犬になってしばらく経つ。
　久しぶりにスマホを見てみたら、Aから一件、LINEが入っていた。本当に私のことを心配していたのは、Aだけだったんだなあ。仰向けになりながら、そんなことを思った。一年前からここにいるジョンが、見下ろしてくる。人間離れできていない、なんて言いたげな目だ。最近ジョンは少し痩せた。痩せたお陰で、それまで容貌に現れていた詐欺師みたいな胡散臭さが軽減されたと思う。
「ベス、俺、大学辞めるつもり」
　私がスマホをソファに放ったのを確認して、ジョンがそう話しかけてきた。ベス、というのは、私の名前である。正式には、二代目ベス。一代目ベスはもういない。主人は私にベスの話をしたのち、私がベスに似ているということで、この部屋に迎え入れたのだった。
「辞めてどうするつもり？」
「うーん、分からないなあ」
「分からないって……」
「この家の、家事手伝いとして暮らすかなあ」
「先代のベスだって、大学はきちんと卒業した訳でしょう？　卒業はするべきだよ」
「だってさ……」
　ジョンがうつむくと、長いまつ毛の影が頬に落ちた。彼は元々大学の友達だったけれど、こうして一緒に暮らすまで、こんなに綺麗な顔をしていることを、私は知らなかった。
「もしおれが就職したら、きっとおれは捨てられて、二代目が来ちゃうじゃん？」
「あきれた」私は言った。「あんたが決めることじゃないのよ、それは」
「分かってるけどさ」
　先程の威勢はどこへ行ったのか、ジョンは分かりやすく落ち込んだ。彼のほんとうの名前は、サナダという。「サナダ」だったころ、彼は毎日呑んだくれていた。いつもいつも、特にスポーツをするわけでもない、テニスサークルに入り浸っていた。女癖も悪かった。だから私が初めてこの家に来たとき。上裸で、植物のように穏やかな目をしたサナダを見たとき、思わず後退りをしてしまった。怖かった。それはもうサナダであって、サナダではなかった。そこにいたのは、ジョンと名付けられた、ただの犬であった。
　ジョンは主人が好きだ。主人に好かれるためにたくさんアピールをしている。主人が投げたおもちゃを急いで取ってきたり、何かを買ってもらった時は全力で喜びを表したり。主人は微笑んでそれを見つめ、撫でてくれる。飼い慣らされることに慣れたジョンは、そのうち主人が好きになったらしい。当時「ハルカ」と呼ばれていた私は、ジョンと主人がふたりでいるのを街で見かけたとき、彼がうまく女を引っ掛けたのだ、とおかしみを込めて、友人たちに報告した。ジョンの相手は何を隠そう、大学の向かいにあるカフェで働く、愛想の悪い従業員だったのだ。彼女が、私に何かをしたわけではない。けれども、とりたてて美しくもない彼女が、男子学生の中で話題に登っていたのが、気に食わなかった。だから、計画を立てた。もともと遊び人で、ノリのよく、酒に強いジョンを、鼻につくアルバイトの女と接触させて、むごい思いをさせてやろうと考えた。計画はうまくいった。主人の家にジョンが入り浸るようになった。遊び人で、女なんて性処理の道具だと豪語していたジョンのことだ、あの女もすぐに捨てられるだろう。そう思っていたのにもかかわらず、ジョンは大学に来なくなった。本当に好きになっちゃったのかな。いや、単に女に飽きたんじゃないの？　そんな噂が生じては消え、消えては生じていく中、雨の中歩くふたりの姿を、再び見かけたのだった。女は傘をさしているのに、ジョンは何も持っていなかった。ジョンだけが濡れたまま、女のあとに続いているのだった。そこに異様な雰囲気を感じた私は、ばかなことに、そのまま主人の家まで尾行した。そして、あっという間に、私まで犬になってしまった、ということなのだ。
 

