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01 K-r-0083の収容記録

まえがき
この作品は某作品群からのインスパイアとたくさんのオマージュでできています。丸パクリにならないよう気を配ってはいますが、もし私の知らない範囲で全く丸かぶりの部分がございましたらこっそりご指摘ください。
※この小説は2017年11月26日に執筆を開始しております。


 西暦三千と数年。世界には市民と労働者がいた。市民とは、時間を自分のために使える人。子供を産むのも、結婚するのも、遊ぶのも自由な人々。労働者とは、機械などに任せられない仕事をこなす人間のこと。私や、そのほか。成人すると市民か労働者か選ばされて、労働を選んだ人々。選択を他人に預けてしまった者たち。労働者になるとそれまで使っていた名義は剥奪され、代わりに識別番号が与えられる。その後は基本、番号のみで呼ばれる。
 私は今日成人を迎え、どこかの企業に買われたところ。色の落ち着いた茶色の短髪の、黒いスーツの男性が車で迎えにやってきた。スーツと言っても前がチャックになっていて、警備員のような作業着に見える。
「君はこれから我々の所属する団体の職員だ。私は君の上司。新しい名前とコードはこれ、身分証はこれだ。名前を聞かれたらそれを名乗るように。制服はこれだ。すぐに着替えなさい」
彼はそれだけ伝え、早々に助手席へ動いてしまった。窓は目張りがしてある。目的地までの道は秘密ということだろう。制服に袖を通し与えられた新しい名義を暗読する。名前を必要とする職なのだろう。
 しばらく走り、どこかに停まる。降ろされ、厳重そうなセキュリティをひとつ、ふたつとくぐっていく。ゲートを数えるのを諦めたくなった頃、やっと一つの部屋にたどり着く。上司が振り向く。
「これから対面する相手と会話をしなさい。話題はなんでもいい、ただ会話をしなさい」
はい、と答えると部屋へ入れられる。薄明るい部屋、と言えばいいだろうか。煌煌とした照明はなく、間接照明だけで照らされた部屋の中に“彼”はいた。
どう記すか、悩むところだ。目の前にいる人物は確かに人のように見えるけれど、肌に当たる部分は見当たらない。服を着ていて、フードを被っている。中身のない服が座っている。そういう容姿だ。“彼”と言ったのは、男性の声をしていたからだ。私は手渡された書類を見る。部屋に入ったら宣言しなければならない文句があるらしい。
「ごきげんよう」
「初めまして、私はEマイナスクラスの職員。相澤──」
「レジュメのテンプレートはいいよ。本名は?」
本名、なんだっけ? 剥奪されてしまったからもう覚えていない。剥奪というのは文字通り、自分の頭からごっそり剥がされるのだ。というか、どうして本名じゃないと分かったのだろう?
「……本名はありません」
「そう。では君を便宜上“星くず”と呼ぼう」
「相澤では駄目なのですか?」
「駄目だとも。その名義は本来の君を表していない」
「はあ……」
「ま、座って」
「あ、はい。失礼します」
これではどっちが職員なのか分からない。うながされるまま彼の目の前にある高級そうな革張りの椅子に座る。
「私と会話をしろと命令されたんだろう?」
「その通りです」
「君で五十九人目だ」
五十九人。その数字を心の中で復唱する。
「何故、私を星くずと名付けたか聞いてもいいですか?」
「理由? そんなの、第一印象に決まっているだろう?」
「第一印象……どこら辺が星くずのようだと?」
「目かな」
「目?」
「もっと磨いたら太陽のように輝きそうだなと思ってね」
「輝く前の星、ですか?」
「そうだね、そういう感じ」
「ふうん……詩的ですね」
「それは褒めてる?」
「褒めているつもりです」
「そう」
彼を改めて観察しよう。人型で男性のような体格。白い高級そうなスーツに黒いシャツ、銀糸の装飾の入った白いネクタイ。黒い、ストールだろうか? 肩の留め具が銀のブローチになっているそれをぐるりと頭部へ回してフードのように被っている。黒い革の手袋をしている。革靴は白。灰色の靴下を履いている。でも顔は見えない。いや、ないのだ。透明人間と言うべきか、フードの中には暗闇があるだけで顔に当たる部分は確認出来ない。その暗闇から冷気のようなものを、私は感じた。
「厚着をしていますが、寒いのですか?」
「いや? 寒さも熱さも私には関係はない。けれどこのぐらい着ていた方が君たちが私を認識しやすいだろう?」
「なるほど。ご配慮ありがとうございます」
「……うん、そういう返しをされたのは初めてだな」
「そうなのですか?」
「そうとも」
突然に静寂がやってきた。会話を続けるべきなのだろうが、話題が思い浮かばない。透明人間の彼は肘をつきじっと私を見ている。目に当たる部分がそもそも認識出来ないが、視線は感じ取れた。
「……貴方のお名前を聞き忘れました」
「書類に書いてあるよ」
「レジュメはいい、とおっしゃったので……読むなという意味かと思いました」
「そうだとも。君には私の言葉がよく届いているようだ。それでいい」
「はあ」
「今のは試しただけさ。相手に名乗らせておいて自分は名乗らないというのは礼儀としてなっていないからね。私は■■■■」
「■■■■さん」
「そう、よく聞き取れている。いいことだ。だがこの名前は他の者には届かないからね。今後私を呼ぶなら“暗闇”と」
「分かりました。では暗闇さんとお呼びします」
「そうしてくれ。星くずさん」
ブーッと無機質なブザーが耳に響く。そう言えば十分経過したら部屋から出るんだっけ。もうそんなに経ったのか。
「ああ、嫌な音だ。外界からの刺激でこれほど苦痛なものはないよ」
「ブザーがお嫌いですか?」
「嫌いだとも」
「それなら、ブザーじゃないものに変えてもらいましょう」
「君にそんな権限はないだろう。Eマイナスは最低ランクだ」
「分かりませんよ。簡単な要望なら通るかもしれないです」
「ブザーに関しては諦めている。気持ちだけ受け取っておくよ」
「そうですか……。では、失礼します」
「星くずさん」
「はい、なんでしょうか」
「自分の名前は自分で付けたまえ」
「……上司に相談してみます」
「そうするといい。では、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
彼とのファーストコンタクトはとても簡単だった。──私にとっては。
 部屋から出てきた私を、対バイオテロ用のゴツゴツした防護服を着た職員達が囲む。検査をするからと手短に説明され別室へ移動する。血液採取や簡単な問診、なにやらよく分からない機材での測定を経てやっと解放される。待合室、というよりも取調室のような場所でしばらくぼうっとしていると最初に出会った上司が入ってきた。
「どこにも異常はないね」
「はい。……異常?」
「君が今回対面した相手だが、人ではない。彼のような存在はここでは“アーティファクト”と呼ぶ。彼と会話をしたものは、部屋を出たら死亡した。私はAクラス職員、加奈河 卓(かなかわ すぐる)。収容番号K-r-0083『通称、暗闇の男』の調査員だ」
ああ、だからわざわざ労働者を買いに……。
「君は彼に接触した中で初めて生還した人間だ。今回たまたま彼の機嫌が良かったからだけなのか、別の要因があったからなのかどうかを判別するためこのまま経過を観察させてもらう。部屋に案内しよう」
「あの、その前に」
「なんだ」
「名義の変更をしても良いですか?」
「……筆記具を与える。部屋でじっくり考えると良い」

 翌朝、白を基調としたこぎれいな部屋で目を覚ます。アーティファクトに接触しても生還した私は、そのままK-r-0083の作業員として雇われることになった。食事と名義の変更を済ませ、書類を持ってまた暗闇さんの部屋に向かう。彼の嫌いなブザーが鳴り、扉が開く。
「ごきげんよう」
「おはようございます。暗闇さん」
「名前が変わっているね」
「はい、名義変更をしました。改めまして、星川 光(ほしかわ ひかり)と申します」
「星川光。うん、まあ君の質からは外れてはいないか。いいだろう、よろしく星川さん」
「よろしくお願いします。本日も簡単な会話を三十分ほど行います」
「職員っぽい言い方だ」
「職員なので」
「私は君を職員と思って接していないよ。好印象の観察対象だ」
「そうなんですか?」
「そう、五十九人目のね」
「でも、私より前に訪れた方々は……」
思わず言い淀む。彼は自分が会話した相手が死んだことを知っているらしいが、口に出すのは憚られた。
「彼らとの会話も面白かった。それぞれにね。ただ彼らは、私の言葉をよく理解していなかった。それだけの話だ」
どうやら、生還の鍵は意思疎通の精度によるらしい。これは有益な情報なんじゃないか、と私はそっとメモを取る。
「ただ会話を、と命令する職員も随分だと思わないかい?」
「ああ、漠然とした指令だなぁとは思います」
「そうだよね。そんなのはつまらない。これは私の予測だが、恐らく君は今後私との接触時間を徐々に増やされるはずだ。昨日は十分、今は三十分だからね」
「はい。そのはずです」
「うん」
「えーと、それで?」
「次から本でも持ってくると良い。この部屋で自由に過ごすと良いよ。時々会話する分には楽しいだろう?」
「貴方の前で寛げとおっしゃる」
「嫌かい?」
「いいえ。嫌ではありません」
「じゃ、そうするといい。今日は君の話を聞こう」
「私の話、ですか」
「今まであった経験とか、自分の生い立ちとか。そういうものがいい」
「うーんこれと言って面白いものは……」
「面白くなくていいんだよ」
「……話したくない、と言ったら?」
「それが本心だったら仕方がない。その要望を受けるよ」
「……。本当に、面白くないですよ?」
「構わないよ」
「じゃあ……」
私はぽつりぽつりと語り始める。
労働者になる前の私。勉強はそこそこ、特技もこれといってない未成年だった。夢もなくて、やりたいこともない。なので労働者になった。選択を他人に預けるのが一番だと思ったのだ。
「選択をというより、命を預けてない?」
「そうかもしれません」
「生きているのはつまらない?」
「どうでしょうか。でももし面白かったならここにはいないと思います」
「なるほどね」
ブザーが鳴る。彼の嫌いな音。
「すみません。話の続きはまた次に」
「ああ、そうだね。そうしよう」
 私は部屋を出た。昨日と同じように検査に連れて行かれる。異常なし。なので早めの昼食に向かう。食堂で箸を動かしていると上司の……ええと、加奈河さんがコーヒーを片手に目の前に座った。
「食事をしながらでいいので簡単な問診を。いいかい?」
「どうぞ」
「K-r-0083と会話している時に身体に悪寒が走ったりはしない?」
「しません」
「ではK-r-0083との会話の最中、何か身体で感じることは?」
「うーん、暗闇さんの顔の辺りから冷んやりした空気を感じる。ですかね?」
「冷気を感じると」
「ええ、まあ。冷蔵庫を開けた時の感覚ですね。顔に冷気が当たる」
「においや聴覚的な方では何か違和感を感じる?」
「いいえ、特には」
加奈河さんは私の回答を書き記していく。
「些細なもので構わない。感じたことがあったら出来るだけ詳細に教えてほしい」
「ああ。うんと、顔は見えないのですが視線は感じます」
「見られている感覚がはっきり分かると」
「ええ」
「他には?」
「んー、彼いい声をしているなと思います。低くて聞きやすい、落ち着いた声です」
「他には?」
「……これといってないですかね」
「なるほど。問診は以上だ。君の仕事は本日は終了。あとは寛いでいていい」
「え、まだ午前ですよ?」
「始めのうちは一日一回の接触に抑える。こちらもぽこぽこ職員に死なれては損失が大きくてね。使える人材は長期的に使いたい」
「なるほど。承知しました」
では、と加奈河さんは書類を片手に別のテーブルへ動いていった。そこでも別の職員に問診を行なっている。忙しそうだ。対して私は、暇だ。
 上司の言葉は鵜呑みにするな、しかし指示にないことはするな、と訓練校で言われたので私は部屋で暇つぶしに本を読み始める。もし手が足りなかったら仕事の指令が飛んでくるはずだ。でもその期待を裏切るように時間はどんどん過ぎていき夜になってしまった。食事を終え本の続きに向かうもすぐに飽き、明日は暗闇さんと何を話そうかという方へ頭がいく。今日読んだ本の感想を言おうか? とか。私の話なんて面白くないだろうになんで聞きたがるのだろう? とか。実は透明なだけでほぼ人間なんじゃないのか、とか。色々と思考を巡らせていると瞼が下りてくる。やばい。まだ寝支度してないのに寝そう。
でもその眠気は一気に吹き飛ぶ。バチバチという音がし閉じた瞼の下で火花が散った。何が起きたのか分からなくて私は素っ頓狂な声を上げる。反射で起き上がると、火花は消えた。なんだったのだろう?
