祖母の黒い服 #2
小学校に入学する直前の、ある春の日曜日のこと。 私は祖母の買い物のお供でバスに乗って出かけた。祖母は対面式に向き合った長い座席の真ん中に空いていた席に座り、私もその隣にちょこんと座った。バスは、すっかり春らしくなった街の中をしばらく走り、大きな四つ角の信号で停車した。すると祖母は、黒いロングスカートの膝の前に私を立たせてから、私の名をフルネームで言ったかと思うと、「4月から小学1年生になります!」と、バス中に響く声で言ったのだ。突然のことにびっくりしたし、なんだか恥ずかしかったが、隣や向かいに座っていた見ず知らずのお客さんたちが口ぐちに、おめでとう、と言って拍手をしてくれた。バスの中は、むっとするほどの春の陽気に満ちていた。
祖母は花が好きだった。
毎週、近所の公園に立つ朝市で花を買い、その中から、小学校の教室に飾る花を持たせてくれた。だから、教室の後ろのロッカーの上には、祖母の選んだチューリップやグラジオラス、桔梗やなでしこ、フリージアに水仙など、季節の花がいつも飾られていて、誰よりも早く登校して花瓶の水換えをするのが私の日課だった。 といっても、水替えのために早起きをしているわけではなく、祖母との暮らしは、早寝早起きが当たり前だったのだ。
祖母は、毎朝暗いうちから起き出して、台所で湯を沸かしたり、流しの下の糠床から漬物を取り出したり、ごそごそと朝食の支度をしていた。
ようやく朝日が昇る時間になると、古いアパートの4階の部屋の、ずっと先は海につながる東向きのベランダに出て、静かに日の出を眺めた。私もきまってそのとなりに並んだ。生まれたての大きなお日様は、とろんと滴るようなマゼンタ色で、色と大きさを刻々と変えていく。朝の光を受け止める空は表情豊かで、不思議なくらい毎日違っていた。
雪が降った寒い日は、ベランダの窓ガラスの内側から眺めた。窓が真っ白に曇っているところへ祖母は指でふたつの丸を描き、「窓めがねだよ」といいながら、そこから外をのぞいていた。私も真似をして、窓にめがねを描いてのぞき込むと、白い世界が一面に広がっているのだった。
そのベランダから、祖母は毎朝、登校する私と妹が団地の角を曲がるまで、手を振って見送ってくれた。
夕方になると、祖母は夕焼けの色や西向きの窓から見える眉山の上の雲の様子で、明日の天気を予想した。たまに予想が外れて午後から雨が降った日は、小学校まで傘を届けに来てくれた。その時の祖母は、黒い服ではなく、茶色い割烹着を着ていた。
祖母にぎゅっと抱き着くと、目の前の割烹着のポケットには糖尿病だった祖母のノンカロリーの飴と、私の好きないちごミルクの飴が入っていた。あのころは特別好きでもなかった、祖母の作る魚の煮付けや白和えを、この頃、どうしようもなく食べたくなることがある。
3へ続く→
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