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流れる (小説)



 思いがけない者からの思いがけない誘いに、あんずは胸を弾ませた。大学進学を機に上京していたみちが、地元へ帰ってくるのだった。あんずは下着姿のまま、畳に腰を下ろしている。久しぶりの化粧だ。エステティシャンの姉から譲り受けたファンデーションは、十二月の刺すような冷気のせいで、出しにくくなっていた。ポンプを外し、硝子の容器を上下に振る。たいへんな量が出て、化粧品特有のむっとした香りが立ち上る。出しすぎた液を両手で馴染ませ、顔を洗うようにして塗り込む。と、毛穴はたちまち埋められて、整備された道路のように作り物めいてゆく。
 後ろから、男が肩をつついた。濁った鏡越しにその人を眺める。彼はあんずの恋人である。体が大きく、太っていて、目が糸のように細く、おちょぼ口をした男である。あんずは一か月のうちのほぼ半分を、この男ーー楓雅の実家で過ごしている。中学卒業と同時に実家の農家を営むことになった彼の世話を、あんずは昨年から仕事としているのだった。
「出かけるのか?」楓雅がぶっきらぼうな声色で尋ねる。
「うん」
「どこ?」
「みっちゃんのところ。大学がリモート授業になったから、こっちに帰ってくるんだって」
「久しぶりに可愛いみっちゃんを拝めるんだよー」身体を左右に揺らしながらそう言うと、楓雅は「そうか」と呟いた。
 みちはあんずの、中学時代の同級生である。三年生のときに同じクラスになって、仲良くなった。中学、高校を卒業した今でも連絡を取り合うふたりは、時折こうして時間を合わせ、ランチを楽しんでいる。仲の良い友人グループは、あんずとみちを含めて六人いるのだが、みちはその中でも特に気の置けない友人だった。高校を卒業し、持病の発症により就職を諦めたあんずにとって、身を気にかけてくれるみちは稀少な存在だったのである。みちの話をよく聞かされている楓雅としては、恋人の遊び相手が旧友だと分かって安堵したのだろう、「車出してやるよ」と言って、再び農作業に戻っていった。あんずは微笑んで鏡に向き直り、今度はパウダーを取り出して、広い額と鼻にたたきこんだ。


 楓雅のワゴンで待ち合わせ場所のカフェへ行くと、ショートダウンを着込んだみちが店の前で手を振っていた。あんずは助手席の窓を開け、「みっちゃーん!」と投げキスを送る。それから手鏡で短い前髪を整えながら、楓雅をちらりと見た。
「帰りはてきとうに、連絡するね」
「あんまり遅くなるなよ」と楓雅。
「楓雅は家帰るの?」
「いや……パチンコでも行くよ」
 わかった、と笑い、あんずは車を降りた。それからみちのいる方へ走り出す。みちは大きく手を振ってそれに応える。ふたりは強く抱き合うと声をあげて笑った。それからあんずは、駐車場から走り出した楓雅に手を振った。みちが会釈をすると、楓雅も手を上げて応えた。
「やさしい人だね」とみち。
「心配性だけどね」あんずは言った。
「いいことだよ」とみちは微笑んだ。
 待ち合わせたカフェはそれほど混んでおらず、ふたりは窓側のソファ席へと通された。みちは短かった前髪をいくらか伸ばしてかきあげており、形のよい眉がペンシルで丁寧に描かれていた。なんだか、大人っぽくなったね、みち。化粧の仕方も、都会の人って感じ。あんずがそう言うと、何それ、とみちは笑う。私カキフライのプレートがいいな、あんずは何にする? 何事も決定の早いみちは、「ゆっくり選んでいいよ」と諭しながら、デザートのページを眺めていた。都会に出ても変わらない、みちのあっけらかんとした態度に、あんずは少しだけ安堵する。
 料理を待つ間、ふたりは互いの近況を報告した。とはいえいつも話すのはあんずだったけれど。彼氏のこと、病気のこと、家族のこと、ふたりの共通の友人のこと、中学時代のこと……みちはアイスコーヒーをストローでかき回しながら頷いている。
「身体の方はどうなの」会話がひと段落したところで、みちがそう尋ねた。みちはいつでもあんずの病気を心配していた。みちの同情的な表情に気を良くしたあんずは、ぐい、と前に乗り出して、咳払いをした。
「普段通り薬飲んでいるよー。このまま発作が出なかったら運転が許されそうなんだよね」
「それはよかった。運転できないと不便だよね。この町じゃ」
  みちが顔をしかめて言った。
「まあね。今は楓雅に乗せていってもらっているから、あまり感じないけれど」