 この体験を翌朝に持ち越すか悩んだが、今日のうちに加奈河さんに伝えることにした。夜中に部屋着のまま訪ねたが彼はいつも通りの真面目な顔だった。
「火花?」
「の、ような衝撃が。直前に暗闇さんとの会話をシミュレーションしていて……目を瞑ったら線香花火のような光と音が見えて聞こえました」
「その花火はまだ見えてるのか?」
「いいえ、驚いて目を開けたら消えました」
「……なるほど。報告書に書いておくよ」
「お願いします」
「君が寝ている間も身体データは録っているから、何かあればすぐにわかる。早めに寝て明日詳しく検査をしよう」
「今検査しなくて大丈夫ですか?」
「……君がいいならもちろんすぐに検査したいが」
「今にしましょう。私もデータ見て安心したいので」
「そういうことなら」
午前と同じ検査を受けるものの、特に変化や異常は見られなかった。ただ疲れただけだろうか? それならそれでいいのだけども。お手数をおかけしましたと検査員と加奈河さんに伝え、私はすぐさま就寝した。

「おはようございます」
「おはよう。昨日は眠れた?」
「ええ」
「そうか」
 朝になり食堂で加奈河さんと顔を合わせる。良ければと申し出て同じテーブルを囲んで食事をする。もちろん仕事の話をしたいためだ。
「今日もK-r-0083と接触してもらうが、問題はないね?」
「はい。それであの、仕事のことで相談が」
「なんだね?」
「昨日部屋でゆっくりしていた時に変化があったので、今日の接触で似た状況を再現してみたいのですが」
「……つまり?」
「部屋着のまま彼に会ってみようかと」
「なるほど。構わないよ」
「ありがとうございます。あと本も持ち込みたいのですが」
「うん。それなら……この用紙に持ち込むものと今日部屋着で接触しようと思ったいきさつを記述しておいてくれ」
「承知しました」
加奈河さんに渡された用紙に目を通す。私が仕事で使った専用の用紙の上司版らしい。若干記載内容が違っていた。管理職は大変だなと頭の隅で思う。
 部屋着、本、おまけに枕まで抱えた状態で私は扉の前に立つ。他の職員が私を怪訝な目で見ていると、加奈河さんが書類を見せて耳元で説明をする。そのやりとりを横目にしているとブザーが鳴り扉が開く。部屋に入るや否や、暗闇さんは明らかに動揺していた。最初に声をかけたのは私の方だった。
「ごきげんよう」
「ご、ごきげんよう。その格好は?」
「これですか? 強いて言うならザ・寛ぎフル装備です」
そう告げると暗闇さんは一瞬黙り、盛大に吹き出した。笑うんだ、この人。人、じゃないけど。
「ふふ、ふ、ふ。星川さんは面白いね」
「そうですか?」
「確かに私は寛ぎに来いとは言ったけども。ふふふ、親鳥の後ろについてくる雛のようだよ」
「それ、褒めてます?」
「いや、からかった」
「そうですか」
「気分を害したかい?」
「いいえ、全然」
「そう。それならよかった」
人ならざる者にウケたことはいいのか悪いのかわからないが、暗闇さんは機嫌が良くなったようだ。
「本日は一時間お相手をいたします。よろしくお願い致します」
「ん、ああ。よろしく。本は何を持ってきたの?」
「詩集です」
「へえ、詩を読むの? あまりそういうタイプではなさそうだと思っていたのだけれど」
暗闇さんと受け答えをしながら私はソファに腰掛ける。
「貸し出しの棚で見つけたのがたまたまこれだったので」
「ああ、無意識に選んだのか」
「そうです」
「個人の詩集のようだけど、どういった詩を書くのかなその人物は?」
「星とか、夜空とか、汽車とかが好きなんでしょうか。そういった題材が主な人です。古い時代の人なので私も初めて読んだんですが、なかなか綺麗で好きですね」
「星か」
「はい」
星から私を連想したのだろう。暗闇さんはなんだか嬉しそうに私を見つめた。私も黙って視線を返す。
「今、楽しい?」
「普通です」
「そう。私は楽しいよ」
「そうですね。楽しそうに見えます」
「表情が見えないのによくわかるね」
「声色で判断しています」
「そう」
「嬉しそうですね」
「そう見える?」
「はい、とても」
「なら、そうなんだろうね」
普通の会話だ。彼が人間でないことを忘れるぐらいに。
「昨晩私のことを考えていたようだね」
「え」
何故それを。
「君の気配が飛んできたものだからそうかなと思って。違ったかな」
「……今日の接触で何を話そうかなとは考えていました」
「ああ、そのせいだね」
「気配が飛んでくる、とは?」
「この国なら生き霊とか言うでしょ。生きてる人の思念だけ別の場所に行ってしまう現象。そういう類の話かな」
「私の生き霊ですか」
「生き霊よりもっと薄い、存在の陽炎のようなものだけどね。君だなとわかったから」
「暗闇さんはそういった陽炎が見えるんですか?」
「見えはしないけどね。知覚出来るよ」
「へえ、すごい」
「そう?」
「はい」
次、何を話そう?
「今日の接触は一時間だったね」
「そうです」
「三十分、出来たらもう一時間延ばせないかな?」
「えーと」
私はマジックミラーを見る。向こう側で加奈河さんが控えているはずだ。
「すみません、その決定権は私にはないので」
「そうか。なら三十分延ばしてもらおう」
「いえ、あの。上司に聞いてみないと」
「この部屋の外にいる人間に関しては私はどうでもよくてね」
その発言で私は暗闇さん、いやK-r-0083というコードを思い出す。初めのアルファベットが危険度、次のアルファベットが性質。その後の数字が収容順だったと記憶している。確か、Kで始まるのは危険度が五段階のうち二番目に高いものだったはずだ。忘れていた。彼が人ならざる危険なものなのだと。
「……なぜ三十分延長したいのかお尋ねしても?」
「まだ予測だが、君の命に関わる」
「えっ」
「三十分だけ私の部屋にとどまれば済む話だよ」
「それは、あの。私を保護してくださるという意味ですよね?」
「もちろん。君は気に入っているからね。他の奴に盗られるのは惜しい」
そりゃ助かるなら是非延長してもらいたい……え? 他の奴?
「他の奴って──」
聞こうとしたところで、けたたましいサイレンに邪魔をされる。思わず両手で耳を塞ぐ。
「確定してしまったか。脱走したのは二体だよ、職員さん。早く鎮圧したらどう?」
暗闇さんはマジックミラーの向こうへ話しかける。
「な、何?」
訳がわからない状況に困惑する。
「他の部署のアーティファクトが脱走したんだよ」
「脱走……」
「人に害を及ぼす人ならざる者が、その封印を破って外に出たのさ。まだ範囲が施設内だけどね」
「そ、それなら緊急事態では。あ、えーと緊急マニュアル……」
読み損ねていたマニュアルを今更読み出す。昨日詩集の代わりに読んでおくべきだった。
「抜けてるねえ星川さん」
「へ」
「その無防備さは好きだけど、私以外には見せないようにね」
「え」
サイレンがうるさいのに、暗闇さんの声はよく聞こえた。

 銃声や他の音が止み、放送が入る。二体のアーティファクトは再び収容されたらしい。私は部屋の外へ出る。加奈河さんは無事だろうか?
「あの、接触時間を超過した場合はどうすれば……」
マジックミラーのすぐ近くに座っていた職員に話しかける。彼は返事をしない。暗闇さんのいる方を見つめたまま硬直している。
「あ、あの」
「それに触るな星川」
声のした方を振り向くと加奈河さんが立っていた。右手に大きなライフルのような物を持っている。鎮圧に行って戻ってきたんだ。
「加奈河さん、ご無事で」
「私はな。そいつはダメだった」
もう一度振り返る。硬直した職員がそこにいた。彼は私に見せている右半身以外を全て失っていたと、ようやく気付く。
「あ、あ、」
呆気なく生命活動を停止してしまった人間というのを私は初めて見た。動揺した。困惑した。恐怖した。
「そんな」
「慣れておけ。こんなことはここでは日常茶飯事だ」
「こんなに簡単に、人が死ぬんですか?」
「死ぬとも。それと星川、君はこれから精密検査だ。K-r-0083との接触時間が一時間半も超過した。まだ三度目なのに長すぎる。そして、私もここ最近安全だからと油断していた。次から仕事中は必ず制服を着用するように。あれは防護服の役割も持っている。すぐに着替えてきなさい」
「は、はい。わかりました……」
色んなことが起きてクラクラした。自室に戻り制服に袖を通し、検査室へ向かう。途中通りかかった救護室は人でいっぱいになっていた。彼らは鎮圧に行ったり巻き込まれたりしたんだ。今回私は暗闇さんに匿われたけど、次はどうなるだろう?