　犬の一日は暇だ。朝、主人を起こしにいく。川沿いまで散歩に行った後、器に入ったごはん（菓子パン）をもらう。主人が仕事に行くのを、見送る。ぼーっとする。帰ってきた主人を迎える。ごはん（今度は手作り）をもらう。夜は、主人と遊んで（ときどき快楽を与えられて）寝る。
　学生として学んでいたときは、忙しくて、時間があっという間に過ぎて行った。今も学生としての籍は残っているけれど、（ジョンのことを笑うことはできない。私も大学に行けていない状況である……）これまでよりもゆったりと時間が流れていくのを感じる。主人はいつでも出かけられるようにと、私たちに首輪を着用させなかった。だから私は行こうとすれば、どこへでも行けるのだった。けれども、どうしたことか、身体が動かなかった。新学期が始まって、もう三ヶ月もたとうとしているのに。
「ベスは、主人のこと好きなの？」
「……」
「嫌いなんだ」
「そうではないけど」
「主人のことをいじめるために、俺と引き合わせたんでしょ」
「計画したのは私だけじゃないわよ」
「でも、使われたとしてもラッキーだったな。そうじゃなければ主人とこうはなれなかったと思うし。まあ、あれだけ魅力的な人だから、こちらから話しかけたかもしれないけど」
　ジョンはそう言って笑った。呑気なやつだと思った。遊んでやろうと思って近づいたら遊ばれてしまったなんて、ありふれた、どこにでもある関係である。
　夕方になって、主人が帰ってきた。主人は最近、帰りが遅くなった。しかしそれを口に出したことはない。ジョンが面倒くさいことになるからだ。（それを宥めるのは私の役目なわけだし）玄関まで飛んでいって出迎えるジョンを、主人がわしゃわしゃと撫でる。それから近くにいた私に笑いかけ、優しく抱きしめる。主人と私は同じくらいの背丈で、同じような体型をしている。私は最初、それがおそろしかった。私の身体つきによく似たこの女が、私の居場所を、私という存在を、脅かすのではないか、乗っ取ってしまうのではないかと危惧したのだ。しかし実際にこうして抱かれてみると主人は大きく、強く、そして禍々しかった。ねえ、だって、あなたはわたしのこと好きなんだもんねえ。そう言われたあの日。犬になったあの日から、私は主人に逆らう気力を無くしてしまった気がする。
　主人は私たちにご飯を与えてから、ソファに横たわった。私たちもそばに寄る。主人のマンションは広い。一人暮らしなのに、家族で住むような広い部屋に住んでいる。主人は、「そろそろお前たちにも一室、当てがわないといけないねえ」と呟き、それから寝入ってしまった。ジョンはといえば主人の足の甲に懸命に口付けていた。主人はどうしてこんなことをしているのだろう、と私は考える。そもそも、たかが、といっては怒られてしまいそうだけれど、たかがアルバイトの身なのに、どこから私たちを養うほどのお金が湧いてくるのだろう。主人のことだから、実家がものすごいお金持ちということも考えられるけれど。そんなことを思いながら、私はいつものように主人に毛布をかけ、ソファの足にもたれてそのまま眠ってしまった。


　夏になった。ジョンはもう我慢がならなかった。日に日に思い詰めていったのだ。そしてとうとうその思いを口に出して、私をうんざりさせた。
「どうしても好きなんだよ、犬でもいいけど、やっぱり男として見られたい、男として大切にしてあげたいんだよ」
　私はいつもの言葉を返す。かれこれもう五回目だ。
「主人はあんたに大切にされたいなんて、これっぽっちも思ってないの。大切にしたいってのは、結局あんたのエゴなんだよ。大きなお世話なの」
「エゴなわけない、あんなに……人を犬みたいに扱う人が、大切にされてきたわけがない。それはきっと大切にされたいという気持ちの、裏返しだと思うんだ」
　ほう、と思って私はジョンを見つめた。こういうふうに言い返してきたのは初めてだった。頭の悪い男だと思っていたが、彼も彼なりに考えることはあったらしい。しかし、私はだんだん相手をするのが面倒くさくなっていた。「でも」と「だって」を多用する人間は、自分の中で完結しているのにアドバイスを求めてくるから困る。それなら、と私は言った。それなら、
「襲えばいいよ」
「は？」
「襲えばいいのよ、主人は小柄で華奢な人なんだから、あんたの力には敵わない。一度押し倒してやっちまえば、こっちもんよ」
「でも、主人は嫌がるんじゃ」
　出た。〈でも〉。だけど、
「そうやって考えたこともあったんじゃないの？」
　ジョンが唇を舐めた。私はそのまま続ける。
「主人は疲れていつもソファで寝ちゃうけど、次は私が寝室に誘導してあげる。その後、私は別の部屋で寝るから。タイミング見計らって寝込みを襲えばいいよ」
「……」
「私のこと、ここから逃してよ。私のために。それならできるでしょう」
　優しい声でそう言った。つくづく、自分の意地の悪さが嫌になる。こういう風にして、いつも追い込んできた。立場の弱いものを陥れてきた。追い込むことが安心できる方法で、居場所を作る、唯一の手段だった。主人の家に来て、主人に飼われて、そういう感情から遠ざかって過ごしていた、のに。
「分かった」ジョンは強く言い切った。
「明日は主人が遅くなる日だ。やるよ、お前のためにも」
　わざわざ私のため、と言って奮い立とうとするジョンは、やっぱりいじらしい。けれど、行動の責任も取らず、いい加減に背中を押した私も、ほんとうにいじらしい。


