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先輩(小説)


   恋は宗教。先輩は教祖。二人でいいから教会を作ろうよ。数Bなんか全く手につかない。数学担当の福ちゃんには悪いけど、私にはZ軸を学ぶ暇などない。福ちゃんは最近結婚した。よその高校で英語を教えている先生らしい。写真を見せてもらったら、とても綺麗な人だった。福ちゃん、福ちゃんもその人を崇拝しているよね。その人の言うこと全てがイエスさまの言葉みたいに感じられているんだよね。福ちゃんは困った顔をした。困っているのに口元ははにかんでいて、一緒にいて落ち着く人なんだよと言った。は? 死ね。
 そんなの絶対恋じゃない。崇拝しない恋なんて恋じゃない。周りは絶対恋してない。ただ彼氏が欲しいだけ。その雰囲気を味わいたいだけ。私は違う。私だけが先輩を愛している。先輩が晴れを好むなら晴れになるよう祈る。日本史が苦手だと言ったら森有礼を百回呪う。先輩は私の全てだ。先輩は私の生活の全てだ。デカルトは言う。我思う故に我あり。先輩を一途に思う私は思うからこそ存在できているのだ。私は信者。先輩は教祖。先輩もそれを認めてくれたらいいのに。楽なのに。
 アナウンスが鳴る。黄色い点字ブロックの内側までお下がりください。急行電車の通る音。西日に照らされて赤く燃える車両。私には時間がない。先輩は卒業してしまう。いま、先輩は三年生だから、二月には自由登校になって学校に来なくなってしまう。私が彼を見られるのはあと三ヶ月。私は焦っていた。私は焦っていた。修学旅行なんか行きたくなかった。三泊四日も無駄にしてしまうじゃないか。もう、ばかばか。本当にばか。学校で勉強したいから修学旅行には行きませんって言ったら、ママは私がいじめられていると思ったのだろう、気を遣っておろおろし始めてめちゃくちゃうざかった。だからパパに行きませんと言ったらパパは学校は勉強が全てではない、青春を楽しみなさいとか言い出した。パパとママはいつも孔子みたいなことしか言わない。ばかになりそうだ。私に必要なのは先輩だけなのに。まったくなんだって私が福ちゃんクラスのメンバーと仲良くしなくちゃいけないの。こいつらは恋はおろか遠藤周作の著作さえ知らないのに。私は誓います。私は先輩だけを心に決めて信仰することを誓います。
 こんなに先輩先輩言っているけれど、私は先輩と話したことがなかった。それに私が先輩を崇拝していることは、親友のユウにしか話していなかった。ユウは修学旅行が始まるまでに、直接話しかけた方が良いね、と言った。先輩とはもともとインスタでDMを取り合っていたのだが、向こうからメッセージが来ることはなかったし、私自身も返信が返ってくるだけで満足していたのだった。今はいい。話さなくても、これでいい。そう思っていたら、もう十一月! 仕方ない、腹を決めよう。「部活見に行ってもいいですか」と送ると「いいよー」と返ってきた。「ありがとうございます!」「いいえ」ああこの「笑」も顔文字も何もつけないそっけなさがだいすき。私は小躍りしてラグビー場へと走り出す。
 先輩と運命の出会いを果たしたのは、高校一年の球技大会。何度も反芻しているから、フィルム映画みたいに巻き戻して思い出すことができる。私の目の前を、ゆっくりと先輩は通った。一瞬のことだったのに、それはとても長い時間だった。私はその数秒の間に、先輩の横顔を見て、そこにくっきりとした二重まぶたの線や鼻の高さを認めた。球技大会用に作ったクラスTシャツの後ろには、「荒ちゃん」のネーム文字。あの人は、二年生だ。あの人は、荒ちゃんと言う。その日から荒ちゃんこと荒井先輩は、私の生活の中心になった。ずしんと爆弾みたいに、心に落ちてきたのだった。それから一瞬で私の身体中をめぐって、私の血液にも細胞にも「荒ちゃん」が刻まれたわけ。そう、私が一息で話すとユウは呆れたように肩をすくめた。ユウもあの時私の隣で先輩が通り過ぎるのを見ていた。ユウは「言うほどいいかなあ?」と疑いながらも、先輩の本名、部活、SNS、出身中学を調べ上げてくれた。持つべきものはネットサーフィンの上手い友達だ。
 ラグビー場は自転車置き場の近くにある。たゆんだ緑のネット越しに私は先輩の姿を探し出す。一人だけ、大きい。大きくて、腰回りも太い。がっちりしている。ラグビー部の顧問と並んでも引けを取らない立派な身体――先輩は端正な顔に豊かな肉体を持ち合わせていた。ギリシャの硬貨になってもおかしくないんじゃないかな。いつかそうユウに言ったら「頭おかしいんじゃねえの」と言われたっけ。それでもあの人がラグビーボールを持ってタックルしている姿は、なんだかとても神聖で、とても尊いもののように思われるのだ。
 ドッと重い音がした。先輩がボールを蹴り上げたのだ。軌道を目で追う。ああ、
「ハイパント、上げ走り行く我の前……」
 私の教祖は、泣きたくなるほど美しい。