「そりゃあ、次も匿うけどね」
「え?」
その場にいないはずの暗闇さんの声が聞こえて立ち止まる。もう一度耳を澄ますが、周りは静かだ。
「……今のも報告しないと」
幻聴ならいいけど。
 検査室に入ると、血圧や体温、色んなものを測定されながら合間に問診を受ける。いつもと似た内容だが多少質問内容が細かいようだ。加奈河さんは検査室には来なかった。鎮圧の後処理でもしているのだろう。
「その場にいないK-r-0083の声が聞こえたと?」
「はい。今回はK-r-0083に匿われて助かったのですが、次はどうしようと考えていたらその疑問に対する返事が聞こえて……」
「その声はなんと答えた?」
「そりゃあ次も匿うけどね、と」
「なるほど」
検査員は記入を進めていく。
「他に気付いたことがあれば残りは直属の上司に伝えるように。さっきの騒ぎによるストレスは見られるものの、君の身体に異常はない。よく休息をとって明日に備えるように」
「承知しました。ありがとうございます」
頭を下げ検査室を後にする。別の若い男性職員が私とすれ違うように検査室へ入っていった。この後の検査員は大変だろうな、と思いながら食堂へ向かう。
「うえ……」
食堂の様子は酷かった。机は切り裂かれ椅子は粉々。床は赤黒い汚れでいっぱいだった。これじゃ食欲も失せる。
「こういう時ご飯ってどこで食べればいいんだろう……」
お腹空いてるのに、と私は呟く。
「星川」
「加奈河さん」
加奈河さんが駆け寄ってくる。両手に書類を抱えて。
「検査では異常がなかったと聞いた。すまんが人手が足りん。手伝ってくれないか」
「ええ、もちろん。でも私お腹が空いていて」
「食堂がこの状態ではな。緊急用のバックヤードがある。復旧するまで食堂も他の施設もそっちに変更だ」
「ああ、やっぱりちゃんとありますよね。そういう保険が」
「無論だ。ここは補助施設が必ず三つずつ稼働している。見た目よりずっと広いぞ」
マップを頭に叩き込んでおかないと迷いそうだ。
「……ちゃんとマニュアル、熟読しておきます」
「そうしなさい。さて、まずは腹ごしらえだな」
「はい」
 補助施設の食堂でご飯をつつきながらマニュアルを読み込む。市民なら行儀が悪いと怒られるのだろうが、この職場では時間はいくらあっても惜しかった。周りを見渡すと私のような配属されたてのホヤホヤ新人たちが同じようにマニュアルにかじりついていた。目の前の加奈河さんは食事は早々に終えて書類をバリバリ書いている。ベテランになるとこうなるのか……。
「星川」
彼は書類から目を離さず声をかけてくる。
「はい、なんでしょう?」
「K-r-0083の声を聞いたというこの報告は?」
「あ、すみません。さっき検査の直前に起きたことで報告が後になりました」
「謝らなくていい。詳しい時間はわかるか?」
「すみません時計は見ていなかったので……。加奈河さんに精密検査を受けろと言われて別れたあとの十分後あたりだと思います。なのでええと」
加奈河さんは腕時計を確認する。
「なるほど。時間はわかった。書き足しておく」
「ありがとうございます」
「まだ腕時計は持っていなかったな。この腕時計も支給されるが、配られたら時刻確認の癖をつけておくように」
「はい、承知しました」
「それで星川」
「なんでしょう?」
「君、プリンは好きか?」
「プリンですか? 好きですけども」
なんだろう突然。
「ここの食堂、看板には載ってないがたまに職員がかた焼きプリンを作っている。今日その職員がいるから聞いてみるといい。人気の裏メニューだ」
「へええ、そんなのあるんですね」
「裏メニューとは言っても総務も知っているから公認ではあるんだがね。柔らかいプリンは看板に載ってて、かた焼きは載ってない。そんな違いだ」
「私かたいプリン好きなので嬉しい情報ですよ。ありがとうございます。今もらってきます」
「うん、そうしなさい。食べ終わったら、ここに来るように。書類仕事をしてもらう。私は先に行っている」
「わかりました」
「では後で」
「はい」
やったあ、プリン。私はウキウキして食堂の職員に聞きにいく。職員カードをスキャンして支払いを済ませるとプリンはスイと出てきた。たまらず歩きながら口に運んでしまった。うーん、美味しい。マニュアルの続きに目を通しながら完食し、食器を下げにいく。
「あの、プリン美味しかったです」
さっきの職員にそっと声をかける。ふくよかな職員はグッと親指を立てた。なんだか面白い人だなと私は微笑んだ。
 加奈河さんに指定された部署に向かう。暗闇さんのいたホテルのような内装の部署とは違って、高い天井に壁はコンクリート打ちっ放しという駐車場のような場所だった。部署によってこんなに設備が違うのかと驚きながら扉を叩く。非常階段への出口みたいな金属の扉だ。ノックの音は聞こえるのだろうか?
「失礼します」
開けようとすると向こうから加奈河さんが開けてくれた。
「うちの部署の新人の、星川です」
加奈河さんは私からは見えない誰かに向かって私を紹介する。お辞儀をしながら入室する。
「星川光です。よろしくお願いします」
「ああ、例の子! よろしくねえ!」
声の主は長めの茶髪を整髪剤で後ろへ撫でつけた、壮年の男性だった。まあ、なんというかとてもチャラい。右顔面に縦に走る傷がある以外は。加奈河さんが敬語を使っている相手だ。おそらく目上の人なのだろう。示された席に腰掛ける。机には書類が山積みだった。
「雑務といえば雑務なんだけど、さっきの騒ぎで十数人死んじゃってねえ。よろしく頼むよ」
「……そんなに死んだんですか?」
「まあ逃げたアーティファクトの質からすると被害は小さい方かな」
「は、はあ」
ここにいると死生観が狂うようだ。
「あ、僕は駿未。駿未 柊一(はやみ しゅういち)。加奈河くんとは同期でねえ」
「同期なんですか?」
私は駿未さんの名札に書かれたクラスを見る。Aプラス職員と記されている。
「同期だが、駿未さんはここの署長だ」
ここ、と言いながら加奈河さんはボールペンで机を叩く。今いるこの部署のということか。
「……部署のトップってことですか?」
「まあそうなるねえ」
「すごいですね」
「すごくはないよ。たまたま運が良くて生き延びただけ」
「運、ですか」
「ここで生き残るのは強いやつというより、ラッキーガールとラッキーボーイなんだよね。君もそうでしょ? 星川さん」
「まあ、そうかもしれないです」
「K-r-0083の作業員が生きたままなんてここ始まって以来の偉業じゃない? ねえ加奈河くん」
「駿未さん、口より手を動かせ」
「ああ、はいはい。君は相変わらずくそ真面目だね」
「くそは余計」
「はいはい」
私は目の前の書類の分別を頼まれ、黙々と山を三つに分けていく。
「それにしても珍しいですね、今時紙での書類が主なんて」
「ああ、本当はクラウドに保存しておきたいんだけどねえ。デジタルで悪さをするアーティファクトがいるから無理なんだよ、この施設だと」
「色んなのがいるんですね、アーティファクト」
「そうだねえ。まあ有史以前からいたそうだから、こういう管理や接触を始めたのもそう最近の話じゃないんだけど」
「こんな施設があるなんて知りませんでした」
「まあ、いわゆるオカルト施設だからねえここは。一般には知られてないんだよ」
「なるほど……。分別終わりました。次は何を?」
「ん、ああそしたら僕が終えた書類にひたすらこの判子押してくれる?」
「承知しました」
「いやあ、新人が仕事のできるいい子でよかったねえ加奈河くん。おまけに生きてる」
おまけとメインの順序が逆では?
「…………」
加奈河さんの横顔を見る。そういえば私は五十九人目の作業員だ。つまり加奈河さんは私より前の何人かを目の前で失ったことになる。
「私で五十九人目なんですっけ、K-r-0083の作業員」
「……そうだ」
「他の作業員は即死だったんですよね?」
「ほとんどはな。部屋から出てきて生きていたのもいたが、長くても半日だった」
「私がいまのところ最長記録ってことですか?」
「そうだ」
「ラッキーガールなんですね私」
「そうだよお」
「他の作業員の死因ってなんですか?」
「……報告書にあるから後で読むといい」
「別にもったいぶらず今教えればいいじゃないの加奈河くん」
「今は書類整理が優先だ」
「真面目だねえ。それとも彼女に気を使った? ああ、いいよ答えなくて。星川さんはどうして死因を聞きたいんだい?」
「ええと、覚悟しておこうかと思って」
「死ぬ覚悟を?」
「はい」
加奈河さんと駿未さんは顔を見合わせる。
「加奈河くん、こりゃちょっと手放すには惜しいんじゃない?」
「……昇級申請しておくよ、後で」
「え?」
なんで昇級の話に? と思っていると駿未さんがすかさず説明を入れる。
「ここってEマイナス、一番下の階級の職員は悪い言い方すると使い捨てでねえ。生きてる限り部署をあちこち異動させられちゃうんだよね。だから星川くんも二週間ぐらいで次の部署に異動になっちゃうんだけど」
「ええ、そんな仕組みなんですか?」
「そうなんだよー。だから抱えたい人材がいたら申請しないといけないの。この子うちにくださいって」
「なるほど。……私もなるべくK-r-0083の作業員のままでいたいです」
「おやどうして? まさか彼のこと気に入っちゃった?」
「いえ、K-r-0083が私を他のアーティファクトに盗られるのは嫌だと言っていたので」
加奈河さんと駿未さんが再び顔を見合わせる。
「……逆か。気に入られちゃったのか、向こうに」
「星川、その話は報告書に載ってないぞ」
「す、すみません」
「報告書にはなるべく詳細を書くように……」
「はい……」
「でも今聞けてよかったじゃない?」
「そうだな。そのまま異動させてたらK-r-0083が脱走していたかもしれん」
私が異動したら脱走しそう、だなぁ暗闇さん……。
「するかもね」
あ、また暗闇さんの声がした。私は時間を確認する。
「すみません今、暗闇さんの声がしました」
「え」
「なに?」
「私がいなくなったら暗闇さん脱走しそうだなぁって、思ったら。するかもねって返事がしました」
「……この場にいないのに会話が成り立ってるってこと?」
「はい。さっきもこんな感じでした。彼のこと考えてたらたまに通じるみたいです」
加奈河さんと駿未さんは真剣な顔で視線を交わしている。
「……テレパシーかな」
「やはり脳に影響するタイプか……厄介だな。星川、その声は頭の中で響く感じか?」
「いえ、すぐ隣にいるような感じで聞こえます。声のする方を見ても誰もいないんですけども……」
いないよね? と見渡す。もちろん私たち三人以外はこの部屋には誰もいない。
「その会話、星川の方から話しかけることは出来るか?」
「え、どうでしょう? やってみますか?」
加奈河さんは頷く。じゃあ、と私は集中する。
(暗闇さん、聞こえます?)
「聞こえているよ」
「……出来るみたいです」
「双方から接続可能か。続けて」
「はい」
(えーと、私と距離が離れていてもお話出来るんですね?)
