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ダイエット(小説)


 インスタグラムで「コンビニダイエット」と検索すると、カロリーの低い商品が表示される。保存したポストを開きながら、サラダチキン、ヨーグルト、0キロカロリーの青汁を選び、レジに持っていく。昨日は講義終わりにパンケーキを食べてしまった。あけみがクリームたっぷりのベリーパンケーキを頼んだので、私もそれを頼むしかなかったのだ。人と食べる時には、制限しちゃいけないというのが私のルール。カロリーばかり気にしている人間と食べたらご飯もまずく感じられるだろうし、ぼんやりとしているあけみも、内面ではどう思うか分からない。何よりダイエットしているなんて、あけみには絶対に知られたくはないのだ。そういうわけで、私も平気な顔でパンケーキを平らげた。そしてあけみと別れた瞬間、トイレに行って吐き出せるものを吐いた。太ったよねと、母と姉に言われてから、ずっと体型のことを気にしてしまう。口元を洗い流し、鏡を見つめると、胃液と一緒に出てきた黄色い繊維が唇に張り付いていた。乱暴に引っ掻いて、流したのが、昨日の夕方、ルミネ2、3階女子トイレでの出来事。
 空き時間、購入した商品を食べながら、教室で小レポートに手をつけた。図書館で該当する文献を探してコピーし、重要な部分に線を引く。一時間くらいかけて、1000字の小レポートを作り上げたが、オンラインページの提出欄を見ても、誰も提出していなかったので、しばらく様子見をすることにする。今日もこなしたな、と思う。大学に入ってかれこれ3年目だけれど、着実によい成績を積み上げてきた。教授の信念に合わせたレポートや、気に入られるような感想を書けば、だいたいの講義は「S」をとれる。前回課題を出してきた教授は厳しくて、周りの子たちも不満ばかり垂れていたっけ。私だってあの教授の人柄は好きじゃない。でも、ちゃんと調べてまとめればしっかり褒めてくれるから、私はそんなに苦じゃなかった。どちらかと言えば、今日の講義の教授の方が嫌いだ。だって、この前私が出したレジュメに「?」しか付けてこなかったのだもの。何が「?」なのかも分からないし、そもそもいつも声が聞きとり辛くて、毎週、毎時間、イライラしている。
 レポートを終え一息つくと、ちょうど勝臣が入ってきた。背中には大きなリュックが、左手には2リットルのペットボトルが握られている。身体の大きな彼は私に気がつくと、「よーう」と手を振ってきた。よー。同じようなトーンで返すと、テンション低いな、と彼は笑った。白い歯が、大学野球部でこんがり灼けた肌によく似合う。私は彼みたいなザ・スポーツマンなんて全然タイプじゃない。でも、一緒のグループになって討論したとき、彼の堂々とした態度に、少し感動した。この人、スポーツしかできないばかだと思っていたけれど、実はきちんとものを考えて意見を言う人だったんだ。そして、自分でも馬鹿みたいだと思うけれど、ころっと落ちてしまった。勝臣はイケメンではないけど、男にも女にも同じように接するから、おそらくクラスの女子全員が、勝臣のことをちょっと好きだったはずだ。勝臣のことを話す時、女子の声は甘くて慈愛に満ちたものになっていたのだもの。少し前まではそれを見るだけでも、寒気がしていたのに、いつの間にか私もそういう声を出して、彼と話すようになってしまった。恥ずかしい。そんな私の心とは裏腹に、私の身体は、勝臣がいつも座る席の近くに動いてしまう。このポジションを取るために、私は少し早めに教室に来ているといっても、過言ではない。
「さなさん、それ昨日のレポート? 取り組むの早いなー。見せて」
 そう言って勝臣が手を伸ばしてきた。大きくて硬そうな手のひら。
「うん、いいよ」
 勝臣はさっとパソコンの画面に目を通して、
「こういう風にまとめるんだね。流石だな」
 と言った。そんなことないよ。いやいや、俺なんかいつもギリギリだもん。勝臣くんのレポートもすごく参考になるよ。ほんとう? 嬉しいな。そんなことを話しているうちに、勝臣の友人たちが入ってきて、彼に挨拶をする。横を向いた勝臣の喉仏を、私は黙って見つめる。この瞬間を一生覚えているだろうな、と思った。 彼の身体を近くで見る時、私の瞳は額縁になる。意味わかんない? でも、本当なのだ。私の目は、彼という芸術品を映し出す額縁。勝臣を見ると、いつもいつも、私の時間は止まるのだった。
 教授が入ってきて、レジュメを教卓に置いた。学生たちがぞろぞろと取りに行く。女子のグループが勝臣に話しかけているのが見えた。そんな勝臣に(女子に?)絡もうと、男子たちも近づいていく。席に戻っても、みんなが勝臣と話したがっていた。勝臣は私に向けたような笑顔で、同じように、対応していた。
 教授が授業を始めるタイミングで、あけみが入ってくる。いつものことだ。あけみは小柄な体をうまく使って、バレないように席に着こうとする。が、努力も虚しく教授にからかわれてしまった。周囲が笑う中、私は笑わない。遅刻ぎりぎりの人間なんて、私は笑って許したくない。前に座る勝臣も、笑っていなかった。勝臣は真剣に今日のレジュメを読んでいて、そういうところも、私は結構好きだった。
「やばいよお、ほんと。起きたら授業15分前で」
 周りの友達に弁解するあけみは、私の隣に座ろうとしたが、私がうつむいて顔を上げなかったため諦めたのだろう、斜め前の席に座ると、ゴソゴソとノートやら筆箱やらをリュックから出した。アケミの隣に座る女子が、彼女に耳打ちする。どうやらアケミは授業終わりに実施される小テストの存在をすっかり忘れていたようだ。どうしよう……今から隠れて勉強しても間に合うかなぁ。アケミが分かりやすくキョロキョロとし始めたので、彼女のピンクがかった長い髪がさらさらと動いた。あっ! ネイルはがれてるーもうさいあくー。てかミホちゃんそれスタバの新作ー? あけみにひとくちちょうだい。もー小テストまじでしらなかったーメールで教えてくれれば勉強してきたのにい。
 つねに忙しなく動くあけみに、私はいつも、目を背けてしまう。
 理由なんてない。
 けれど、なんだか、見ていられなくて。