 あんずの得意げな言葉に、みちは「本当にやさしいんだねえ」と頷いた。あんずのとびきり欲しい言葉を発して、頷いた。楓雅をやさしいとは感じたことはなかったが、みちに言われるとなんだかそのような気がしてきて、甘やかな思いが湧き上がってくる思いがした。みちはつねに自分が欲しい言葉を的確に放った。あんずは彼女のそういう側面が、とても好きだった。
 帰り際、みちはグループの友人たちを話題に出した。最近みんなと、連絡とっている? あんずは首を横に振った。
「全然とってない。歩美と奈緒、由真は仕事で忙しそうだし、麗華は大学だし」
 みちはそうだよね、と呟いた。みんなとも会いたいなあ。最後にあったのが去年の春だから、もうまるまる一年会っていないもんね。あんずはあいまいに頷いた。みち以外の友人らと会うのは、もちろんあんずにとっても楽しい時間だった。しかしグループの中でもみちがとりわけ好きだったあんずは、今回彼女と会えただけでも、十分に満足していた。それなのにみちはまだみんなに会いたい、と言う。みちにとっては、同じ高校へ行き、大学に進学した友人――麗華の方が、話が合うのかもしれなかった。あんずは唇を噛んだ。麗華に嫉妬したのではなく、みちと自分の感じ方が異なっているのに嫌気がさした。あたしが愛するみたいに、みちはあたしを愛していない。こんなに好きなのに、好きでいてくれない。あんずは親指のささくれをいじった。だから、楓雅が好きなのだ。楓雅の愛はあんずの愛する気持ちをはるかに上回っている。不器用な男だけれど、かならず自分を必要としてくれる。ふと気づくと、みちの話は終わっていた。彼女は「美味しかったね」と言って小さく洗練された財布を鞄に入れた。
「六人で通話する? 今週の土曜でも」
 決まりが悪くなったあんずがそう提案すると、みちは朗らかな顔になって、「そうだね。呼びかけようか」と言った。ふたりはその後近場のカラオケに行き、少しだけ歌って、解散した。



「ふうん。で、今のみちちゃんはちゃんと彼氏とやれてるってわけか」
 そうそう、とあんず。楓雅はゆるやかにブレーキをかけ、車を停車させる。ココナツの芳香剤の匂いが、あんずの手にしているロングタオルに染み付いた、煙草の残り香と混ざりあって、眠たくさせた。
「……前の男はクズっていうか。そもそも童貞の男だったからか、痛くてあれが入らなかったんだって。今の彼氏は年上らしいから、スムーズにいけるんじゃない? わからないけど」
「そりゃあ良かったな」
「ねー」とあんずはささくれを剥き、そのまま親指の爪を噛む。楓雅は恋人でありながら、何でも話せる友人としての面も持ち合わせていた。あんずに話せば、楓雅にも伝わる。それはあんずにとってはごく当たり前の、日常的な行為であった。昔から、あんずは自分を押さえておくことができない。秘密だよ、と言われても、秘密にしておくことができない。他者に少しでも自身を制限されると、何か大きなものが身体に重くのしかかってくるような気がして、気分が悪くなってしまうのである。恐ろしかった。だから自らにふりかかるあらゆる事象を、信頼できる男と共有しておきたかった。もちろんあんずに関わる友人たちは、話を漏らされていることなど知らない。あんずは無意識のうちに友人のプライバシーを漏らしているのであって、ときおり、楓雅がそれらを会話の種にすると、どうして知っているのか、と驚いたように彼を見つめた。今回もそうで、みちが数年前に話していた、性行為がうまくいかない相談を、今になって楓雅が持ち出したために、あんずも思い出したのだった。
「この前二年ぶりに見たけど、みちちゃん美人だな、やっぱり」
「あー」とあんず。「まあ可愛い感じだよね。金持ちの男にモテそう」
 なんだそれ、と楓雅は笑った。信号が青になる。あんずは膝を立てて前方を見つめた。車がゆっくりと動き出す。
 しばらく道なりに走ると、壁の色が目に優しい、大きな中央病院が視界に入って来た。楓雅は窓を開け、入口で立ち話をする歩行者を怒鳴りつけると、車体を横付けにして停めた。あんずは前髪を治し、後部座席に置いたハンドバックを持ち出す。そして終わったら連絡して、と言う楓雅の頬に口付けた。横付けしてくれたことが嬉しかった。強い男が横にいるのが、あんずの気を良くさせた。楓雅のことが好き。あんずが言うと、楓雅は太く短い指であんずの顎を摘み、ふたたび唇を重ねてきた。男が好きだな、とあんずは思う。彼らはとても正直で、少し褒めるだけで、思うように動いてくれる。分かりやすくて、こんなにも簡単に心を埋めてくれる。中高の頃、自分の陰のあだ名が「男好き」だったことを思い出した。案外、あの時の生徒たちの見る目は間違っていなかったのかもしれない。あんずは苦笑して受付へ向かう。