「そうだよ」
「ほうほう……」
メモを取りながら会話を続ける。
「上司と一緒にいるね」
「え、見えてる?」
「君越しの風景だけど見えているよ」
「あれこれ頭の中じゃなくても会話成り立つんですか!?」
「成り立つよ。気付くの遅かったね」
「え、じゃあ口に出して喋ります。周りもわかりやすいし」
「いいよ」
声に出しても成り立つとわかったため加奈河さんが私を見ながら記録を始める。口パクで続けてと促される。
「暗闇さんとお喋りできているこの状態ってテレパシーなんですか?」
「有り体に言えばそうかな」
「有り体に言えばですか。ということはちょっと違う?」
「どれかというと電話に近いかも」
「電話ですか。お互いに受話器と送信機になってると?」
「星川さんは昨日信号を受け取ったでしょ?」
「信号……あ、花火」
「そう、それのこと。他の人間は受け取りきれなくてそのまま死んじゃったけどね」
「他の作業員の死因はこの信号だったんですか」
私は喋りながら加奈河さんに手渡された報告書の裏に図を描いていく。
「そう。私は彼らとお喋りしたいだけだったのにね。残念」
残念と言っているが、正直あまり残念そうには聞こえない。
「この電話って常時接続型ですか?」
「違うよ。気配が飛んでくるって言ったでしょ」
「ああ。ええと、思念を飛ばすと可能になると?」
「そう」
「なるほど」
「あれ、じゃあ受け取るかどうかはお互いに選択できるんですか?」
「そうだね、話したい気分だったら繋がる感じだよ」
「なるほど……」
図に書き加えていく。
「もしも会話を切りたい時はどうすればいいですかね?」
「そういう時は別のこと考えるといいよ」
「あー、なるほど。逆に言うと会話中は暗闇さんへ意識を向けてないといけないわけですね……」
「そういう感じ。よく出来ました。あまり長いと君が疲れるから、もう切るよ」
「え、あの」
暗闇さんの気配が突然消える。一方的に会話を切られてしまった。
「……どうした?」
「話してる時間が長いと私が疲れるからって、会話切られちゃいました」
「星川、よくやった」
「え、ありがとうございます?」
「K-r-0083に関しては作業員がすぐ死亡して調査が進んでいなかったんだ。今のでかなり進展したぞ」
「おお、やりましたね」
「すごいねえラッキーガール」
私は照れ臭くてえへへと言う。加奈河さんは報告書を進めている。そうだ、私も書かないと。
「K-r-0083の作業員の死因は脳死だ」
「脳死ですか」
「それも突然にな。だが今ので仕組みがわかった。これで対策も立てられる」
「おお……」
私、いっぱい仕事したかも。夜もプリン食べちゃおうかな、自分へのご褒美に。
「星川さんは二階級ぐらい上げてもらえば? ねえ加奈河くん?」
「決めるのは俺じゃない」
「希望は書けるでしょ」
「昇級に関しては審査員みたいな方がいるんですか?」
「いるよお。監査があってね」
「なるほど。じゃあ監査員に会うんですかね、今度?」
「会わないと思うなぁ」
「え?」
「監査員は施設のあちこちにいて、常に見て回っているし報告書も全て目を通している。どこかで会っているかもしれないし全く会わないかもしれない」
「え、ある意味そっちの方がよっぽどアーティファクトっぽいじゃないですか」
駿未さんがコーヒーを吹き出しかける。加奈河さんは咳払いをする。
「星川さんって面白い子だよね」
「……かもな」
「監査員は他の調査員と作業員に紛れて動いているからね。誰が監査員だかわからないようになっているんだよ。主に賄賂を防止するためにね。あと部署間同士の縄張り争いとかの抑止にもなってるかな」
「縄張り争い?」
「収容しているアーティファクトによって管理が楽だとか大変だとかそんなことで争う奴もいるんだよ。くだらないがな」
「へえ……。あれ、そしたら監査員ってもしかして作業員や調査員も兼ねているんですか?」
「そうだねえ。紛れてないといけないから本来の部署以外の仕事もやってるよね」
「うわあ、大変そう……」
「ここの職員はみんな大変だよ。ま、お互い様だよねえ」
「なるほど……でも監査員さんは特に労ってあげたいですよね。バレないようにしながら仕事してるから人一倍大変そう……」
そう言うと二人が静かになったので顔を上げる。
「その言葉だけで充分報われたんじゃないかなぁ。ねえ?」
「……なんで俺の顔を見る?」
「さぁてね」
私は二人のやりとりの意味がわからなくて首を傾げた。
 ある程度書類を片付け、駿未さんと別れる。加奈河さんと一緒に自分たちの部署に戻る。騒動でぐちゃぐちゃになっていた暗闇さんの部屋の前はだいぶすっきりしていた。右半分になってしまった職員も、もういない。
「清掃もだいぶ進んだみたいだな」
「清掃員も大変そう……」
「大変を数えだしたらキリがないぞ、星川」
「もうみんなにプリン配って歩きたいですよ私」
「……そうだな」
私は自分のデスクに座りながらため息をつく。この大変な職場で全員が死と隣り合わせなのかと嘆いた。加奈河さんが私の前に書類を積んでいく。これ全部やるのか……。
「今日中に全部片付けなくていい。上から順に済ませていけ。締め切りの早い順になってるからな」
「はい……」
給与がよくなかったら逃げ出してるな、ここ。私は一枚ずつ目を通していく。今のところサインするだけのような書類ばっかりだ。仕事自体はそう難しくないけど、量が多い。
「星川」
「はい」
「参考に聞くが、何階級上がりたいとかの希望はあるか?」
「え? そんな自由なんですか昇級って?」
「まさか。あくまで希望だ。申請書に書くために聞いてる」
「ええと……そうだなぁ」
私はまたマニュアルを開く。短期間で勝手に異動にならないクラスは、と。
(Eから上かあ。今Eマイナスだから一つ上でいいのか……)
「……一段でいいですかね」
「欲がないな」
「ないですよー」
「欲は持っておけ。活力になる」
「んむむ。そういうことなら夜にプリン三つ食べたいですね」
「……食欲があるならよろしい。本当に昇級は一段でいいのか?」
「逆に聞きたいんですけど、いくつまで上がれるんですかね一度に? その辺マニュアルには書いてないんですけど」
「その時の仕事の質によるな。基本的には一段ずつだが、いい結果を出せば三段上がれるらしい」
「え、そんなに?」
加奈河さんは頷く。
「そうだなぁ、じゃあ欲を出すなら二段かな……」
「欲を出して二つか。まあ、いいだろう」
「まだ配属されて三日目なんでいきなり三つも上がらなくていいかなって感じです」
「先輩として助言するなら上がれるときに上がっておいた方がいいぞ」
「そういうものですか」
「そういうものだ」
「うーん、それなら返って私の希望は書かずに監査員さんに全てお任せします。客観的に上げられるだけ上げてもらう感じで」
「監査員に委ねると?」
「はい」
「……やはり昇級に関しては欲がないな」
「そうですかねえ」
「ん、五時か。書類を提出してくる。一度自室へ戻っていなさい。休憩だ。今日は少し残業をしてもらうことになる」
「あ、はい。わかりました」
加奈河さんは私が終えた書類もまとめて持っていった。彼は仕事は出来るし、表情は崩さないがなんだかんだいい人だ。よかった、というべきか。
 オフィスから出た私は自室に戻る前に、暗闇さんの部屋の前に立つ。今日ここで少なくとも一人死んでしまったのだなぁということと、ほんの一枚窓を隔てて暗闇さんがいるなということを考えていた。ぼうっと暗闇さんを見つめる。すると、彼がこっちを向いて手を振った。アーティファクト用のマジックミラーのはずなんだけども。
「もしかして見えてます?」
「見えてないけど、君がいるのはわかるよ」
「そうなんですね」
「星川さんは特にわかりやすいからね」
「気配がですか?」
「そう」
「そうですか」
また黙り、暗闇さんを見つめていると彼は席を立って窓の近くに来る。両手をスラックスのポケットに入れ右足に重心をかける。服装もあいまって、魅力的な男性に見える。私と比べると頭一つ違う背丈。靴はそんなに厚底でもないからそもそもの背が高いのだろう。180cmは悠に越えているようだ。また嬉しそうに私を見ている。
「暗闇さんって、もしかして私のこと好きですか?」
「うん、好きだよ」
「そうですか」
「嬉しい?」
「ええ、まあ」
「そう、よかった」
そういえば、部屋に戻らないと。
「すみません。もう帰ります」
「そう。またね」
「はい」
窓のそばから離れる。しばらく歩いて振り向くが、まだ暗闇さんは窓辺に立ってこっちを見ていた。本当に見えていないのだろうかと思うぐらい正確に私のいる場所を捉えている。彼はまた手を振った。私も手を振り返す。あれが本当に危険な存在なのだろうかと、私はまだ疑っていた。

 自室に一度戻り、食事の時間になったのだがそのまま食堂へ移動していいのかわからず自室の入り口近くでうろうろしている。五分ほどすると加奈河さんがやってきた。
「律儀に待っていたのか」
「はい。勝手に移動していいのかわからなかったので……」
「休憩中だからそのまま食事へ向かって大丈夫だったんだが。まあ、おかげで探し回らずに済んだよ。これ、支給の内線電話と腕時計」
「ああ、ありがとうございます」
「外箱を部屋に置いてくるといい。使い方は歩きながら教える。早速持ち歩きなさい」
「はい」
 内線の使い方を教えてもらいながら食堂に来ると、すでに復旧は終わったらしくいつもの光景に戻っていた。
「復旧早いですね」
「みんな慣れているからな」
「慣れですか」
話しながら別のことを考える。さっきの暗闇さんとの接触、加奈河さんに報告しないと。
「星川さん」
暗闇さんの声。
「伏せて」
私はとっさに、隣にいた加奈河さんの襟を思いっきり引っ張りながら姿勢を低くする。次に頭上で、金属同士がぶつかる激しい音がする。ジャキン。今のは、なんだろう? あちこちで悲鳴が上がる。加奈河さんは腰に持っていた警棒を取り出し振り返ろうとする。見えたのは加奈河さんと、その寸前に迫っていた大きな刃。
「危ない!」
私は叫ぶ。もう一度激しい音がする。金属同士がぶつかる音。思わず目を瞑る。ややあって目を開けると、加奈河さんの前に暗闇さんが立っていた。
「えっ」
「ハァイ星川さん。五体満足?」
「あ、は、はい」
「よかった。やあ加奈河。対面は初だね」
「お前っ……!」
「どうどう、私より前に逃げ出したあっちの鎮圧が先じゃない?」
暗闇さんが示した方向にあったのは大きなハサミだ。広い食堂の端から端まで到達してしまうような大きな大きなハサミ。そのハサミを、暗闇さんは指一本で止めていた。サイレンが鳴り響く。二体の脱走を告げる。
「本当は脱走したくなかったんだけど、お気に入りのお気に入りがピンチじゃねえ?」
「……職員に加勢するのか?」
「まあね」
「……星川を頼む」
「言われなくても、もちろん」
加奈河さんは食堂の端に設置されている受話器に走り寄る。私はへたりこんだまま暗闇さんを見上げる。
「怖かったでしょ。もう大丈夫だよ」
「……はい」
「これを仕舞うまで私のそばから離れないようにね」
「はい……」
暗闇さんは私を見たまま両手をスラックスのポケットに突っ込む。ハサミは指で止めていたわけではないらしい。ハサミは抵抗しているのか、刃を閉じきらないまま激しく振動している。
「うるさいねえ。私はお気に入りが他に盗られるのは嫌いだって言ったろう?」
暗闇さんはハサミに向かって言い放つ。
「お前なんてくしゃくしゃに丸めて捨てられるんだよ私は? まあ言うだけ無駄か。本能で動いてるだけの奴には」
ハサミは暗闇さんが喋っている間も抵抗している。放送が入る。脱走は二体。暴走しているのが一体、Q-r-0033。協力態勢なのが一体、K-r-0083。目標はQ-r-0033の鎮圧。現在K-r-0083がQ-r-0033に対抗している、と。
「……暗闇さん」
「ん?」
「助けてくれて、ありがとうございます」
「ああ、どういたしまして」
武器を持った職員がQ-r-0033を取り囲む。私はようやく立ち上がり、暗闇さんの近くに立つ。多分、このほうが安全だ。暗闇さんはハサミに向かったまま左手を私に差し出す。
「……なんです?」
「手を繋ごうかと思って」
「ああ」
私は右手でそれに応える。手袋越しだが、手も冷んやりしているようだ。
「こいつの脱走条件なんだったっけ?」
暗闇さんは武器を持って戻ってきた加奈河さんに聞く。
「“人間が夜に爪を切ること”」
……え? それが条件?