 講義後、レポートに使う資料を探しに図書館へ寄ると、入り口にあけみが立っていた。驚いて名前を呼ぶと、彼女はモゴモゴと口を開いた。
「謝りたくてきたの」
「謝る? 何を」
「さなちゃんが、あけみのこと良く思っていないって……ミホたちから聞いて」
 私は絶句した。ミホたちが? 今日、アケミの隣に座っていた女子たち。勝臣を取り囲んで、時々私のことを見ながら、こそこそと話している女の子たち。
「この前、パンケーキ食べた時、嫌な思いさせちゃったのかなと思って。ベリーのやつじゃなくて、バナナとか、違う味がよかったのかなって。あの、ごめんね。でも、アケミそんなつもりなくて……てっきりさなちゃんもベリーが好きだと思って注文しちゃって……いや、でも、そういう思いをさせちゃったなら、あけみが悪いよね。ごめんね。ほんとうにごめんなさい」
 そう言って、あけみは小さな体を折り曲げた。それを見るとたちまち、黒くてドロドロした塊が心の内に湧いてきた。ミホにそう言われたから、謝るのね。つい、出てしまって、はっとした。言ってしまった。あけみは一瞬キョトンとした。それからまずいと思ったのか、私の顔を下からそっとうかがった。小さな顔。細い腕。決して美人ではないが、守ってやりたくなる、小動物のような可愛さ。何の悩みもなく、何の努力もせず、勉強も苦手で、忘れ物が多くて。
 そしてこんなにも攻撃しやすい、スキだらけの人間。
「ごめんなさい」
 驚いたことにあけみは泣き出したのである。私は慌ててちょっと、と言った。泣かせたのだ。私が。後悔した。トラブルがあると女子同士、やりづらくなってしまう。クラス単位で動いているうちの学部では特にそうだ。あけみはごめんね、ごめんね、泣いたりして、困るよねと言って、ハンカチで顔を抑えると、そのまま小走りで去ってしまった。小さくなるあけみの後ろ姿を、私は呆然と見つめていた。