 私は先輩を前に縮こまっていた。先輩は大きな身体を所在なさげにひねったりうつむいたりしてゴソゴソしている。休憩中……他の部員は少し離れたところからにやにやしてこちらを見ていた。
「あの、さっきの高くあげるやつ」と私は言った。
「ああ、ハイパント」
「はい、ラグビーボールって形が丸くないっていうか、紡錘型だから、難しそうだなって思いました。軌道に乗せるの」
 耳が熱く、口が回らない。私は何とか伝えようと両手を「く」と逆「く」の字にしてラグビーボールを表そうとする。先輩が私を見ている。先輩が私を見ている。先輩はにこりともせずに頷いて、「サッカーボールとは違うからね」と言った。何回も練習しているんだよ、あれは。先輩は近くで見ても美しかった。彼のつるりとしたなめらかな肌と厚い唇をさっと見て、私はうつむいた。話が途切れる。なんとか紡がなければならない。再び顔を上げると、先輩は横を向いていた。先輩は西日の当たる旧校舎に目を奪われていた。先輩の瞳が紅かったから、それが分かった。
「先輩、私、修学旅行、沖縄に行くんです」私は言った。
「あ、今年も沖縄になったの」
「はい、だから、先輩にもお土産買ってきます!」
 失礼します! 私はお辞儀をして、走った。先輩の視線がうなじに感じられて、こそばゆかった。駐輪場を抜ける。体育館の通路を抜ける。喋ってしまった。喋ってしまった。先輩と、先輩と! 初めて喋ってしまった! 先輩の声が、視線が、後から後から私の動脈を駆けめぐってくる。細胞に行き渡るのを強く感じる。なんでも出来そうだった。あの長い横断歩道も三歩で渡れそうなくらい、なんでも出来そうだった。私はどこへでも行ける! 沖縄の海も食べ物もほんとうは全然興味ないけれど、私は先輩にお土産を買うことを許されたのだ。なんでもない木々がキラキラして見えた。車が走る音が耳に心地よかった。先輩を好きになってよかった。先輩を好きにならなければこんなに世界がいいものだって気づかなかったから。
教室に残っていたユウが私を見て「喋れたんだね」と言った。そうなのそうなの、先輩はあんなに面倒だった修学旅行を意味ある行事に位置付けてしまったの。校舎に自分の気持ちを残して、私は嬉々として沖縄に飛び立つのだ!




 ……修学旅行は長かった。首里城は綺麗だったけど、観光用でつるりと綺麗に内装されていて、何となくがっかりした。食べたことのない味もビミョーな焼き魚を民宿で食べ、女子の恋愛トークに適当に付き合った後、眠くなったふりをして寝た。海でも遊んだ。海なんか嫌いだし焼けたくないから私はテントの中でフランソワ・ラブレーを読んでいた。時々福ちゃんがやってきて色々気にかけてくれる。教師というのはどんな生徒のこともケアしなければならないらしい。修学旅行という、高校生なら発狂してしまいそうなお楽しみ行事にも冷めている生徒だ、きっと集団に馴染めていない子供だって、思われているに違いない。あの子は成績はいいんですが人との関わりが少し不得意ですので先生方気にかけてやってくださいとか福ちゃんがまじめ腐った顔で言っているに違いない。それを考えるだけで、キモくなってくる。まじでうざい。
 消灯後、私はそっと部屋を出た。飲み物が欲しかったし、この馬鹿げた行事で浮き足立つ集団から離れる時間が欲しかったのだ。ホテルの一階に備え付けられたコンビニエンスストアに入って、化粧品のコーナーを眺める。修学旅行ということで、隠れて化粧をしている女の子が多かった。先輩もそういう目立つ女の子の方が好きなんじゃないだろうか。私は可愛いし、見た目に関しては不自由したことがなかった。化粧もママには、大学生になるまでしない方がいいと言われている。でも私はみじめになるのだ。目立つ様な女の子たちが、勉強も何にも出来ない様なばかな女の子たちが化粧をして可愛くして、大きな声ではしゃいでいるのを見ると、みじめな気持ちになるのだった。私は可愛い。でも、私よりもずっと目立つ子が、高校にはたくさんいる。高校生男子にはちょっと目立つ方が可愛く映る。大して美人でもないけれど、目立つ様な子に、彼氏はできている感じだし。私が先輩に話しかけることができなかったのも、実のところ、このせいだった。垢抜けない自分に自信がなかったのだ。
 棚から赤いリップを取り、カゴに入れた。それから水とゼリーも買った。深夜だから、人もいなかった。レジに行くと、店員の男がこちらを見ていることに気付く。にやにやとしているので、睨み返してカゴを置く。彼は私の買ったものをレジに通して、
「彼氏と待ち合わせ?」と尋ねた。
「違います」
「そうだね、それらしい物もないしね」
「……」
 私が無言でいることに、男は満足した様だった。ここでどんな反応をしても、彼は満足するのだった。
「ごめんね。少し話さない?」
「少し?」
「うん、学校のこととか教えてよ」
 もう少しで交代だから、ロビーで待っててね、と言うと、彼はバックヤードに戻っていった。私はコンビニを出て、そばのソファに座った。沖縄の夜は静かだった。先輩から、連絡はない。きっと気を遣って、楽しめるように返信をよこさないのだろう。そうに決まっている。先輩の代も、修学旅行の行き先は沖縄だった。先輩のインスタには海の写真が載っていたから。先輩もこのホテルに泊まったのだろうか。先輩はこのホテルの中で何を思ったのだろうか。
 私は店を振り返った。誰も出てこなかった。だから急いで立ち上がり、小走りで部屋に帰った。