「ああ、あれか。まだ獲物を仕留めていないようだから、しばらく抵抗するよ? 該当職員早く炙り出してくれないかな。それなりに疲れるんだよね、これ」
いつの間にか拡声器を持った職員が食堂の端にいる。
「あー、あー、マイクテス。日没後に爪を切った職員、手を挙げなさい」
ややあって、伏せていた一人の職員が手を上げる。昼に食堂で見かけた、マニュアルにかじりついていた新人の一人だ。顔が真っ青。
「はい、君ハサミの前に立って」
拡声器の人が指示を出す。怖いのか彼は立つことが出来ない。他の職員が無理やり立たせてハサミの前に連れて行く。どうやらネクタイを外されているらしい。
「これからなにを、するんですか……?」
私はこわごわと加奈河さんに聞く。
「……該当職員の首を撥ねさせるんだよ」
「ええ!?」
死なせるの!?
「おいおいおい! 首じゃなくていいだろうに!」
暗闇さんまで声を上げる。
「なに?」
「親指で済む! バカだねえ君たち! “親の死に目に会えない”んだから親指でごまかせるだろう!?」
「な、そんな方法でいいのか!?」
周りの職員がざわめく。
「0083、どうしてそんなことを知ってる?」
「そりゃあ君たちと違ってあちら側の住人だからね私は。知ってることは多いさ」
加奈河さんは暗闇さんを睨んでいる。
「……聞いたか! 親指を切らせろ!」
「は、はい!」
新人は左手の親指を突き上げて姿勢を低くする。武器を持った職員が下がり、他の職員はハサミの届かないところへ移動する。暗闇さんはその場から動かないので、私は彼と手を繋いだまましゃがむ。
「0083、合図を待て」
「はいはい」
「……3、2、1」
ゼロ、と加奈河さんが言うとともに刃が動く。ジャキン。新人の親指がぽとりと床に落ちる。彼は痛みに呻いた。Q-r-0033はすうっと壁の向こう側に後退していく。数秒の静寂が訪れ、放送が入る。
「Q-r-0033の再収容を確認。全職員は目標をK-r-0083の再収容に設定し行動せよ」
武器を持った職員が今度は暗闇さんに一斉に照準を変える。
「そんなもの向けなくても自分で部屋に戻るよ。ああ、でも星川さんが連れて行ってくれるなら嬉しいかも」
暗闇さんは私を立ち上がらせる。私は頭を振って気持ちを切り替える。
「……K-r-0083を再収容します」
武器はいらない。私が手を繋いだまま元の部屋に戻ればいいだけだ。
「部屋までの案内、よろしくね」
暗闇さんは嬉しそうだ。私は今度は左手で暗闇さんの右手を握り食堂の出入口へ踏み出す。 武器を持った加奈河さんと数人の職員が後ろからついてくる。私は緊張と、さっきのハサミが怖かったのを思い出して泣いてしまいそうだった。
「星川さん、深呼吸だよ深呼吸」
歩きながら暗闇さんは私を宥める。言われた通り深呼吸すると涙が引っ込む。
「よく頑張ったね。私を収容したら昇級するんじゃないかな」
私は頷く。声を出す余裕がない。何事もなく暗闇さんの部屋の前にたどり着く。私はいつものソファまで暗闇さんを案内する。
「大丈夫?」
「……大丈夫です」
「そう。今日はよく休んでね星川さん。おやすみ」
「……おやすみなさい」
暗闇さんの手を離す。彼はいつものようにソファで寛ぐ。武器を構えた加奈河さんたちの方へ歩いて戻る。私の後ろで扉が閉まる。
「……本部へ。こちらABクラス混合鎮圧部隊。K-r-0083の再収容を確認。繰り返す、K-r-0083の再収容を確認」
「こちら本部。K-r-0083の再収容をこちらでも確認。全区域の警戒を解除する。ただちに持ち場に戻れ」
「了解」
緊張がほどけて私は膝から崩れ落ちる。加奈河さんが駆け寄って膝を落とす。
「星川、大丈夫か?」
「す、すみません緊張がとけて……」
「お前は今日本当によくやったよ。さ、戻ろう」
「ありがとうございます……。プリン五つぐらい食べたいです今日……」
「私の分をやるよ」
「やったあ……」
加奈河さんに支えられながら、バックヤードへ向かう。もうへとへとだ。少しの事務作業を済ませ、その日は泥に沈むように眠った。

 翌日。私は寝坊した。にもかかわらず半身を起こしたままぼんやりとする。昨日色んなことがありすぎて頭が追いついていない。
「……遅刻しちゃう」
ようやく制服に袖を通す。朝食も取らずオフィスへ向かう。カードを差し込んで扉を開ける。加奈河さんが部屋から出て行こうとするところだった。
「おはよう、ございます」
「……おはよう星川」
「すみません、遅刻しました」
「……。今日お前は休みだ。仕事はしなくていい」
「え、でも」
「朝食は? 摂ったのか?」
「……まだです」
「朝飯食ってこい。話したいことがあるならそれからだ」
「でも、暗闇さんの顔を見たくて……」
加奈河さんは眉をひそめる。
「お願いします。仕事、させてください」
「……仕事はしなくても面会は出来る。ともかく、お前は今日は休み。今から私が作業に行くところだから一緒に来い」
「でも加奈河さん調査員なのに……」
「調査員である前にお前の上司だよ。いいからほら、来い」
「…………」
加奈河さんの後ろについて歩いて行く。窓越しに暗闇さんの姿を確認する。ブザーが鳴り、インカムのようなものを装着した加奈河さんと一緒に部屋に入る。
「おや、ごきげんよう諸君」
「おはようございます暗闇さん」
「今日、星川は休みだ。代わりに俺が作業をする」
「ほう、どういう風の吹き回し? いや、どうでもいいや。おいで星川さん」
とぼとぼと私は暗闇さんに近寄る。
「おはよう、星川さん」
「おはようございます……」
「んー、まだ疲れた顔してるね。仕方ないね、昨日色々あったもの。私に会いたかったらいつでもおいで。君なら歓迎するよ」
「ありがとうございます」
暗闇さんは私の頬を撫でる。冷たい手袋。でも、安心した。
「私はこれで……。失礼します」
「うん、またね」
暗闇さんは手を振る。私も振り返す。私が立ち去った後、加奈河さんと暗闇さんは会話を続ける。これは後から報告書で読んだものだ。

「昨日星川のおかげで対処法がわかったからな。作業員を増やす」
「ああ、それでその不恰好な頭部シールドつけてるわけ? そんなものあってもなくても一緒だよ私には」
「……星川の影響か、よく喋るようになったな0083」
「その言葉そっくりそのまま返すよ加奈河。君がそんなに喋るなんて珍しいじゃない。君も星川さんが気に入ったんでしょう? 特定の人間に思い入れすると仕事に支障が出るんじゃない? ■■■■■■■くん?」
「…………」
「その沈黙はYes ? No ?」
「どっちでもいい。八時二十分。作業を開始する」
「どうぞ」
「昨晩は緊急事態とはいえ脱走したな?」
「今更聞かなくてもその場にいたじゃない。お礼を言ってもいいんだよ? 君を救いに行ったんだから」
「……その件に関しては感謝する」
「どういたしまして」
「脱走。つまりお前はこの部屋から勝手に出ていけるということを証明した」
「そうだね。そもそも私はraider。ここに勝手に入ってきた変わり種なんだから、そのぐらい予想出来たんじゃない?」
「今まで脱走せず大人しくしていた理由を聞こう」
「脱走したいだけの理由がなかっただけだよ。欲しいものは要求すればそれなりに揃えてもらえるし、ここの食事は悪くない。本も読める。窓越しでも人間観察は面白いしね」
「……それなら作業員を殺す理由もなかったはずだ」
「暇つぶしだよそんなの」
「なんだと」
「脅威であることをほどほどに伝えておけばKingクラスにしてもらえるからね」
「それだけの理由で五十八人殺したと?」
「これでもかつて古き国では崇められていてね。王様の枠で収まっていたかったのさ」
「…………」
「怒った? 身勝手な理由で人を殺したから。でも君たちの言う神様なんてそんなものでしょう?」
「己を神だと称するのか」
「だって、そうだったんだもの」
「今は違うと?」
「私自身は何も変わっていないよ。人間の都合が変わっただけ。崇める人間の数が減ってしまったから神と呼ばれないだけ」
「…………」
「人間は勝手だよね、本当に」
「八時三十分。作業を終了する」
「おや、もう行っちゃうの? もう少しお喋りしない?」
「……お前の危険度を是正するよう上に報告する」
「えー、キングがいいのにー」
「…………」

 二人と別れた私はぼんやりした頭で食堂にいた。食事を口に運んでいるが、味は覚えてない。
「ここ、いいかな?」
若い男性が声をかけてくる。左の親指がない。
「……昨日の」
「ああ、うん。覚えててくれた? 君にお礼を言いたくて。佐井登(さいとう)です。よろしく」
「……星川です」
佐井登さんと握手をする。Eマイナスランクの職員だ。つまり私と同じ新人。歳も近そうだ。新卒なのだろう。
「星川さんのおかげで死なずに済んだよ。本当にありがとう」
佐井登さんは頭を下げる。
「お礼を言うならK-r-0083に……私は何も」
「ああ、うん。もちろん0083にもお礼は言いに行くよ。でも0083が外に出てきたのはあの場に君がいたからだから……」
「…………」
「本来なら俺の失敗は降級ものだけど、ランクが一番下だからこれ以上下げられないってさ。はは……」
「…………」
「君は昇級するんだよね。おめでとう」
「え?」
「あれ、知らなかったの? ほら、あそこに掲示板あるでしょ? あそこに職員のランクとか名前とか、昇級降級とか載ってるんだよ。後で見てくるといい」
「ああ、ありがとうございます。あそこにあったんですね……」
「うん、じゃあ俺はこれで」
「はい。……また今度」
「……うん、また今度」
佐井登さんは別のテーブルへ動いていった。そちらには他の職員がいる。雰囲気からして彼らは同じ部署なのだろう。食べ終わったので私は掲示板を見に行く。どうやら五十音順になっているらしい。星川、星川……。ああ、あった。
「Dマイナスへ昇級……」
三つ上がったらしい。
「星川さん」
声のする方を振り向くと、駿未さんが立っていた。いつの間にいたのだろう? 気付かなかったな。
「おはようございます駿未さん」
「おはよう。やっぱり三つ上がったんだねえ、おめでとう」
そう言われてもう一度掲示板を見る。
「……昇級、喜んでいいはずなのに……嬉しくないんです」
「おや」
「だってあんなに、死んだのに」
「脱走はいつも事故だから。仕方ないよ」
「仕方なくないです」
「星川さん……」
「死んだ人と私の立場が逆だったかもしれない。昨日死んだのは私だったかもしれないのに……喜べないです」
「それなら、君が死んだ側だったとして、生きてる職員を恨めしく思う?」
「……わからないです。死に方によっては恨むかもしれない」
「うーん、そっか……」
視界がぼやける。涙が床に落ちる。ぽとり、ぽとり。
「僕はだけど、生きてる職員が多いならそれに越したことはないかなぁ。それに運も実力のうちだよ。星川さんは自分の運で周りの被害を最小限に留めたんだ。褒められてもいいと思うな」
私は駿未さんの顔を見る。彼は屈んで私に目線を合わせていた。
「だからね、おめでとう。君のおかげで僕や他の職員は生きてるじゃない。それはいいことだし、みんな嬉しいはずだよ」
涙が溢れる。止められない。駿未さんは私の肩を優しく叩く。
「今日はさ、食堂の美味しいものいっぱい食べてさ、ゆっくりしなよ。中庭に行くのもいいと思うよ。中庭の場所わかる?」
私は首を横に振る。
「そっか、じゃあ後で一緒に行こうか。ね、自室に戻ろう。ね」
駿未さんの声が優しい。私は彼に肩を抱かれながら部屋に戻り、しばらく一人で泣いていた。

「やあ加奈河くん、暇かい?」
「暇、に、見え、る、か?」
「おっとっと、そんなに怒らないでよ。冗談だよー」
「……星川はどうだった?」
「ダメそう。二、三日放っておいたほうがいいよ、あれは」
「……そうか」