 病院はいつでも清潔で、そしてつねに視線を感じる。平日の病院は、年寄ばかりであった。冬なのにも関わらず大きく肩の出たトップスを、かれらは露骨に見ては密やかに言葉を交わした。あんずは年寄が好きだった。こちらも男と同じで、少しおだてればみんなが好きになってくれるからである。年寄がなぜ若者を嫌うのか? それは若者が話を聞こうとしないからだと、あんずは思う。少しの思いやりを持って、大袈裟にリアクションをすれば済む話だ。にっこりと笑って、あんずは待合席についた。
 運転の許可が出たのはその二十分後だった。
「良かったですね」
 四十ほどの歳で、眼鏡をかけた、長身の主治医はそう言ってあんずを見て、微笑んだ。良かったです。あんずもはじけるように笑った。これからまた免許センターの講習を受けねばならないと思うと億劫だったが、これでどこにでも行けるようになるのだ。楓雅の仕事を待たなくても、スーパーに行けるし、美容院にも行ける。遠くの街だって行ける。楓雅に感謝はしていても、気が詰まる思いが、ないわけではなかった。あんずはうきうきとして病院を出た。彼女は電車に乗ったことがない。バスにも、飛行機にも乗ったことがない。そんなあんずにとって運転出来るという事実はとても重大なニュースである。急いで楓雅に電話すると、とうに駐車場に着いているとのことだった。あんずは運転席で足を上げてくつろいでいる楓雅を見つけ、走っていった。
「それじゃ、お前を免許センターに連れていって、オレの役目は終わりか」
 どこにでも行ける、とこぼしたあんずに、楓雅は投げやりにそう返した。あんずは目をぱちくりとさせて彼の横顔を見る。
「喜んでよね。回復したんだから」
「喜んでるよ」
「キレてない?」
「キレてねえよ、なんでキレるんだよ」
「寂しいの? あんずが運転できるようになったから」
 楓雅はあんずの言葉には答えない。寂しいんだ!  あんずが彼の肩をつかんで揺さぶると、彼はうるせえよ、と反抗した。その反抗がだんだん嬉しげなものになってきたので、あんずは口を大きく開けて笑った。楓雅が好きだとあんずは思った。だって、一緒にいて、こんなにも楽しい。
「そういえば明日の夜、みちたちと通話するからうるさくなるかも」運転する楓雅を横目で見ながら、あんずは言った。
「たちって誰のこと?」
「ほら、中学の時のイツメンだった、麗華たち含めてってこと」
「ああ」
「ほらこれ!」あんずはスマホを突き出し、写真を見せる。これ、一年前にみんなでご飯に行った時の写真だ、あっ中学の時の写真もある。見て見て。
「危ねぇだろうが、馬鹿」楓雅はそう言ってあんずを手で制した。あんずは面白がって楓雅を見て、それから座席を倒してその写真をもう一度見返した。あんずの唯一の友人たちは、彼女の肩にもたれたり、後ろから覗いたりしながら、こちらを見て、優しく微笑んでいる。



『この間ぶりだね、あんず』
 みちの声は電話越しに聞くと甘い。話す速度が遅いので、こちらまでふにゃふにゃとした喋り方になってしまう。時間通りに入ってきたのはみちだけであった。十分前からグループラインを繋いでいたあんずは、腹ばいになって、スマホをベッドサイドに立てかける。隣では楓雅がスマホゲームに夢中になっている。
「みっちゃん! この間ぶり」
『まだ他の人は来てないみたいだね。みんな来るといいねえ』
 「ね」とあんずは言って、続けた。てか聞いて。みっちゃん。あんず、病気がよくなって運転できるようになったの。あんずの言葉にみちは歓声をあげ、喜んだ。おめでとう、あんず。良かったね。あんずは喜びを共有するつもりはなかった。知ってもらうというよりも、自分の病気のことを友人たちが心配していると思ったから、話し始めただけにすぎなかった。みちの言葉にあんずはすっかり満足し、うつぶせになって枕に顔を埋めた。楓雅がこちら側に寝返りを打つ。青い液晶の光が彼の顔を照らした。
 そのうちに奈緒が通話に入って来た。
『きたよー。久しぶり、みっちゃん、あんず』
「久しぶりー」とあんずも返す。
『奈緒お疲れ様。仕事の方はどう?』みちが尋ねた。
『あー、まあぼちぼちかな。歩美と違って赤ちゃんのクラスだからね』今年から保育園の乳幼児のクラスで働き始めた奈緒の声は、そうは言っても、やはり疲れていた。
『大変な仕事だね』
『ありがとう、みちは大学どう? 就職とか……』
 あんずはそれまで爪を噛んでぼんやりしていたが、思い出したように身を乗り出して端末に話しかけた。