 修学旅行、楽しかった?
 私は首を横に振った。終わってよかったよ、と言うとユウは苦笑した。ユウは旅行当日、熱を出して休んでいたのだ。全く計画的な女である。手土産を渡され小躍りするユウをぼんやり見ていると、彼女はもう一つの紙袋を指差して、
「渡しにいっちゃえばいいのに、今から」
 と呟いた。私は顔を赤らめ、袋の取手を握る。
「今行ったら、黒野先輩に渡すものだって勘違いされちゃうよ」
 黒野先輩とは二年の間でカッコいいと騒がれている先輩である。荒井先輩と同じクラスで、ほっそりとした身体とワックスでふんわりさせた髪が綺麗な顔を惹きたてていた。
「黒野先輩が沢山もらってるってことは、黒野さんと仲のいいあのデブも期待して、待ってるかもよ」
 デブって言うなとユウを小突くが、確かにそうだと思う自分もいる。思い立ったが吉日だよ、とユウに背中を押され、私は三年生の教室に向かった。この人は私を理解している。この人とは小学校からの仲であった。この人は私が勢いのあるように見えながら、本当は気が弱いことをなによりも知っているのだった。
 三年生の廊下に来ると緊張する。上履きの色が違うだけで、どうしてこんなに大人っぽく見えるのだろう。三年二組――私立文系クラスをそっと覗くが、胸がどきどきして見つけられなかった。じろじろと女の先輩たちがこちらを見てくるため、背中に冷や汗をかいてしまう。
「黒野に渡すやつ?」
 ふいに後ろから声をかけられ振り返る。荒井先輩の友達。先輩と同じ部活の、先輩の隣にいつもいる男の人。私は何としてでも、早くここから去りたかった。早く帰ろう。いっそ黒野先輩に渡すものという体にしてしまおうか。だって、だって、地味な私に渡されても、先輩には迷惑かもしれないし。だったらいっそ貰いなれている黒野先輩に渡した方が……
「荒井先輩にお願いします!」
 ぽかんとしている先輩の友達を置いて、私はそそくさと立ち去った。私、言い逃げばっかりしている。今回は渡し逃げと言ってもいいかもしれない。トイレに入り、鏡を見た。可愛い。悪くはない。でも、なんとなく垢抜けない。こんな見た目じゃ……ユウから図書室で待っているとメッセージが届いた。私も向かおうとして、荷物を置いたままにしていたことに気づき、一旦教室に足を運んだ。
 そこで見た光景を、私は今でも覚えている。先輩がいた。私のお土産を持って。こちらからは、あの大きな背中しか見えなかったが、先輩は私の教室の前に立っていた。先輩は、写真を見ていた。廊下には写真を趣味にしている福ちゃんが撮った、修学旅行の写真が掲示されていたのだ。私の胸が高鳴った。あの人は。あの人は、今、
 私の写真を見ているのだ。
 だらりとさせた掌をぎゅ、と握った。そしてまばたきもせず、見続けた。私はこの光景を忘れないだろう。この時間、この色、この匂い、それらが混じり合ったこの空間を私はいつでも思い出すだろう。私のことなんて、どうでもいいのだと思っていた。返信はないし、いつもぼんやりしているし。何とも思っていないのだと思っていた。けれども確かに先輩はそこにいた。先輩は大きな身体を折り曲げてそこにいた。私の買ったお土産を右手にぶら下げて、そこに、そこに。
 私は話しかけることができなかった。私の口は固く閉ざされて、足も床から離れなかった。先輩は諦めたように立ち去った。私は数分、その場に立ち尽くしていた。先輩からお土産ありがとうのメッセージが来るまで。