「星川さんは優しい子だよね。そこが仇にならなきゃいいんだけど」
「…………」
「彼女、Dマイナスに昇級だってさ」
「知ってる」
「まあ、知ってるだろうね」
「…………」
「……あー、0083の危険度是正するって?」
「ああ。性質の方も再調査だ」
「え? そっちも?」
「奴に関しては今までわからないことが多すぎたのに、放っておきすぎた。気を引き締めて全て調査し直すのがいいだろうというのが所長の見解だ」
「わお、所長がそんなことを」
「0083は嘘はつかないが本当のことも言わない。ああいうのは一番厄介だ」
「そうだね……。その厄介な奴に星川さんが捕まっちゃったのも心配だな」
「…………」
「なんだか年の離れた妹に悪い男がついちゃった気分」
「それ星川に言うなよ。場合によっちゃセクハラ発言だからな」
「ええー!? ひどい!」
「いいから自分の部署に戻れ、駿未」
「おおい無理やり追い出すなよ! ちょっ、まだ話終わってな」
「はあ、全く……」

 昼になった。今日は穏やかな状態が続いている。泣き腫らした顔を化粧で誤魔化し、食堂へ向かう。他の新卒同士、Eマイナスランクの職員はなんだかんだお互いに交流しているらしい。ある程度の塊になって食事を共にしている。学生だった頃はああいう輪に積極的に入っていったのに、今はそんな気分にはならなかった。トレーを持って列に並ぶ。何を食べよう。どれでもいいんだけども。
「やあやあ」
後ろから声をかけられる。茶髪、長い髪をお団子にまとめている丸メガネで白衣の女性だ。口紅が真っ赤。白衣の下はエスニックな柄シャツでかなり派手だ。年は私より上だろうか? 名札を見るとAランクの職員と書いてある。名前は……。
「君が噂の星川ちゃんだねー。私は円衣(まるい)さんだよー」
「円衣さん……初めまして」
「うん、初めましてー。一品奢っていい? あと一緒に食べたいなーお話ししよう?」
「……構いませんが」
「やったー。え、なになに、何食べるー?」
「何にしようか悩んでます。さっぱりしたものがいいかなぁ、とか」
「お、じゃあじゃあおろしうどんとかどーお? 大根おろし美味しいよねー」
「ああ、いいですね。それにしようかな」
「お、そしたら円衣さんがおろしうどんをご馳走するよー。トッピングに唐揚げとかどーお? 肉はイイヨォ、元気でるよぉ」
「唐揚げですか。唐揚げは、いいかな……」
「そーお? じゃあおろしうどんオネガーイ。会計は全部円衣さんねー」
円衣さんは、自分のことを円衣さんと呼ぶらしい。
「円衣さんはどこの部署の方なんですか?」
「円衣さんはねー、アーティファクトを鎮圧させる時の武器とか作ってる部署なんだよねー」
彼女は唐揚げ丼の上にマヨネーズを山盛りにしている。味が濃そう。カロリーもすごそう。
「科学部署、ということですかね?」
「ソウダヨー」
「なるほど、頭のいい方なんですね」
「いやー? 円衣さんは物作るのが好きなだけー」
「物が作れるってすごいことですよ」
「そうかなー? でも星川ちゃんに比べるとすごくないよー」
「すごい……私が?」
昇級の話だろうか? トレーを持って彼女と食堂の端っこへ移動する。
「私のどこがすごいんでしょうか?」
「んっ? だってほらほら、0083の調査を超☆進めた上に0083に気に入られてて? おかげで0033の鎮圧に役立ったじゃない? 0033が脱走したのに被害がほんの数人だった上に死者ゼロって偉業だよー?」
死者ゼロ。その言葉に私は箸からうどんを取りこぼす。
「……あの時、誰も死ななかったんですか?」
「やばい状態の人はいたけど、持ち直したよー」
「……よか、よかった」
涙が出てくる。よかった、死んだ人がいなくて。
「あらら、泣いちゃった。星川ちゃん泣かないでー。円衣さんのハンカチどうぞー」
「ありがとう、ございます」
このハンカチなんだかいい香りする。気分が落ち着く。
「これいい香りしますね。新緑の香りみたいな……」
「ああ、今気分を落ち着ける香水の開発中でねー。試作品をつけて自分で使ってたんだけど、ちょうど良かったー。使い心地どうー?」
ハンカチを鼻に当てて呼吸する。爽やかな香りが鼻腔を吹き抜けていく。
「この香り好きです……落ち着く……」
「お、効いてるねー。円衣さん大成功だあ」
彼女は白衣のポケットを探る。
「これこれ試作品。よかったら使ってー」
「いいんですか?」
「イイヨー。使い終わったら感想とかおせーて」
「わかりました」
「お、やっと笑顔になったねー。星川ちゃん笑うと可愛いよー」
「そ、そんなことないですよ」
「可愛いよー。照れちゃってー」
「からかわないでくださいー」
「うふふー」
「あーれ、仲良くなってる」
駿未さんと加奈河さんがトレーを持って歩いてくる。二人とも休憩みたい。
「やあやあ。円衣さんの実験が今役立ったところだよー」
「へーえ?」
「また何作ったんだお前」
二人がテーブルに座る。Aクラス職員に囲まれてしまった……。
「鎮静剤の一種だけど香水にしてみたんだー。気軽に使えると思ってー」
「へえ」
「……使ったのか?」
加奈河さんが眉をひそめながら私に聞く。
「使いました。ハンカチ越しですけど……いい香りしますよ」
「一応、新緑のにおいだよー」
「新緑で思い出した。ごめん星川ちゃん。午後仕事山積みになっちゃってねえ、一緒に中庭行けそうにないや」
「ああ、大丈夫ですよ。ありがとうございます駿未さん」
「中庭?」
「気晴らしになるかと思ってねえ」
「そういうことなら、円衣さんと行かない? 星川ちゃん」
「え、でもお仕事あるんじゃ……?」
「部署が中庭を越えた向こう側なんだよねー。ついでにどうかなー? って」
私は男性陣の顔を伺う。二人とも頷いている。
「いいんですか?」
「イイヨー。行こうよー。中庭綺麗だよー。作ってる物もお披露目したいしー」
「そういうことなら、是非」
「やったー。星川ちゃんとデートだぞう。羨ましかろう」
「はいはい」
「はいはい、羨ましいです」
「はいはいってなんだー!」
「うわあ怪獣マルイサンだ! 勘弁して!」
円衣さんが白衣の袖で駿未さんの頭をはたいている。仲良いなぁ。二人を見て加奈河さんも笑っている。
「……もしかしてみなさん同期でいらっしゃる?」
「ピンポーン。星川ちゃん大正解ー。円衣さんと加奈河くんとハヤミンは同期でーす」
「ハヤミン……」
「ハヤミンでーす」
駿未さんはピースしている。
「加奈河さんは、加奈河さんのままなんですね」
「加奈河くんは、」
「カナカワクンって感じだよね!」
円衣さんと駿未さんが同時に言う。加奈河さんは顔をしかめている。
「早く食わないと冷めるぞ」
「加奈河くんが食べるの早いんだよお」
「そうだぞー。早食いは消化に良くないんだぞー」
「とっとと食わんと時間が勿体無い」
「そういうとこだぞカナカワクン!」
「書類やるから静かにしろ」
「はむぅん」
「またいっぱい抱えてるねえ」
「まあな」
仕事、手伝わなくて大丈夫かな……。
「あ、そうだデザート食べよっと。円衣さんはケーキ食べるけど他の人はー?」
「いらん」
「僕はゼリーでも食べるかなぁ」
「星川ちゃんはー?」
「私は、いいです。気分じゃなくて」
「えー? 加奈河くんの奢りなのにー?」
「なぜそうなる」
「加奈河くんがつれないから!」
「ちっ」
加奈河さんが書類に向いたまま社員カードを突き出す。円衣さんは当たり前のようにそれを取る。
「じゃあ、星川ちゃんはお茶にする?」
「え、ああ。じゃあ紅茶をホットで……」
「ミルク? レモン?」
「ミルクがいいです」
「はいはーい」
加奈河さんのカードはそのまま強奪された。
「あの、いいんですか……?」
「抵抗するだけ無駄だから」
「ええ……?」
「お洒落怪獣マルイサンはね、可愛い女の子が大好きだから……」
「そう。その際に俺たちに人権はない」
「我々はただの財布」
「え、ええ……?」
しばらくして円衣さんがご機嫌で戻ってくる。
「おまったせー。円衣さんスペシャルセットだよー」
トレーにはゼリーに加えてデザートが四つ載っていた。よ、四つも食べるのかな。さっき唐揚げにマヨネーズたっぷりかけていた気が……。
「ケーキ食べたかったら、食べていいよー」
「え、いえ。遠慮しておきます」
「そーお?」
「円衣さーん、僕のゼリーがブドウになってるよー」
「今日はブドウしかないんだってさー」
「そんなあ」
「ブドウ、お嫌いなんですか?」
「アレルギーでねえ」
「あらぁ……」
「代わりにケーキいただいていい? 円衣さん」
「仕方ありませんねー。好きなのをお取りー」
「かたじけなあい」
……円衣さんが加わると駿未さんのゆるさに拍車がかかるようだ。
「じゃあモンブランもらうねえ」
「どうぞどうぞ。加奈河くんはー?」
「ゼリー」
「友人の危機を回避して偉いねー。はいどうぞ」
「どうも」
円衣さんは私の顔を覗いてくる。トレーを見る。紅茶とコーヒー。メロンケーキ、ショートケーキ、看板メニューにはないかた焼きプリン。
「……やっぱり、プリンいただいてもいいですか?」
円衣さんの表情がふんにゃり崩れる。
「イイヨー」
もらったかた焼きプリンを一口頬張る。カラメルの苦さと卵の甘さが口に広がる。
「美味しいです」
「よかったー」
三人それぞれの優しさが胸にしみる。いいのだろうか、私ばっかり優しくされて。

「いやぁ美味しかった。じゃあまたね星川さん」
「デザートごちそうさまー。午後も仕事に励みたまえ」
「はいはい」
「星川ちゃんの身柄は預かったぞ!」
「ああ、よろしく」
「はいはーい」
 駿未さんと加奈河さんを見送り、私は円衣さんと中庭へ向かう。中庭は小さな公園のようになっていた。円形で、真ん中に小さな噴水がある。木のベンチもある。この施設は確か地下だったはずだけど、上を見ると青空が見えた。
「空はプロジェクターだよー」
「そうなんですね」
「やっぱりみんな、お空が恋しいからねー」
「そうですよね」
高い天井の廊下を歩いて行くとやがて電子ロックとアナログキーでがっしり固められた扉が見えてくる。
「あそこだよ、円衣さんの部署ー」
「ものすごい厳重ですね」
「漏洩するとやばいものばっかりだからねー」
「……私が入って大丈夫なんですか? それは」
「大丈夫だよー。星川ちゃんもうDクラス職員だもの。この扉ねえ、Eクラスプラマイは入れないの」
「ああ、そうなんですね」
「カードここに通してねー」
彼女に続いて言われた通りにカードを差し込んでスライドするとピッと鳴る。分厚い扉の中で何かが動いていき、ガチャンと音を立てて開く。
「職員カードって、更新手続きとかいらないんですね……。アナログで仕事してるって聞いたからてっきりカードもアナログかと」
「カードもアナログだよー」
「えっ?」
「どこかで加奈河くんが交換してくれたんじゃないかなー?」
あっただろうか、そんなタイミング……。
「もしこれが交換されていたとしたら、まるで忍者ですね加奈河さん……」
私が覚えていないだけで実は朝交換したのかもしれない。
「そうだねー。奴ぁスゴイヨー。仕事人だからねー」
「仕事が出来るという意味では、確かにそうですね……。でもバリバリっぽいのに加奈河さん、Aなんですよね。プラスじゃなく……」
「お、気付いちゃった? そこ」
「ん?」
「仕事が出来る人間が、相応の階級にいないことがたまにあるんだよー。そういう人たちにまつわる謎があってねー」
「謎ですか」
「そう、七不思議みたいな都市伝説みたいな噂ー」
「へえ」
「実はそのふさわしくない階級にいる仕事人たちは全員監査だっていう、噂ね」
監査。私はそれを聞いて昨日のやりとりを思い出す。
(なるほど……でも監査員さんは特に労ってあげたいですよね。バレないようにしながら仕事してるから人一倍大変そう……)
(その言葉だけで充分報われたんじゃないかなぁ。ねえ?)