「てか聞いて奈緒、あんずね、病気がよくなって運転できるようになったの」
『……おー! 良かったね』
「ほんとう、それな!」あんずはそう言って、途端に興味を隣の恋人に移した。恋人はうつらうつらとして目を開けたり閉じたりしている。通話の向こうで、奈緒とみちはそれぞれの近況を報告しあっている。
『お疲れ様ー!みんな』
 新しく歩美が入って来た。彼女の低くしゃがれた声が響く。
『歩美だ、お疲れさまだねー』
『まじ保育園辞めたい』
『奈緒から聞いたよ。五歳児のクラスなんでしょう』
 しばらく歩美とみちの会話が続く。
『そうそう、本当、コロナで気を遣うし。消毒とかマスクとか』
 あんずは恋人が向こう側に寝返りをうつと、再び弾かれたように画面に話しかけた。
「てか聞いて歩美、あんずさ、病気がよくなって運転できるようになったの」
『えー! めっちゃいいじゃん。おめでとう』
 歩美はテンション高めの声でそう言った。みちと奈緒の声は聞こえなくなったが、あんずはそれにも気づかずにありがとー、と笑う。
「てか愚痴ばっか言うのやめな? あんずも高校の時、体験学習で保育園行ったけど、結構楽しいところじゃん? 可愛い園児に囲まれて羨ましいよ」
『あー……そうだね。本当だよね』
「あんずも保育園に勤めるの、アリだったなー。専門学校いけばよかったかも」
『まあねえ』
『もしもしー? 遅れてごめん』
 今度ははつらつとした由真の声が聞こえてきた。
『由真! 全然大丈夫だよー』とみち。
『みちの声安心するわ。みなさん久しぶり』
『ひさしぶり、仕事どう?』と奈緒。
『まじで県庁から来る偉い人何にも分かってなくてイライラする』
『そうなんだ。知識はあっても実践が伴わない人って話していて困るよね』
『そうなの、みちちゃんは分かっているなあ。この間も……』
「てか聞いて由真、あんず運転できるようになったの、先生がもう運転していいって…」
 …
 あんずは結局、最後に入って来た麗華にも同じことを繰り返した。それから麗華のよかったね、と言う言葉を聞いて、満足した。あんず以外の友人は皆黙ってしまったので、あんずは隣に楓雅がいて、かわいい寝顔で眠っている旨を伝えた。……


 当の楓雅は途中で眠っていたことに気がついた。目を開けると喉がものすごく渇いている。隣を見やると、あんずが暗闇の中でスマホゲームをしているところだった。楓雅は目を擦りながら彼女を見る。
「通話終わったの?」
「終わったよ。みんな明日早いからってすぐ寝ちゃった」
「ふうん」
 楓雅は気にも止めずそのままキッチンへと水を飲みに行った。あんずはスマホを辞めて、やわらかい毛布を鼻まで覆う。通話はすぐに終わった。農協で働く由真は明日も早いからと言ってすぐに離脱した。保育園で働く奈緒と歩美は仕事の愚痴をこぼしながら、みんなでテーマパークでも行きたいね、と話した。しかしあんずが「いまはお金ないから無理」と笑ったので、この話は流れた。都内の女子大学で経済学を学ぶ麗華は、都内の人気のお店に行ったとか、どこそこのクラブで話しかけられたとか、そんなことを話していた。「こんな町、遊ぶところも何もないでしょ。つまらなくない?」そういう風に呟く麗華は、田舎を出てから服装も化粧も何もかも変わってしまったので、あんずは何を話せばいいか分からなくなっていた。麗華の世界は東京まで広がっていても、あんずの世界はこの町までしか広がらない。不自由も特にない。それなのに、ここにいることは恥じるべきことなのだろうか、とあんずは思う。――みち。教授に大学院へ誘われたというみちは、最後までみんなの話を興味深く聞いていた。彼女は多くは語らなかった。年上の彼氏のことでも話せばいいのに、とあんずは思った。同じ空間で同じ生活をしない女たちに残された共通の話題といえば、思い出話か、近況の恋愛話しか、ない。
「お前も飲む?」
 いつの間にか楓雅が戻ってきていて、あんずにステンレスのコップを手渡した。あんずは何だか考えるのが面倒になった。中学や高校のときは話が合って楽しかった。それなのに今は、一人一人の視界に入るものが違うのだ。環境が変わるだけで、こんなにも人は変わってしまう。
「つまらなくなるな」
「何?」
「なんでもない」
 あんずはそう呟いて、水を一飲みして寝入った。楓雅はあんずの額を指でなぞると、毛布を首元までかけてくれた。



