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私たちってさ、どっちが可哀想なんだろうね/映画『余命10年』感想

渋谷の街はまるでコロナも戦争も地震も知らないみたいなテンションで賑わっていた。花粉のダンスが目に浮かびそうな春じみた陽気。花粉症持ちじゃなくてほんとうに良かった。

映画『余命10年』を観てきた。

不治の病を患い、自らの余命を悟った二十歳の茉莉(小松菜奈)が自ら命を絶とうとしていた和人(坂口健太郎)と出逢い、希望と絶望の狭間で揺れながら互いの在り方を見出す実話をもとにしたストーリーだ。

※一部ネタバレ含みます

余命に焦点を当てた自称感動作は世の中にありふれている。実話ベースというエクスキューズを盾にしても、こすり倒された設定や展開を踏襲すれば容易にチープになってもおかしくない。

では本作は完全に目新しい余命の物語かといえば別にそうでもない。公式サイトのイントロダクションにはかなり陳腐で既視感に満ちた言葉が並ぶ。実際に映画を観てみても起承転結に意外性はない。

それなのにこの映画をチープだ陳腐だと一言で片付けるにはあまりにも抵抗がある。それほど高潔で真摯な作り手の意思と、原作者への敬意を感じた。役者の芝居も演出も、いずれも大仰かつあからさまに泣かせにかかるような意図は見られなかった。

本質的にはドキュメンタリーで、そこに適度な塩梅のドラマチックが添えられたピュアな見応えを備えている。

劇伴もとても良かった。
季節を通りすぎる茉莉たちの花見や海やカウントダウンのシーンが荘厳な音楽とともに切り替えられていく場面は堪らない。まさに一個人のドキュメンタリーのように映ったし、容赦なく流れる時間の残酷さとしても伝わってきた。

10年という月日に茉莉は「長いのか短いのかもわからない」と語っていたが、観る側としても体感しづらい時間感覚である。

余命1年以下を強調する既存の作品群に対して本作が一線を画す態度であるなら、「10年」のストロークにもっと意味を持たせた訴求が必要だったのではないかとも思う。その点は評価の分かれ目になりそう。とはいえなんとも捉え難い生々しい時間の経過が要所に緩急をつけて突き付けられるので、ある意味リアルだった。

小松菜奈はすごい女優だ。
どこにも嘘が見え隠れしない純度の高い表現をする。和人に病院での発言を謝罪される焼き鳥屋のシーンで、はじめて屈託なく笑ったときは印象的で、まるで花が一気に咲き誇るみたいな笑顔だった。

海辺でひとり友人たちをビデオカメラ片手に見守る風に飛ばされてしまいそうな佇まいとか、洗面台の前で傷痕を見つめる10歳の少女のような繊細な立ち姿とか、台詞がなくたってちゃんと心を照らしていた。スキー場の雪景色に同化しそうな真っ白な肌と無邪気な仕草は誰よりもJR SKI SKIのCMのヒロインだった。

和人にお別れを告げた旅行からの帰り、母の肩に顔を寄せて泣きじゃくった場面は見ていてグッと鼻腔にちからが入った。同じ場面で母娘に顔を向けずにひっそりと涙をこぼす父親役の松重豊にもやられた。

坂口健太郎は小松菜奈との相性がとても良いように見えた。
ふたりの見映え、そのバランスに違和感がない。和人が茉莉と出逢ってから時間を追うごと徐々に精悍な顔立ちになる変化を見事に演じていた。リリー・フランキーとのシーンも絶品。

小松菜奈とはプライベートでも仲良しな奈緒は茉莉の良き友人としてしっかり機能。最近はドラマ『恋です〜』で杉咲花演じる目の不自由な主人公の姉役や映画『君は永遠にそいつらより若い』で佐久間由依とのコンビでも好演が光ったが、真ん中に立つ女性の隣でバランスをとらせたらいま彼女の右に出る者はいない。いつもバシッとハマる。

エンドロールでスタイリストに伊賀大介の名前を発見。映画でも舞台でも衣装いいなと思うとやっぱり伊賀大介が絡んでいる。さすが。

映画の終盤、館内にはずるずると鼻をすする音が聞こえた。僕もついに花粉症になったのかと錯覚する時間がすこしばかり訪れた。花粉症のせいにしたりマスクで隠せたり、今なら何かと便利だね。

ただこの映画ついて、泣けた・泣けなかったの二元論でしか語られていないのをSNSでいくつか見た。そんなことは本来どうでもいいのになと思った。「泣けなかった私の感性おかしい。冷めてる」的なチープな感想とか。

泣けたからイコール良い映画なわけでもないし、泣けなかったらといってつまらない映画でもない。感動して素直に涙がこぼれることもあれば、涙腺と結びつかない感動だって無数にある。

生きていくことはつまり死に向かっていることでもある。本来そこに向かうスピードは見えないだけで誰だって異なる。見たくもなかったゴールテープが自分にだけ見えたとき。ゴールテープを切るまでの速度が人と比べて明らかに速いと気付いてしまったとき。そんな瞬間からの生き方、心の揺れ動き、絶望希望を、この映画は教えてくれる。

主人公と同じように、たとえいつかすべての無念を悟ったとしたら、見たくない未来をほんの一瞬でも忘れさせてくれる瞬間に価値を見出すのかもしれない。生きたかった未来をほんのちょっとでも夢見させてくれる誰かを隣に求めるのかもしれない。


前向きに生きることを忘れないって、尊い。

「次なんてないですよ」



サポートが溜まったらあたらしいテレビ買います