(……なんで俺の顔を見る?)
(さぁてね)
「……あ」
円衣さんはむふふと笑っている。
「どうしよう、私加奈河さんの目の前で監査員の紛れ方がアーティファクトみたいなんて言っちゃった……」
「ぶはははは! なにそれ!?」
「だ、だってどこにでもいて報告書の全てを把握してるなんて人間超えてると思って……」
「うははははそれ最高。その場にいたかったなあー円衣さんも」
「ふわー失言だった……怒られなくてよかった……」
「ふはは。まあ、でも監査かどうかっていうのは本当のところわからないからね。みんなそうじゃないかなー? って思いながら知らないふりをしているんだよ」
「そうなんですね……」
「だから円衣さんはしょっちゅうハヤミンと一緒に加奈河くんをいじっているんだよね。『忙しいか? 加奈河よ。忙しさを忘れてお喋りしようじゃないか』ってね」
「……円衣さんは優しいですね」
「みんな優しいよ」
「そうですね、みなさんとても優しいです。今日もたくさん優しくしていただきました」
「うんうん。でも星川ちゃんも優しいじゃない? お互い様だよねー」
お互い様。駿未さんもそう言っていた。
「優しさもお互い様、ですか」
「そうー」
「……そうですね」
「うんうん」
ふと顔を上げる。時計はもうすぐ二時になるところだった。この施設は広い分移動が大変で、休憩時間も長いのだった。
「午後始まっちゃいますね。私お暇します。部署見せていただいてありがとうございました」
「えっ! いやいやー、これから色々見せるからまだいてー!?」
「ええ? でもお仕事の邪魔では?」
「むしろ使用者としての感想を聞きたいから、手伝って欲しいんだよー」
「ああ、そういうことであれば是非……私でいいなら」
「うん! ありがとうねー助かるよ!」
円衣さんはとびっきりの笑顔を見せる。それを見て私も嬉しくなる。
「まずはねー、これ!」
一見銀色のボールペンだ。
「ペンですか?」
「そう! This is a Pen ! 」
「なんて懐かしい例文……」
英語の授業を思い出す。
「まず持ってみてー」
手渡されたのでまじまじと見つめる。大きさの割に重たい? 振ったりしてみるが、音はしない。
「では、ペン先を出してみてー」
ノックが横についているタイプだ。カチリと押してみる。
「持ったまま広いところに行ってー」
「え?」
「机から少し離れる感じでー。そうそう。ペン先下に向けたまま下に思いっきり振ってみてー」
「こう、ですか?」
シャキン、と音がしてペンが伸びる。ただのペンから30cm以上の金属の棒に変わった。
「お、おおお」
「女性職員も持ち歩ける、軽量警棒の試作品なんだー」
「へええ、すごーい!」
「へっへー。でも強度が問題でねー、強くすると重くなりすぎるんだー」
「なるほど、重さと頑丈さのバランスが難しいんですね……」
「それもねー、よかったら一日二日使ってもらえないかなー? 円衣さんに感想をおせーてほしいの」
「もちろん、協力します」
「いやー嬉しい! 星川ちゃんいい子!」
「ふわー!」
思いっきり頬を揉まれる。
「次はねー、どれ試してもらおうかなー」
円衣さんが大きなプレゼント箱の中をごそごそといじっていると、ブーというブザーが鳴る。私は警棒をボールペンに戻して胸ポケットに仕舞う。
「およ? 誰かなー? へいへーい、円衣さんは手が離せないからDからAは勝手に入ってきておくれー」
ややあってガチャリと扉が開く。
「円衣いるの? ……あれ、見ない顔」
入ってきたのはサラサラの黒髪を背中の真ん中あたりまで伸ばした、伏せ目がちの女性だった。白衣を着ている。
「お邪魔しています」
「……円衣、また女の子口説いたの?」
「ややっ、その言い方は誤解がある!」
「事実だと思うけど」
「私が見学したいって言ったんです」
「……口説かれたのね」
「え、えっと」
女性は私に手を伸ばしてくる。握手を求められたのかと思って私も手を伸ばす。
「どうぞよろし……」
「新人かな」
女性は握手はせず私の手相をまじまじ見ている。
「そ、そうです」
「小さすぎない手ね。子供みたいに柔らかい……」
「あ、あの……?」
「ご両親は健在。お父さんがちょっとアルコール弱い人」
「!?」
「親が市民だったのに労働者になったのね、変わった子。料理はあまりしないタイプかしら。甘いものが好き。読書もそんなにしないタイプ……でも無知じゃないわ。誰か知識人が近くにいたのかしら? ああ、お爺さんが教師? 教師って言っても子供相手の人じゃないわね。大学の教授かしら」
「ひょええ?」
彼女は職場に来てから誰にも教えていないはずの私の生い立ちをズバズバ当てていく。
「おーい! ほどほどにしてやってくれ! 彼女はまだここへ来て四日目だぞ!」
「新卒はみんなそうね」
「手加減しろっつってんのー!」
「……ああ、私またやっちゃった? ごめんね」
彼女は手を引っ込める。
「い、いえ……。あの円衣さんこの方は……」
「彼女はねー円衣さんのライバルー。通称オカルト部署の人」
「え?」
「私、魔術部署の職員。クラスはA。鐘戸 遥(かねこ はるか)、よろしく」
「星川光です。よろしくお願いします……」
「ああ、貴方が星川さん。闇に気に入られた星の子ね。貴方の噂結構広まってるのよ?」
「い、いつの間に私そんなに有名に……?」
「円衣さんも言ったじゃなーい。0083に気に入られるって超すごいんだってー」
「本当にそんなにすごいことなんですか……? あのでも暗闇さんって優しいし……」
彼女たちは顔を見合わせる。
「……教えてあげていいと思う?」
「んー、一部は見せてもいいんじゃないかなー?」
「そうね」
「なにをですか?」
「0083の、これまでの暴虐」
五十八人の犠牲者。Kingクラスである所以。そういえばその詳細をまだ知らない。
「……教えてください」
彼が本当に危険なのかどうか。
「おいで。この部屋だと被害が出ちゃうから私の部署へ……」
「円衣さんも行くよー」
「貴方は仕事に戻りなさい」
「ダメだよー。円衣さんが加奈河くんから預かってるんだからー。保護責任者ー」
「ああ、そういうことだったの。まあいいわ。ついてきて」
 鐘戸さんについていく。科学部署のある大きな廊下を反対側まで移動し、エレベーターに乗ってさらに地下へ移動する。ポーン。エレベーターが到着すると真っ黒な廊下が現れる。
「魔術部署はいつ来ても暗いねえ!」
「壁が真っ黒なだけよ」
「どうして真っ黒なんですか?」
「古い地層にあった岩盤を持ってきて特殊な塗装を施しているの。魔法とかそういうものに中のものが影響されないようにね」
「へえー」
「でもどちらかというと中のものが外に影響しないように、じゃない?」
「そうとも言うわ。ついたわよ」
金で縁取られた黒い扉が現れる。カードキー自体は他の部署と同じみたい。
「どうぞ」
「お邪魔します……」
天井が高い。高級なホテルのような大きなホールが姿を現す。天井は照明が埋め込まれていてかなり明るい。ホールの真ん中に廊下と同じ黒い色の大きなテーブルがある。テーブルというか、台座というか。大きな石を長方形に切り出したものだ。
「そこにいて。出してくるから」
「座って待ってよー」
「はい」
円衣さんと一緒に近くにあったベンチに腰掛ける。天井の装飾を見ていると、鳥が飛んでくる。赤い色の尾羽のきれいな鳥だ。赤い鳥は天井近くに設置された突っ張り棒のような部分にとまる。
「ここ、鳥飼ってるんですか?」
「ああ、あれアーティファクトだよー」
「へっ」
もう一度鳥を見る。高い声でぴょう、と鳴いてから毛づくろいをしている。
「綺麗な鳥ですねえ。アーティファクトなんだ……」
「彼女はQ-n-0067。不死鳥、火の鳥なんて呼ばれているアーティファクトよ。この部署では敬意をもって女王様と呼んでいるの」
鐘戸さんが小さな箱を掲げてホールへ戻ってくる。
「火の鳥、聞いたことあります。女王ってことはメスなんですか?」
「そうよ」
鐘戸さんは持ってきた箱を中央の台座に置いて、中身を取り出す。ボイスレコーダー?
「これが、この施設で最初に録られた0083の記録」
円衣さんと一緒に台座に近寄る。すると火の鳥が降りてきて、私の肩にとまる。
「わっ、びっくりした」
「あら、女王様が馴染みのない人間の肩にすぐとまるなんて珍しい」
「星川ちゃん不死鳥にまで気に入られちゃったの?」
「そのようね」
「モテモテだなぁ」
「……再生するわね」
鐘戸さんがボイスレコーダーをオンにする。サー、という音が数秒流れる。
「r-0083の作業を開始します」
女性の声だ。
「お名前を教えていただけますか?」
「■■■■■■■■■■」
心臓が跳ねる。暗闇さんが喋っているはずなのに、音声にはひどいノイズが走っていた。まるで砂嵐だ。
「すみません、よく聞き取れませんでした。もう一度お願いします」
「■■■■■■■」
「無理、とは?」
「■■■■■■■■■■■」
「……質問を変えます。貴方は人の言葉を理解して使用していらっしゃいますが、人間の文明に馴染みがあるのですか?」
「フ……フハ、フハハハハハハ。アッハッハッハッハッ! ハッハッハッハッハ!」
ひどいノイズの混じった暗闇さんの高笑い。がたんと椅子が倒れる音がして、音声はそこで途切れた。鼓動が早くなる。今のは、なに?