 十二月になっていた。福ちゃんが「三年ゼロ学期」とかいうふざけた言葉を使い始めたので、そんな季節になったのだと気づいた。二年の終わりは、三年の前学期。さっそく受験勉強を始めようという意味の、進学校ではよく聞く言葉。ぱらぱらと大学のパンフレットをめくり、手触りのいいページの上に突っ伏してみる。ひんやりとしていて気持ちがいい。わたしは何になりたいんだろう。宗教学か、哲学を学んでみたいけど、就活を考えると経済学部が現実的かな。十七歳。高校二年生。わたしの前にはたくさんの道が広がっている。どれを選ぶのが、正解なのかわからない。どれを選んでも、そのあとどうなるのかなんて、わからない。私は何がやりたいのだろう、先輩は何がやりたいのだろう?
 三年生は三者面談があるので、午前中で帰ることになっていた。そのため先輩と会わないまま、日々が過ぎていった。私はあまり悲観していなかった。お土産を渡したことで、自分の中で、区切りがついていたのだと思う。メッセージのやりとりが少なくなっていたこともあるが……。何せ先輩はもうじき卒業してしまうのだ。告白して、そこから付き合うことも不可能に近いだろう――そのかわり、卒業式の時に第二ボタンを貰おう。そう考えていた。加えて自分の受験が始まろうとしているのもあって、あまりそちらに感けることもできなかったのだ。朝一で学校に行き、英語長文をたくさん読んだ。数学IIBのチャート問題を繰り返し解いた。私は有名な国立大学に行きたかった。私は、いい大学に行って、人生を成功させなければならなかった。誰にも頼まれたわけではない。誰が望んだわけでもない。けれども私はいい大学に入って、自信を持ちたかったのだった。
 年が明けても、先輩からメッセージが返ってくることはなかった。先輩だって、受験生だもの。きっと忙しいんだろう。今週末には、共通入試の試験日が迫っていた。少し迷ったが、昼休みの売店で待ち伏せをし、後ろから声をかけた。
「先輩」
 先輩の周りにいた友達は、にやにやとして先輩を置き去りにし、先輩はもぞもぞ身体を動かした応じた。
「明後日、試験、頑張ってください!」
「ありがとう、まあ、俺は使わないんだけどね」先輩は少し笑った。
「え、受けないんですか」
 先輩は首を横に振った。受けるよ。先輩が喋っているな、と思った。憧れの存在として見ていた先輩の口が、私のために動いているのを、私は改めて実感する。
「俺、指定校推薦なんだ。だから今回は記念受験」
「指定校推薦」
「そう、楽だよ、勉強しなくて済むしね」
「……大学、もう決まってるんですか」
「◯△大学の、経済学部だよ」
 私はそうですか、と言った。おめでとうございます、とも言った。先輩と別れ、購買でクリームパンを買った。かじりながら、廊下を歩いた。少し床に落ちたけれど、気にせずに歩いた。聞いたこともない大学だった。しかも、指定校推薦。先輩にとって受験など、大きな壁ではなかったのだ。私のように重く考えることもせずに、彼は学校を卒業するのだった。私とは違う。私とは違う。先輩は私とは違う。なんで、と思った。そんなの絶対先輩じゃない。受験は自分との初めての戦いなのに。戦わない先輩なんて先輩じゃないじゃないか。
 私は立ち止まり、ぼんやりと自分の上履きを見つめた。それから先輩の色の違う上履きを思い浮かべた。
「ばかみたいだな」
 私の教会が、がらがらと崩れていくのがわかった。私の妄想と信仰で成り立っていた教会が、エルサレムの神殿みたいに、がらがらと崩れた。



 ***



 翌年、私は晴れて都内の国立大学に進学した。いまは人文学部で、宗教学を中心に学んでいる。仏教に興味を持ち、最近は道元の教えについて研究している。




 私にはもう、教祖はいない。




 つまらない男と、何となく付き合っているだけ。

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