　チャンスはやってきた。ジョンはあれから私を主人に見立てて、何度も押し倒す練習をした。「練習は本番のように」と呟くジョンは目に見えるほど緊張していて、それが可笑しくて、吹き出してしまった。二人で試行錯誤していると、ふいにジョンが私の手首を掴んだ。驚いて見つめると、ジョンは言った。
「お前は、前よりも今の方がずっといい」
　私はジョンの瞳を見つめた。茶色くて綺麗だと思った。この男にそんなことを言われる女が羨ましくもあった。照れ隠しするために、あんたもね、と返して背中を思い切り叩く。ジョンは笑って頷いた。心が痛かった。
　そして、ついにその時はやってきた。ただいまー。間延びした主人の声が聞こえた。私とジョンは顔を見合わせ、主人を迎えようと、いつも通りのテンションで向かう。主人は私たちの顔を見ると美しい顔で微笑んだ。しかし、私たちの視線はその後ろに吸い込まれていた。
　男だ。
「お邪魔します」
　男は、低い声でそう言った。少なくとも三、四十代、主人よりずっと年上の男に見えた。新しい犬が来たのか？　そう思ったが、違った。男は私たちを一度も見なかったから。挨拶をすることも、なかった。まるで私たちが見えていないみたいに、ぬるりと居間を通り過ぎた。主人は嬉しそうに男に腕を絡め、彼を奥の部屋に誘導する。私は呆然としてその後ろ姿を眺めた。嫌な予感がした。そしてそれは的中した。
　しばらくすると、案の定、主人の声が聞こえてきた。主人は吠えていた。犬のように吠えていた。叩かれるような音がするたびに、吠えていた。私は息を潜めて、地面の木目をじっと見つめた。いつまでも、いつまでも、いつまでも見つめていた。身動きがとれなかった。主人は喜んでいる。主人は足を舐めさせられている。可愛がられようと、必死に尻尾を振っている。それは確かに犬だった。どうしようもなく汚い卑しい犬であった。
　青ざめたジョンは、走って逃げ出した。私は後を追わなかった。何となく、もう一生会わないだろうと思った。それでも追わなかった。少し経てば、ジョンはまた大学に通い始めるだろう。でも私はこれからも通わない気がした。そうすることが正解なのだと感じたから。そういえ考えが、天から降りてきたと言ってもよかった。啓示だった。
　ご主人様、と呼んでいるのが、部屋から聞こえた。私のご主人様は主人だった。そして主人のご主人様はこの男だったのだ。では、この男のご主人様は？　そこまで考えて私は笑った。そういうものなのだ。居場所とは本来、そういうものだったのだと私は思った。全て繋がれているのだ。


　どれほどの時間が経っただろう。カーテンから陽が差し込んで、男が部屋から出てきた。主人は起きてこなかった。男は勝手にコーヒーを入れ、自分の家のようにくつろぎながら、新聞を読み始めた。男の家だったのだ、ここは。そして淡々と身支度を整えると、私の方を振り返った。私も男を見返した。
「名前は何ていうの」
「ベス」と私は答えた。ベスか。男は繰り返し、いい名前だな、とつぶやいた。いい名前だとも思っていない顔で、つぶやいた。彼女が起きたら、よろしくね。最後にそう残して、男は出ていった。私は鍵を閉め、投げ出された新聞を片付けた。これもあの人のために用意していたものだったのかもしれない。ベス、と声がした。主人だ。急いで寝室に飛び込むと、主人はベッドに横たわったまま、私に手招きした。私は主人の隣に潜り込む。
「ジョンはいなくなっちゃったんだねえ」
　主人はつぶやいた。小さな手に撫でられながら、私は頷く。
「お前はとてもいい子だね。いつもいつもわたしのことを考えてくれる」
　そう言って主人は私に口付けた。主人の顔は腫れていて、唇が切れていたから、少しだけ鉄の味がした。慰めるように、主人の首筋を舐めた。すると主人は声を漏らし、そっと私を抱きしめた。蝉が鳴き始めていた。どうしたって暑すぎる部屋だった。しかし私は春の陽気に包まれたような心持ちでいた。
「新しいジョンを迎えよう。探してきてくれるね」
　私が頷くと、主人は安心したように笑い、それからゆっくりと眠りに落ちていった。


　規則正しく呼吸する、主人の顔をじっと見ていた。ここにも、ここにも、噛まれた跡。数えているうちに、跡がふやけて見えてきて、私の瞼も、だんだん、重くなってくる。