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色つきの_2024年4月8月/曇り

わたしは、どうやってるのか詳しくないのだけれど、
むかしのモノクロ写真から色を再現して、
いまはカラー写真のようにできるんですよね。
着ている服が赤かったり、隣の犬が茶色かったり、空が青かったり、
こんなふうだったんだ!と、妙にその時代を納得するような
みごとな色がついています。
不思議なものでね、モノクロ写真に色をつけると、
たちまち、そこに映る「空間」がイキイキするというか、
これまで「情報」だったものが
息遣いとかたたずまいとかを持ちだすようです。
こういう感触がなんだか嬉しかったりもします。
なんだろう、もしかしたら人は一般的に、
世界というものを「かたち」でなく「色」でとらえているのではないか。
そういえば、なにかを思い出すときだって、
たとえばセーターなら、セーターの「色」のことが
先にぱっとイメージのなかによみがえる。
もしかしたらもしかして、
人の気持ちは「色」ともつながっていて、
その都度みる「色」よって世界を体験してるのかも、
なんて大発見したようにも思うんですよね。

どうも、過去のモノクロ写真は、
色がついたとたんに「資料」でなくなるみたいです。
戦時中なのかな、いがくり頭の男の子が
背中に赤ちゃんをしょってる写真を見ました。
えんじ色のおんぶ紐で、ひょいと弟か妹をゆわえて、
とくに笑うでもなく男の子は立っていて。
でもこれが、あちこち体をゆすっては
赤ちゃんをあやしてる様子がよく感じられるんだなぁ。
いつものこととして、鼻歌なんも聞こえてきそうです。
戦争はそうなんだけど、それでも男の子は毎日暮らしていて、
子どもが家事をするのはあたりまえのなかで、
彼は普段どおりに子守りしていたわけで。
もし、モノクロのままの写真だったら、
戦争は嫌なものというイメージでしか彼のことは思わなかったでしょうよ。
もうひとつ、大正時代のモダンガールたちの写真もありました。
青と白の水玉ワンピースと、藤色のコートに黒い帽子の二人連れ、
彼女たち、街並みはいまと違うけど、普通にそのへんにいる女の子です。
色がついたおかげで、
ときの流行りや考え方にのって、
人びとが暮らしに興じているということが肌でわかってくるんです。
語り部から聞く「ものがたり」ではなく、
いつかみた景色をじぶんのなかで追体験するというか。
写真に「色」がつくと「いま」になるんですね。

もっと昔、写真のない時代を考えてみましょうか。
もしも、縄文時代の写真があったとして、色をつけたなら。
たとえば、木造の家から出でくる女性をみて、
(当時は栗の木で家を建てたみたいです)
ああ、今日もどこかに出かけるんだな、と感じることさえできそうです。
そのとき、国の制度や貨幣もない時代とかいうことばは
あたまから消えているんじゃないでしょうか、たぶん。

これ、昔はよかった、
いや、いまのほうがいい、進んでるとかいうことではないわけで。
どこかの時代の感じ方や考え方が「まっとうな」ものだというのは、
それはちょっとちがうよねということです。
昔もいまもこれからも、
そのときどきの感じ方や考え方のなかで、
生きるべくしてただ人はそう生きていると思うんですよね。

あ、思いついた。いやな写真はモノクロにしたらいいんじゃないかな。


よんでくださった方、ありがとうございます! スキをくださった方、その勇気に拍手します! できごとがわたしの生活に入ってきてどうなったか、 そういう読みものをつくります! すこしでも「じぶんと同じだな」と 思ってくださる人がいるといいなと思っています。