 年が明けてすぐ、あんずは母親から電話を受けた。姉が帰省してくるのだった。あんずの幼なじみも帰省しているので、みんなで集まる予定だ、と母は言った。あんずの母親は、「母親」というよりは、友達のような親しみと、頼りなさを持ち合わせた人であった。父とは高校時代から付き合っていて、在学中に姉を産んだ、という形である。しかしそのような母をあんずは好きだった。あんずも教師のような保護者よりは友人のような保護者を求めていたし、何より母親の放任主義のおかげで、あんずは様々な場所に寝泊まりできている。
「あんずもそっちに車、取りにいくつもりだったから、タイミングがあって丁度いいわ」
『あ、もう車乗れるようになったのお? やったじゃん』
「よかったよ。ところで、お姉ちゃん、彼氏連れてくるんじゃないの」
『連れてくるみたいだよ! 今の彼氏、イケメンだよね。ママも好きになっちゃいそう』
「まじかよ」
 あんずはげらげら笑って洗濯物を畳んでいた。じゃあね、と言って通話を切り、背後に感じていた楓雅をふり返る。楓雅はものすごい形相であんずを見下ろしていたので、あんずはうんざりした。ちかごろのあんずは、楓雅の視線が疎ましくなっていた。どこへ行くのか、誰と行くのか、その間の自分の身の回りはどうするのか……ひとつひとつの質問を、楓雅は言葉にせずに不機嫌な表情で尋ねる。何を言えばいいかは分かりすぎるほど、分かっていた。何をいえば喜ぶのかさえ、もう分かっていた。分かっているのにも関わらず、それを察するのが、なぜだかとても苦痛だった。
「何よ、なんか文句でもあるの」
 と言ったせつな、視界がぐるりと回った。叩かれたのだった。あんずはじわじわと熱くなる頬の皮膚を押さえて、楓雅を見た。静かだった。あんずが無表情で楓雅を見返したので、彼はまた平手を打った。
 殴られるのはこれが最初ではない。気に入らないことがあればすぐに手が出る性格だ。あんずは殴られるのが好きだった。殴られると、正しい方向へ矯正されているような気がしたから。彼女は生まれてから一度も叱られたことがない。親にも教師にも今までの彼氏にも叱られたことがなかった。それなのに楓雅だけは自分を叱ってくれる。自分を嫌な気持ちにしてくれる。それは初めての経験であり、怒りを示すほど関心を持ってくれる楓雅を、あんずは嫌いではなかった。一方楓雅は、殴るたびに追い詰められるような顔になっていった。そのままあんずは押し倒され、楓雅はあんずを好きなように扱った。あんずは口を開けながら、ぼんやりと上下する天井を見つめていた。
「しばらく距離をおこう」
 セックスが終わると、楓雅は背を向けてそう言った。あんずは彼の散乱した下着類をかき集めながら、見上げる。
「しばらくって、どれくらい」
「分からない。このままだと、お前を殺すかもしれないから。しばらく」 
 あんずは笑って、
「いいけど」と言った。
「また連絡する。良い時がきたら」
 分かった、と言って、あんずは下着を身につけた。分かった、と言った声が自分のものではなく、天井から鳴り響く、中高生のときに聞いた放課後の放送のようだ、と思った。薄暗い部屋で荷物を整理する。実家には俺が送るから、と消え入りそうな呟く楓雅に、ありがとうと言った。これも自分のものではない気がした。楓雅への興味など、とっくの昔に失っていたのだ。あんずは改めて気がつき、苦笑した。



 実家の玄関を開けると、姉が目の前でビールを飲んでいた。あんずは嬉しさのあまり彼女に駆け寄る。
「お姉ちゃん久しぶり!」
「あんた、いま送ってきたの彼氏?」
「まあ、一応? そんなことより、お姉ちゃんの彼氏は元気なの?」
 姉は大きな音を立てて缶を飲み干すと、それを右手で潰しながら、玄関から見える居間に顎をしゃくった。清潔な男が、正座のまま、所在なさげにもじもじとしていた。
「今年中に結婚するつもりなの」
 あんずは端正な顔をしていた。ややぽっちゃりしていて、多少歯並びは悪いけれど、目鼻立ちの濃い、美人だった。けれど彼女の姉はもっと美しかった。パーツのひとつひとつはあんずの方が美しいのだが、姉は個々の並びがよく、瘦せていて、あんずのように前歯も出ていなかった。しかしあんずは引け目を感じなかった。それどころかいつも姉が誇らしかった。美人で、エステティシャンで、素敵な恋人もいて、都会で元気に働く姉。そんな姉のことをあんずは崇拝した。姉の素晴らしさ、姉の美しさ、姉の優しさ。そんな姉の妹である自分。あんずはそれらをも糧にしていた。周りの友人たちは同じような話に閉口していたが……。
「お姉ちゃんたちも、こっちに住めばいいのに」
