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ひとの絶望を笑うな

誰かに悩みを吐露にすると、「いや私なんか〜」「てか俺なんてさ」などとすぐに自分の悩みを引き合いに出して「だからお前の悩みなんか悩むに値しない」みたいな着地に持っていく人がいる。

いらない。全然求めていない。

せっかくこちらが明かした悩みを、別物にすり替えてもらっては困る。

ラーメン食べたいねと伝えたら「いいね」と同意されたのに、なぜか蕎麦屋に入っていったようなリアクション。いや麺類としては同じ枠だけど、ラーメンの話してたじゃん。そんな替え玉いらない。

こっちにちゃんとラーメンを食わせてくれ。


子どもの頃、食べ物を粗末にすると「アフリカの恵まれない子どもたちなんてね」って大人に諭された時の違和感に近い。

誰もが環境や経済水準に即した暮らしに良くも悪くも適応しているだけだ。

国が違えば、家庭が違えば、極端にいえば個体が違えば、もう比較の土俵に上げるべきではない。

引き合いの出し方や天秤の乗せ方を見誤って、他人のすべてを分かった気になるのは愚かだ。

想像することは大切。

ただ想像力を過信して、自分の都合の良いように決め付けたり突き離したりするのは危険だと思う。


とりわけ、ひとの絶望について。

とある芸能人が自殺をした訃報に際し「腹の底でそのひとがどんな想いを抱えて生きているのか、外からは分からないものだなと思いました」

そんなコメントを目にし、何を今さら悟りの境地みたいな物言いで悦に浸っているのだろうと目眩がした。

8月に「夏は暑いんだなって思いました」かよ。


ひとの機微を土足で踏みながら無かったことにする光景はいくらでも見てきた。繊細であればあるほど損をして、鈍感であればあるほど増長される。無神経なだけなのに、それをメンタル的な強さと履き違えて、繊細で優しい人間から呼吸する酸素を奪うひとはたくさんいるよ。

自分の地獄と異なり、他人の地獄になると解像度が落ちまくるのだ。

絶望だけは相対的じゃなく絶対的価値観。岡本太郎もそんなようなことを言っていた。

以前、SNSにて女優の松本まりかの一連の呟きがさまざまな憶測を呼んでいた。

すこし抽象的に、悩みや葛藤を吐露するような内容だった。
SNSをやっていても、無難なことしか発信しない芸能人は多い。まして主演クラスを務めるような俳優女優は、作品に対する想いや宣伝を綴るのみが一般的である。

今のインターネットはすぐに炎上もするし、無用な誤解を生むのもメリットがないので、ネガティブに転がりかねない葛藤は公開しないのがベター。

人間味を隠さずに素顔の見える言葉を度々綴る松本まりかは異色といっていい。

彼女の独白に対して心配する声が多くあがる一方、「メンヘラ(※)」的な扱いで雑に切り捨てられている反応もたくさんあった。

ああ、あらためて希望も絶望もやはり個有のもので、相対的に測られるものじゃないなと感じた。

彼女は人間味を捨てることなく、女優・松本まりかのままでありながら無責任になれる瞬間を求めていたのかもしれない。感情の起伏や内面を晒しても、腫れ物にならない瞬間を。あらゆる前提や推量やイメージに先回りされて言葉を奪われて、偶像を生きるその苦しみを満足に吐露もできないようでは不憫だ。

※メンヘラ
一般的には「メンタルヘルス」(心の健康)の略語。「心に何らかの問題を抱えている人」を指す言葉として使われることが多いが、もともとは「心の健康に悩んでいる人たち」を指すネットスラングとして使われていた。「メンヘラ」と略される際は嘲笑的なニュアンスを含んでいることが多く、精神的に不安定なひとや恋愛依存症気味のひと、自傷行為をするひとなど、広義に使われる。


本人が切実だとするものが、どうしたって同じ熱量、同じ純度で届かない。

それはそうだ。当たり前。だからこそ、生半可な決め付けを軽はずみにしてはいけない。適正距離を見誤ってはいけない。ひとの絶望には繊細に向き合わなければいけない。

簡単じゃないけど。

自分では深刻に捉えている悩みを吐露した結果、あっさり笑い飛ばされて救われるときもある。そうして欲しいときもたしかにある。

でも笑い飛ばしていいこと悪いことの区別が付かないひと、笑い飛ばせる関係性でもないのに無神経に軽んじてくるひと、いくらでも存在する。

ひとが抱える絶望の暗さは決して見破れない。

数年前、人気絶頂だった若い俳優が自殺したとき、国民的に知られる笑顔の眩しい人気女優が命を絶ったとき、だれがそれを予期できただろう。

周りがどう言おうと、ひとは選択肢が「それしかない」あるいは「なんにもない」と強く感じてしまったとき、一番目の前が真っ暗になる。

自己破産するのもホームレスになるのも他人を殺めてしまうのも、もうそれしか選択肢が考えられないってことの成れの果てだろう。客観的に見たら全然そんなことないのにって思えたとしても、当人からしたらもうそれしかない瞬間がある。

孤独や孤立が、気付いたら自分にとっての日常で、進んで選んだわけでもないのに残された唯一の選択肢になってしまっていたとき、ぎりぎりのところで手を差し伸べて掴んで、引き上げてくれるような存在がいるのなら、救われることもあるかもしれない。

それでも、ほんのわずかな隙間で、一瞬でも目を離した隙に、ドス黒い感情は針の穴に糸を通すように侵入してくる。

死にたいと思うことと実際に死ぬことは対岸関係で、その間には遠くて深い溝がある。時にそれを埋めるような絶望が土砂崩れみたいに誰かを襲うことがあって、ふと向こう岸まで渡れてしまうときがある。僕らは大切なひとがそこを渡ってしまわぬよう、ダムの一部になるような言葉を投げかけ続けるしかないのだろうか。

答えは誰も教えてくれない。


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