったが、清潔感があり、ホストの人柄がそのまま再現されているような、とてもかわいらしい空間だった。

ニューヨークに住む彼に連れられるがまま、私はNYでの時間を過ごした。ブルックリンのおしゃれなショップへ行ったり、美味しいビールを飲んだり、ドーナツを食べたりした。

ある日にはブロードウェイにも行きライオンキングを鑑賞したり驚愕サイズのハンバーガーをたべたりもした。(食べたことばかり覚えている)

漠然と、「やっぱりニューヨークは自由だなあ」と思ったが、東京のそれと大きく変わっていると思えない部分もあった。

夜にはエンパイアステートビルの展望台に行きその名の通り「100万ドルの夜景」なるものをみた。
確かにこの夜景はすごいとは思ったが、不思議と心は動かなかった。その時は東京でいつも眺めているネオンと何ら変わらない気がしていたのだ。




8日間ニューヨークで過ごした私は、この街をとても好きになっていた。
いつか住んでみたい、とさえ思った。

でも、どうしてなのか、私はその時の旅のことを、あまり鮮明には思い出せない。

彼とは、遠距離恋愛と言ったが、私も彼も自分たちが正式な恋人だとは明言しあわなかった。友達以上恋人未満。彼は学生時代からの友人だった。

私は、「ニューヨークに住む彼」が好きだったし、彼のほうも「東京でバリバリ働いている私」が多分好きだった。

彼も、30歳手前で大手広告代理店を退職して名もなきインターン生としてニューヨークで貧乏学生をやっている身だった。

互いに人生に少しだけ迷いが生じ初め、「このままでいいのか」と思っていた頃にたまたま東京で再会し付き合い始めた相手だった。

私も彼も、お互いの不安定さを埋め合わせたかっただけの存在だったのかもしれない。でもその時の私には彼が、彼には私が、きっと必要だったのだ。

私はニューヨークの街で、そんな自分たちの関係性や自分の人生について思考しつづけていた。



帰りの飛行機の中、私は「ああ、きっとこのまま多分もう会わないだろうな」という予感がしていた。

帰り際に彼と、「次は一緒にヨーロッパに行こう!絶対だよ!」なんていう風な約束をしたが、もちろん、それが果たされることはなかった。

その後、それぞれの生活に忙しくなり私たちはそれが以前から決まっていたかのように、ごく自然に離れていった。


旅を終えた後、私はiPhoneのメモに、「資本主義って一体全体なんなんだよ」という殴り書きを書いていた。今みると笑えるが、でも案外、的を射た言葉だったような気もする。

20代後半、学生を卒業し、働き始めて5年ぐらいの年月がたって最初にぶつかった疑問だったのかもしれない。

都会の砂漠の中で、私たちはエゴ、金、成功などに翻弄されていた。

渇ききった私たちの喉を、遠く離れた東京とニューヨークで互いに潤しあいなんとか生きてきた時代だった。

でも、確実に、「生きている実感」があった時代でもあった気がする。

あれから9年経ち、もはや東京にもいない私は、今、なぜかあの時の記憶に、ずいぶん励まされている。


※ブルックリンはセピア色が似合うかっこいい街だ。

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