「なんでえ? こんなど田舎、住めたもんじゃないわよ。英太も都内じゃなきゃ嫌って言ってるし」姉は笑いながらそう言った。あんずは麗華が似た内容を話していたことを思い出した。姉までそのようにさせてしまう場所なのだ。東京とは。
 姉とともに居間へ行くと、とうに両親と幼なじみ家族とが座っていた。市営住宅の居間は狭い。姉とあんずは仕方なく入口付近に座った。幼なじみの祐介が手を上げたので、あんずも「よお」と手を挙げる。あんずは卓袱台に重ねられたカップ麺を手に取った。それからやかんのあるキッチンへ向かった。靴下を履いてこなかったことを悔やむ。もともと楓雅の母・祖母・そして楓雅で暮らしていたあの家は広く、物も少なかったのだ。だから裸足で事足りたし、ざらりとした畳の感触は心地よいとさえ感じていた。しかしこの家は狭く、ゴミが散乱しすぎている。水道までたどり着くと、倒れてそのままにされていたココアの粉を踏んでしまい、あんずは舌打ちした。落ちている袋を手に取って裏返す――やはり賞味期限は切れている。あんずは椅子の上に登ると、汚れた方の足をシンクに突っ込んで、洗った。ふと気づくと祐介が後ろに立っていて、あんずは悲鳴をあげる。
「なによ」
「音がしたから」
 そう言って彼は自分のラーメンを机に置き、自らしゃがんでパウダーを片付け始めた。祐介とは年に数回は会っていたのだが、彼の背がうんと高くなっていることに、あんずは気が付かなかった。特定の男と付き合い始めると、周りの男が視界に入らなくなるあんずである。だから祐介の変化に気づかされたときは、ギョッとして彼のつむじをまじまじと見た。
「祐介、背伸びたよね」
「あんずは小さくなったな」
「はあ?」あんずは笑って、蛇口の水をとめた。ココアパウダーを拭き取った祐介が、新しいタオルを彼女に手渡した。あんずはシンクの中で水気を拭き取ったが、足の爪の赤いペディキュアが剥がれていることに気づき、恥ずかしくなった。祐介がタオルを受け取り洗濯しにいった隙に、さっとマイメロディの靴下を履いた。
「この後、散歩でもしない?」
 戻ってきた祐介はそう言ってあんずを誘う。承諾したあんずは耳たぶを触りながらカップ麺にお湯を注ぎ出した。ふたりはその場でインスタント食品を平らげると、そのまま住宅を出て、歩き始めた。


 祐介は派遣の仕事を始めたのだと言った。あんずが見上げると、彼は厚い唇をきゅっと結んであんずを一瞥した。口角が上がっているので、笑っていなくても笑っているように見える。あんずはどきまぎしながら、
「なんの派遣」と返した。
「倉庫だよ」
「なにすんの」
「服畳んだり段ボール運んだり」
「ふうん」
「お前もそろそろ働いたら? 病気、落ち着いてきたんでしょ」
「そうねえ、祐介が支えてくれるなら」
 甘えん坊だな、と祐介が言った。あまえんぼう。そのとろけるような響きにこそばゆくなって、あんずはつま先を見つめる。そのまま無言で歩いていくとコンビニが見えた。温かい飲み物でも買おうよ。あんずが言うと祐介も頷く。彼は話題をさきの派遣の話に戻そうと、倉庫の仕事や同僚の話を続けた。あんずはこういう、男の遠回りな言い回しが好きであった。ただ話を最後まで聞き、終わり際に「いいよ」というだけで良いのである。祐介が他の男の例にもれず似たような振舞い方をしたため、彼女は微笑ましくなった。
「そういうわけで、いま、一人暮らしなの。だからよかったら……見にくる?」
 行く、以外に、ない。あんずは頷いた。祐介は良かった、と言って笑った。大股の歩き方や、ぶらぶらと長い腕、あんずのこめかみのそばにある、ほんのりと汗の匂いがする胸、彼の持つさまざまな部位から弾むような身軽さを感じて、あんずは嬉しくなった。コンビニに着いた彼らは温かいコーヒーを買った。西日が落ちてゆくのが、湯気の先に見えた。薄紅色のあたたかさがあんずの目を癒し、とろりと溶かしていく。


 正月が明け、しばらく経った。免許を取り直したあんずは、二年ぶりの運転で楓雅の家を訪ねた。が、彼は一向に出てこなかった。彼の祖母によれば出かけているのだという。あんずは距離を置かれていることを思い出し、そうなんだ、と返した。玄関先の棚の上で泳ぐ赤い魚を、あんずは一瞥する。誰がこの子の世話をするんだろう。尾鰭をひらひらとはためかせて、平面な体を左右に動かす金魚。今まではあんずが水槽を掃除したり、餌をあげたりしていたのに。追い出されたあんずは憮然として車に乗り込む。