 翌日、あけみは普通だった。いつも通りへらへらと笑い、教室に入ってきた。この韓国のアイシャドウを買ったとか、あそこのパン屋さんの店員がかっこいいだとか、そんなたわいのないことを、女子の中心になって話していた。昔、彼女が「お風呂に入るとぜんぶ忘れちゃうんだよねえ」と話していたことを思い出す。お風呂に入ったから、昨日のことも記憶に残ってないのかしら。そんなふうに思って、またもや意地悪になっている自分に気づいた。あけみは私に、ミホのような悪意を向けてきたことはなかった。あけみは人の悪口なんか、一度たりとも言ったことがなかった。あけみはいつでも善良で、素直だった。そんなこと、分かっている。分かっているのに忘れてしまう。忘れてしまって、攻撃しては、嫌と言うほど、思い出す。
 図書館に寄ってから帰ろうと思った。お昼を済ませて行こうとすると、学内に備え付けられたコンビニから、勝臣が出てきた。驚いて声をあげると、勝臣もこちらに気がついた。
「まだ帰ってなかったのか」
「うん、図書館でレポート書こうと思って」
「真面目だなあ、本当に偉いよ」
 褒められて悪い気はしない。やっぱり勝臣は他とは違うな、と思った。ミホや他の男子みたいに、真面目なことをバカにしたり、疎んじたりしない。私は彼が持っていたコンビニの袋に視線を落とした。
「何買ったの?」
「あー」勝臣は照れ臭そうに笑った。彼が笑うと胸がぎゅっと締めつけられた。自分にその声がふりかかると、なんとも言えない苦しいような、甘いような気持ちになるのだった。でも、彼がかけてきたのは、私が予想していた甘苦しさとは違っていた。
「ヨーグルト。あけみが欲しいって言ってきてさ」
「あけみが?」
 反射的に聞き返した。勝臣が袋から出したそのヨーグルトは高タンパク質、脂肪ゼロのギリシャヨーグルトだった。紛れもなく、それはインスタのダイエット飯にまとめられていたものだった。私が、前に、食べていたものだ。勝臣は私の様子など一向に気にせず、話し続ける。
「あいつ、さなさんとパンケーキ? 食べてから全然食べてくれなくてさ。ダイエットするからって言って聞かなくて。おつかい頼まれたの」
 そうなんだ。なるべく平坦に聞こえるように、私は言った。勝臣の声が遠くで、それは遠くの方で、防災無線のように響いていた。勝臣の指にリングがついていることを、私はそのとき、初めて知った。
「あけみ、家ではさなさんのことずっと話してるよ。いつも綺麗で、美意識が高くて憧れるんだって。仲良くなれて嬉しくて、パンケーキ食べにいくんだってすごく楽しみにしていたの。あいつ結構鈍臭いから、イライラすることもあるかもしれないけど、これからも仲良くしてやってね」


 そこから先は、覚えていなかった。気づいたら帰路で、家の前に立ち尽くしていた。玄関に入ると、母と姉が喜び合う大きな声が聞こえてきて、身体を鋭利な刃で貫かれるような思いがした。
「あ、お帰りー。さな聞いて、あたし、△○商社受かったよ! ようやく就活終わりだよう」
「ほんと、よかったわぁ」
 母は涙を流しながら、そう言った。「さなもちゃんとしなさいよね。公務員だかなんだか知らないけど、ちゃんと就職できる所にしなさいね」
「さなー。インターンは早めに始めた方がいいよ。あんたただでさえ愛想良くないんだからさ。女は愛嬌って言うでしょ?」
 うん、と私は言って、黙って自室に向かう。階段を上っているのに、いつまでたっても二階に辿り着かなかった。私はこれからどうしたらいいのだろう。ダイエットしているあけみ。忘れっぽくてよく遅刻するあけみ。いつでも優しくて笑顔を絶やさないあけみ。勉強が苦手なあけみ。勝臣に愛されているあけみ。
  私のことが好きだった、あけみ。
 私は頑張らなくてはいけなかった。もっともっと頑張って、頑張って、頑張らなくてはいけなかった。何に対して? そんなのわからない。でもこれだけはわかる。あけみ、あたし、あなたのこと知らなかった。3年も一緒にいたのに、全然わかってなかったよ。あけみ。勝臣。ミホ。インスタ。パンケーキ。レポート。成績。就職。母親。姉。母親。あけみ、あけみ、あけみ。誰でもいいから。誰でもいいからあたしのこと、褒めてほしかっただけのに。ただそれだけなのに。

「つかれた」
 目の奥が熱くて、吐く息が震えた。
 目に浮かぶのは、パンケーキを美味しそうに頬張るあけみの、とても、とても、薄い、腰。

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