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何かを書くということの話。

いきなり、時間ができた。

そもそも私は、ある時期から note をわざわざ書くということをするのもやめた。回りくどい言い方をしてしまったが、「よし、記事を書くぞ」と意気込んで書き出すことはあまり無い。

いつも、気付いたら書いている感じなのだ。「あっ、降りてきた」みたいな感じになったら、自然と筆が進むというか、キーが進むというか、タップが進むというか。

だから、そういう意味で言うと、今回も「わざわざ」「よし書こう」と思って書いているわけではないのだけれど、今回は「何もしないでいい時間」を与えられたようなものなので、ならばとこうして記事を書いている。

なぜなら、せっかく晴れたというのに、庭に干していたシーツやベッドの敷きパッドが強風で吹き飛ばされて土まみれになってしまったので、泣く泣く再度洗濯機で洗って、それを乾燥機で乾かすまでの30分の間、コインランドリーの駐車場で待たなければならないからなのだ。

そういうわけで、いきなり、自由な時間が与えられた。

だが、メールを返したりちょっとした買い物をしたら、もう残りは10分程度。急いで本題と結論に向かう。

今までの自分の人生、「書く」ということは、割と身近にあった行為であった。

高校時代は毎日、紙の日記にその日あった出来事や不満を「これでもか」と言うほど書き殴っていた。背伸びをして大人びた表現を好んで、辞書を引き引き日記を書いていたので、おかげで当時は語彙力がかなりついた。塾や予備校など通っていなかったが、勉強をせずともテストは高得点が取れて、高校時代の得意科目は国語だったほどだ。(ただ残念ながら、現在ではその語彙力は全く私の中に残っていない)

大学に進学してからは、紙ではなくネットの日記に場所を移した。最初は、携帯電話用のメールマガジンで近況を配信したりした。その後は、ブログが流行り始めたので、色んなサイトのアカウントを作って日記を書いてみたりもした。その頃ちょうど、mixi というサービスが流行り始めて、リアルでの知り合いに対してはそこで文章をダラっと綴っていた。

だが、やはり、メルマガやブログと mixi とでは、若干、表現する顔というか側面は違うような感じがした。だから、mixi が下火になって周りの知り合いが次々にログインしなくなっても、私は現実の友人たちには内緒で、mixi とは別の場で、自分しか知らないアカウントで日記を書いていたりした。

社会人になってもその習慣は止まず、毎日ではないにせよ、断続的に日記を書いていた。なぜ続けているのか、現実の知り合いには誰にも教えていないのに。でも、書いてしまう。

それは、今、こうして note においても同じだ。

誰の役に立つかも分からない。むしろ誰の役にも恐らく立たない。もう三十も後半になってしまったのに、こうして今日も、誰に読まれるか分からない文章を、ただただダラダラと書き殴っている。

けれど一つ分かったことがある。

やっぱり表現がしたい。そういう思いがあるのかもしれない。仕事で、ある程度、表現はしている。今の職業としては一応そういう「モノづくり」的な側面があるからだ。しかし、私は、過去の私のために、そして未来の私のために、何かしら文章を書いていたいのだ。教えてあげたい。振り返る道具にしてあげたい。あくまで、自分のためなのだ。

note という場には、様々な人が居て、もしかしたら私のような自己満足系のユーザは稀かもしれない。いや、むしろそういう人も多いのかもしれない。ただ、個人的には、収益とか交流とか、そういうのを目的として書いているわけではない。(でも、結果的にそうなったら嬉しい気持ちもある)

ただ純粋に、習慣として、表現欲を満たすため、そして、軌跡のため、書いてしまう。

だからこうやって私は、あっ、もう乾燥終わった。というわけでおしまいです。失礼。

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