 道なりに沿って真っ直ぐに走ると、右手に派遣社員の住む寮が見えた。青く塗られた珍しいその建物の二階に、祐介は改めて越したのだった。駐車場に車を止め、布地の鞄から鍵を取り出す。三度目の訪問時に祐介がくれたものである。あんずはこれまで、合鍵を貰ったことがなかった。大抵は楓雅と共に行動していたので、持つ必要がなかったのだ。初めて鍵を握った時、ずしりとした金属の重みを感じた。それはあんずをみるみるうちに幸福にさせた。何度も何度も握って、手が金属の匂いになるのも気にならなかった。ありがとう、と言うと、祐介はひょろりと細い身体を折り曲げて、彼女の頭を撫でたものだった。
 祐介はまだ仕事中である。部屋に入ったあんずは、まず初めに部屋を片付ける。食器を洗い、浴槽を磨く。ロフトにざらざらとした手触りの毛布を敷き、すぐそばに風呂上がりの着替えも置いてやる。そこまでやって、あんずは前から挑戦している大きなジグソーパズルで遊び始めるのだった。祐介が、お前が家で待っている間に、とあんずに送ったものである。楓雅から、連絡はない。きっと距離を置く、ということは、別れると言うことなのだ。あんずは自分の中に静かな喜びが流れるのを感じた。楓雅とは三年も一緒にいた。三年もいるうちに、一緒に「いなければならなく」なった。あんずを理解し受け入れるのは楓雅だけで、その事実が楓雅を喜ばせていた――けれど、時間が経つうちに、あんずの男たちはいつも消えていく。霧が過ぎ去るみたいに消えていく。彼らは世話好きで、親切だ。けれども去り際はものすごく、はやい。なぜだろう、と思いつつ、ようやく解放されたという気持ちがあんずの心に広がった。楓雅という建物は、時が経つことでぐらついてしまったのだ。直せない。いくら修復したって、そもそもの土台が心もとないのだから直せない。
 流石にバイトを始めなくては、と思った。だって祐介は貧乏だから。祐介は楓雅みたいに農家じゃないし、車もないし、大きな家も持ってないから。あんずはさっそく近くのコンビニエンスストアに電話をかけた。大丈夫、今度は、祐介が好むような女になればいいのだ、楓雅の時にそうしてきたみたいに。



『四人で遊びに行くのはいいけど、それを見えるところに載せるのは違う気がするのよ』
 電話越しにくぐもったみちの声を聞いた。少しだけ、暗い。でもやっぱり甘い。みちの声を聞くと、幼い頃、学校行事で足を運んだ植物園の、花手水を思い出した。美しく均一に浮かべられた花々。おだやかでたおやかで、おっとりとした品があって、だからこそ、ぐちゃぐちゃに潰したくなるもの。
 あんずは友人六人を集めたグループラインを開いた。ご飯を食べに行こう、というみちのメッセージとそれに対するあんずの陽気なスタンプがさびしげに浮かんでいる。これも一週間前のものだ。あんずは何も思わなかったが、みちにとってはショックな出来事だったようだった。とういのも彼女らは、あんずたちに黙って、四人でテーマパークへと遊びに行っていたのだった。
「まあ確かに、みちが見るのを分かっているのに載せるのは嫌な感じよね」
 登録していないあんずには、インスタグラムが分からない。しかし足跡のつくSNSというのは、想像するのが容易だった。みちは、無神経な四人の投稿を見て、傷ついているわけだ。
『しかもそれ、次の日も投稿されていたの。みんな、泊まりでディズニーに行ったんだよ?  行くのは構わない。でも、わたしにもあんずにも、一度、一言でもいいから聞いてほしかった。今度私たちで行くんだけど、あなたもどう? って。ああ、嫌になってきた。わたしもあんずみたいにインスタやめようかな』
 みちは一息でそう言った。あんずが同意すると、少し励まされたのか、言いすぎた自分を恥じたのか、でも、色々事情があるのかもしれないものね、と付け足した。みちにはいつも品格があった。よくあろう、よい人間であろうと努めていた。努力家で、気を配るのも上手く、美しく、やさしい。それに加えてみちはけっして他人に悪意をもたなかった。つねに公正で公平だった。グループで対立があると、両方の肩を持ちながら受け流そうとしていた。その品の良さがいっそう他人を妬ませた。あんずはみちが好きだった。みちこそが正統的なーー正しい生き方をしようとしている人だと思った。しかしどれだけ仲が良くても、どれだけみちが優しくても、うっすらと、嫌われていることをあんずは知っていた。みちは、綺麗で、正しすぎる。まじめすぎるのだった。美しい彼女が賢くあればあるほど、優しくあればあるほど、女は彼女が疎ましくなる。あんずでさえーーあんずでさえ、時折、みちの落ち着いた態度が疎ましくなる。
『誕生日のメッセージくれたのも、あんずだけだったの』
「まじか」あんずは剥けた親指の爪を触りながら言った。