「……この音声データをクラウドに保存したら、オンラインに保存していたデータが全て吹っ飛んでね」
円衣さんが呟く。冷や汗が出る。私の知っている暗闇さんじゃない。
「0083の声は人の耳で聞き取る分には問題ないんだけど、録音するとこうやってノイズが混ざってしまう上にデジタルデータに影響するっていうのがわかって。そのせいもあってすぐに危険度はQueenクラスに指定されたんだけど、この後も0083は死者を出し続けてKingクラスになったの」
「ええ、そう。でも今まで脱走は一度もしたことがないから危険度はあくまで予想。今回貴方のおかげで彼は脱走して、再調査されることになった。星川さん、貴方の功績はとても大きいのよ」
暗闇さんを初めて怖いと感じた。私、何と会話をしていたの? ぞわぞわと悪寒が走る。肩にとまっていた火の鳥が頭を私の頬にこすりつける。右手で火の鳥を撫でると、ふわふわとした羽毛の感触がする。何かを考えるのが嫌で私はそのまま火の鳥を撫でた。やがて気分が落ち着いてくる。
「……もしかして私を慰めてくれたの?」
火の鳥の目を覗き込む。鳥は何も言わないが、喉を撫でると気持ちよさそうに目を瞑った。
「ありがとう」
「あらあら」
「本当に懐いてる! 円衣さんなんて未だに突かれるのに!」
「え、そうなんですか?」
「そうだよー! 女王様すごくプライド高いんだから!」
「そうね。撫でさせてもらえるまでに二、三度は火傷するのがここの通過儀礼なのだけれど」
「じょ、女王様も私のこと好きなんですか?」
火の鳥に聞くが彼女は答えない。私の肩の上で毛づくろいをしている。
「……も?」
「あ、えーと」
「0083に告白でもされたの?」
「実は、……はい。暗闇さんってもしかして私のこと好きですか? って聞いたらうんって……」
彼女らは顔を見合わせる。
「あの0083が」
「星川ちゃんってそういう体質なんじゃない? 一回オカルト検査してもらう?」
「お、オカルト検査?」
「霊媒体質みたいなのも調べるのよ。でもその検査に引っかかったら真っ先にうちの部署に回されるはずなんだけど」
「検査が雑だったんじゃない〜?」
「まさか」
「入社前にそういう検査されるんですか?」
「そのはずよ」
「う、受けてないです……」
「おや」
「初日に真っ直ぐ暗闇さんの部屋に通されたっきりですね……」
「でもその後検査室には入っているでしょう?」
「え。ああ、はい」
「じゃあ測定はされてるはずだわ。それでいてうちに来ないのだからやはり霊媒体質というわけじゃないのでしょう。でも気になるわね。一度検査してみてもいい?」
「はい、どうぞ」
「そうしたら台座に座ってちょうだい」
「ここへですか?」
「そうよ。道具持ってくるからちょっと待っててね」
台座に腰掛ける。私の肩にとまっていた火の鳥はぴょうと鳴いて鐘戸さんの肩へ飛んで行った。火の鳥を肩に乗せて鐘戸さんは別の部屋へ入っていく。サー、という音が耳に入る。隣を見るとボイスレコーダーが勝手に動いている。ブツブツと音を立ててボイスレコーダーは早送りになったり早戻しになったりしている。
「ほ、し、の、こ」
「ひい!?」
円衣さんが驚いて私にしがみつく。ボイスレコーダーは録音で使われた人の声を使って何か伝えようとしてくる。
「ほ、し、の、こ、ほ、Shh、た、b、た」
「……え?」
道具を持ってきた鐘戸さんが静かに駆け寄ってくる。口の前に人差し指を立てて静かにするよう伝えてくる。
「ほ、Shh、きえ、た、み、ん、な、まっ、てる」
星が消えた? 待ってる?
「おかえり」
ブチッ。ボイスレコーダーは沈黙した。
「ひいいいだからオカルト部署やなのおおお」
円衣さんはしがみついたまま泣いている。ホラー耐性がないのだろう。正直、私も今のは怖かった。鐘戸さんは報告書を取り出して記録をしている。
「その音声、最初なんて言ってた? 待って、声にしないで。書いて」
筆記具を渡されたので聞いた音声を書き出す。私の書いた文字を鐘戸さんは黙読する。
「なんだったんですか? 今の……」
「わからないわ。ともかく、本部に報告しておく」
「…………」
星の子が星を食べて、星が消えてみんな待ってる。なんのことだろう? それに最後……おかえり? 誰の声だったんだろう。男性にも女性にも聞こえない不思議な声色だった。鐘戸さんがボイスレコーダーの音声をもう一回確認して異常がないことを確認してから仕舞う。
「腕を出して。少し採血するけど、いい?」
「はい、どうぞ」
「いやーん怖かったよう! なんで二人とも平気なのー!?」
「え、ああ。まあ、それなりには怖かったんですけど」
「……うちにも星川さん欲しかったかも。動揺を見せないって大事なのよね」
「くそー! ずるい! オカルト部ばっかり!」
「んん?」
「うちの優秀な人材が魔術耐性高かったせいで何度か引き抜かれてるの! 円衣さんは悔しい!」
「え、そういう異動の仕方もあるんですか?」
「あるわよ」
鐘戸さんは抜いた血を文字盤の中央の皿に注いでいる。
「おお、魔術っぽい」
「魔術だもの」
「これの仕組み何回見ても不思議ー! 装置の中に動力がないのにちゃんと針が動くんだよ!」
「だから、それは空気中のマナが燃料だって言ったでしょ。……ちょっと魔力保有量が高いわね。他は平均値ばっかり」
「魔力保有量?」
「生物は身体に一定量の魔力、マナとも言うけど。星に流れている大いなる力を溜めておく性質があるの。この星の上に住んでる生き物ならみんなそう。普段どのくらい溜めておけるかどうかは個体差によるのだけれど。貴方はその溜めておける量が普通の人より多いのね」
「へえ。でも私魔法とか使えないですよ?」
「魔術は技術だから、訓練しないと普通は使えないの。たまに訓練なしに使える人もいるけどそういう人は大概魔術師の血筋にいるわ。そうじゃなかったらものすごい天才ね」
「ほうほう」
「だからこの部署に入ったらまず魔術を習得するの。習得には時間がかかるから人材の育成が難しくて……。で、星川さんは数値を見る限りではいたってごく一般的ね」
「それはつまり、暗闇さんや火の鳥さんに好かれた理由は不明ってことですよね?」
「そうね。でもさっきの音声がヒントになるかも。そういえば星川さん、名前に星が入っているのは偶然?」
「あー、いえ。偶然じゃないと思います。私、一度名義を変更しているので」
「それはどうして?」
「暗闇さんが言ったんです。その名義は本来の君を表していないと。それで彼が私に星くずというあだ名をつけたので、星川という名義に変更したんです」
「なるほどね。その話も報告書に記しておきましょう。そしたら……ちょっと待ってね。貸したいものがあるから」
「なんです?」
彼女は出した道具を全て仕舞いに行って、小さな箱を掲げて戻ってくる。
「これは黒曜石で出来たナイフ。いわゆる魔除けね。これをしばらく貴方に貸し出すわ。首飾りになっているから下げておいて」
「……わかりました」
「黒曜石は古代で矢尻に使われてたんだよ星川ちゃん! つまりねー実際に武器にもなる! よく切れるから医療にも使われてるんだよ!」
「あー、矢尻聞いたことありますね。あの石器ですか。お借りします」
「ややっもうこんな時間。さすがに戻らないと円衣さん怒られるなー」
時計を確認すると四時を過ぎていた。
「あれ、本当だ。じゃあこの辺でお暇します」
「ええ。もしかしたらさっきの音声のことで話を聞きに行くかもしれないけど、その時はよろしくね」
「はい」
「じゃあ戻ろうかー星川ちゃん」
「はい。ありがとうございました鐘戸さん。火の鳥さんも」
火の鳥は鐘戸さんの肩の上でまったりしている。
 彼女たちに別れを言い、円衣さんと上へ向かう。科学部署まで戻ってくると扉の前で加奈河さんが座り込んでいた。相変わらず書類を抱えている。
「あー! 加奈河くんだー!」
「……どこにいたんだ今まで」
「オカルト部!」
「ああ、下にいたのか。どおりで見つからないし内線も通じないわけだ」
「え、あそこ内線通じないんですか?」
「オカルト部は壁が厚過ぎて内線届かないんだよー。だから壁に設置された有線の電話使わないと連絡取れないのー」
「あらぁ不便ですね」
「星川、ほら。新しい職員カード」
「え」
円衣さんと顔を見合わせてしまう。
「私のカードもしかしてEクラスのまま……?」
「交換してないからそうだろ?」
「ひいいいいいやめてよぉおおおおお」
円衣さんがまた怯える。
「は?」
「わ、私自分のカード使って科学部署に入ったんですよ数時間前……」
これには加奈河さんも表情が固まる。すかさず私は持っているカードを科学部署のリーダーに通す。ブッと短い音がして入室を拒否された。
「ひええ使えなくなってる」
「ひいいいい」
「……カードリーダーの不具合だろ?」
「ちょっとさっきの出来事考えるとそうは思えないんですよねえええ!?」
「なに?」
「ひいいい怖いいいいい今日眠れないいいいい」
「状況がわからん、説明しろ」
かくかくしかじか。私はオカルト部署に行くまでと向こうで起きた出来事を説明する。
「まるであの音声を聞かせるためにスムーズに通されたみたい……」
「偶然だろ」
「偶然で済みます!?」
「これ偶然だったらもっと怖いじゃん!」
「偶然じゃなかったにしてもだ、怯える必要はない。さて、帰るぞ星川。円衣は仕事に戻れ。上司がいなくて部下が嘆いてたぞ」
「へうううこのまま仕事戻るのやだ怖いいいいい」
加奈河さんに促されて科学部署を後にする。円衣さんは部下に引きずられて部屋の中に戻っていった。
 中庭を通り自分の部署まで戻ってくる。
「もう一度暗闇さんに面会に行ってもいいですかね?」
「……五分だけだぞ」
「ええ。挨拶したいだけなので」
新しくなったカードを差し込んで部屋に入る。
「こんにちは」
「やあ」
暗闇さんは立ち上がって私に歩み寄り、頬を撫でて髪に触れる。
「元気出たみたいだね」
「ああ、はい」
やっぱり、あの記録の中の恐ろしい暗闇さんは目の前にはいない。彼は本当に、私に優しい。
「暗闇さん」
「うん?」
「もう一度お聞きしていいですか?」
「何をだい?」
「私を好きって、おっしゃいましたよね」
「ああ、うん。好きだよ」
「好きというのは、人として?」
「……そこ、明確にしてほしい?」
彼はまた嬉しそうに私を見ている。いや、愛おしそうに見ている。彼の言う好きは、きっと特別なものだ。
「……いえ、いいです。明確にしなくて」
そして私も彼に惹かれ始めている。それがいいことなのかどうか、まだわからない。
「今日はもう来ないと思うので、おやすみを言いに来ました」
「ああ、うん。そうだね」
彼の胸に頭を押し付ける。彼は頭を撫でてくれた。ややあって離れる。
「……また明日」
「うん、また明日ね。おやすみ星川さん」
「おやすみなさい」
部屋を出て加奈河さんと合流する。
「……星川」
「はい」
「あまり、必要以上に0083と交流するな。あいつは口がうまい。甘い言葉に騙されるなよ」
私の身を案じてくれているのだろう。わかってはいるが、私と彼の間にはすでに特別な感情が芽生えていた。
「わかっています」
わかっていたのに。ごめんなさい。その日私は暗闇さんを思いながらベッドに入る。彼の気配がする。そのことに安心して、意識を手放した。


次作へ続く。

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