『わたし、みんなに何かしたかなって考えると、怖い』
 あんずはむくむくと意地悪な気持ちになってきて、突き放すように言った。
「みち、超怒ってるじゃん」
 笑いながらもちくりと刺すようなその声音を、みちは黙って受け止めた。ハッとしたあんずが慌てて、こっちは何もしていないんだから、放っておこうよ、とつけ加えると、うん、と感情の読み取れない、抑揚のない声色で返事をした。それから明るい声に戻って、何気ない話を始めたので、あんずは安堵した。
 ぼんやりと宙を眺めながら、祐介のことを考えた。それから楓雅のことも。あれから、別れることが決まったのだった。最後に話したい、という楓雅の連絡がきてから、あんずは迷っていた。何を迷っていたのか? それはあんずにもわからなかった。――みちには話さなかった。みちには、楓雅とうまく行っていると話した。別れる寸前だということを、知られたくなかった。また知られたくない自分の内面も、知られたくなかったのだ。



 案の定、楓雅は押し倒し、殴り、そしてあんずを犯した。電灯のひもが揺れている、と思ったが、揺れているのは自分だった。あの時間を思い出すたびに、太ももに付けられたあざが痛み、嫌気がさした。このような身体は見せられた物ではない。祐介にもしばらくは生理だと言い続ける他あるまい。あんずはジグソーパズルを楽しげに進める祐介を見てそんなことを思った。楓雅には文字通り、ゴミでも捨てるかのように捨てられた。下着も破かれて捨てられたので、あんずはニットとスカートのみを身につけて帰った。あの男のアレがそんなにいいなら行けばいい、と楓雅は言った。言って、殴った。インバイ、という言葉の意味がわからなかった。わからなかったけれど、見られていたことはわかった。バレたのだ、祐介と会っていたことが。暇な楓雅のことだ、どうせ尾行でもしていたのだろう。頬に鈍い痛みがつづく。殴ってください、とあんずは言った。殴ってください、殴ってください、もっと殴ってください。気づいた時には、終わっていた。意識が朦朧としていた。楓雅の姿はなかったが、枕元に一万円札が五枚あった。あんずはそれらを鞄に入れると、よろよろと畳の部屋を出て、壁を伝っていった。それからしばらくはビジネスホテルに滞在し、腫れが落ち着いてきたところで、祐介の家に向かったのである。そして今、新しい男の隣に、ぼんやりと座っている。
「よく集中、続くね」
 あんずは、パズルに夢中になる祐介に、そう言った。
「うるせえ、禿げ猿」
「なんで禿げ猿なの」あんずは笑った。
「別に。何かおもろいこと言おうとしたけど浮かばないから言ってみた」
「……」
「なんだよ、何か文句あるの」
 祐介はあんずを一瞥して鼻で笑った。あんずは黙って首を横に振る。
「おれに文句あったら埋めるわ、外に」
「埋めないで。なんだか今日、あたし、気分が悪いんだよね」
 祐介はピースを持っていない方の手であんずの額の熱を確かめた。あんずは気持ちよさそうに目を閉じた。
「熱はなさそうだな」
「うん。大丈夫。生理が近いのかも」
「身体大切にしろよ。また病気したら蹴り入れて、ドラム缶に詰めてセメント流して、東京湾沈めるから」
 あんずは祐介の膝に乗り、苦笑を隠そうと彼の首に顔をうずめた。祐介はあんずの頭をぐいと引き寄せ、二度、軽く叩いた。大丈夫、と祐介は言った。そうか、大丈夫なのか。きっと大丈夫なんだ。あんずは思った。楓雅の現在は知らない。母は、姉の彼氏と寝たらしい。仲良しグループはすっかりいなくなってしまった。みちからも、全く連絡はない。何にもなくなってしまった。でも大丈夫。今度は祐介が保護者になってくれる。楓雅との子供も、きっと無事に生まれてくる。祐介の子供として、育てれば大丈夫だ。きっと何もかも、大丈夫になるのだ。確信もないけれど、あんずはそんなことを思う。
 祐介の肩越しに白い壁を見つめると、一匹の蜘蛛が張り付いているのが見えた。
「蜘蛛だ」あんずが言うと、祐介は振り返って
「本当だ」と言った。
 蜘蛛はもたつきながらも、上へ上へと登ろうとしている。逃がしてくる、とあんずは言って、ティッシュペーパーを取った。蜘蛛って、ゴキブリと戦ってくれるんだぜ。祐介の言葉を聞きながら、あんずはその生き物を潰した。壁についた液体を吹き、まるで逃すかのように窓を開け、しゃがみ込んで捨てた。


 外が寒い。
 澄んだ青空を見上げる。
 あんずはとりたてて何も思わず、すぐにベランダを閉めた。


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