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2泊3日の入院生活を終えて、SNSを手放した

「明日から入院しましょう」
助産師さんにそう言われたのは、出産まであといくばくもないという日のことだった。

「入院」
突然の宣告に驚いて、おうむ返しになってしまう。

「入院と言っても、3日間だけですよ」
こういう事態は日常茶飯事なのだろう。こともなげに助産師さんは告げた。

なぜ急遽入院することになったかというと、血液検査の結果、血糖値が高かったためだ。
いわゆる、妊娠糖尿病である。

妊娠糖尿病とは、妊娠中に発見された糖尿病に至っていない糖代謝異常のこと。
つまり私は、糖尿病ほど深刻ではないけれど、妊娠中の血糖値基準(通常よりも厳しく設定されている)からはオーバーしているようだ。

日頃の食事が悪かったのか(この夏は麺を食べ過ぎたような気がする)、運動不足だったのか(家に引きこもっていた)、思い当たることが多過ぎて、不安しかないまま入院のための荷造りをした。

そして翌日。
私は、白い壁を淡いピンクのカーテンで4つに仕切られた病室にいた。

入院の名目は「教育入院」というものらしく、血糖値について理解を深め、自分で血糖値を測れるようになり、退院後の生活を自分で管理していけるようになることが目的らしい。

そうは言っても、1日10回ほど血糖値を測ること以外は、とりたててやることもない。

ピンピンしている身にとっては暇で暇で仕方がない。
気がつけば何度も時計を確認していたり、次の血糖値の測定に身構えたり、眠くないのにベッドに横になってみたり、持参した本のページをめくってみたり。
あてがわれたベッドの上という小さな空間の中では、時の流れが異様に緩やかだった。

入院中は、しょっちゅう娘のことを考えた。
彼女は元気にしているだろうか。
朝起きてから夜寝るまで、疲れ知らずで遊び回る娘。きっと、大丈夫だろう…。

2歳の娘と一緒に過ごす1日は、朝は服を着替えさせるところから始まり、朝ごはんを食べさせて遊びに連れて行き…と、四六時中、娘の後を追いかけ、せっつきながら、慌ただしく時間が過ぎていく。
頭の中ではいつも次の予定を考えていて、「早く早く」という言葉が喉の奥に常に控えている。それが私の日常だ。

清潔な白いベッドに腰掛け、本を読んでいると、そんな日常が嘘のようだ。

離れてみると、早くもその日常が懐かしかった。
今は会いたくても会えない。

仕切られたカーテンの奥には、切迫早産で入院している方がいた。
切迫早産とは、早産になる危険性が高いと考えられる状態のこと。

早産になると赤ちゃんにリスクがあるので、なるべく正産期まではお腹の中にいてもらわなくてはならない。

隣のベッドの女性は安静のために、シャワーも浴びることができず、不必要に歩き回ることもできない。

いつから入院しているのだろう。きっと早く家に帰りたいだろう…。
そんなことを思いながら、何かが「できる」ことの有り難さを感じた。

入院生活、初めは「できないこと」ばかりだと不満だった。しかし、時間が経つにつれて、次第に「できる」ことに目を向けられるようになっていった。

1日3度のご飯が食べられることが嬉しい。
シャワーを浴びることが嬉しい。
看護師さんや先生と話す時間が嬉しい。
ほんの20メートルほど離れた給湯器から、温かいほうじ茶を汲みにいくことすら楽しかった。

何かが「できる」ということは、特別なことなのかもしれない。

日常の中には、することがあれもことも溢れていた。
それを「しなければならないこと」だと考えていたけれど、裏を返せば、それは「できる」こと。

静寂に包まれた、あらゆる行動が制限された環境にいると、あの、溢れるばかりにできることがあったときが、特別なことに思えた。

私はあの、可能性に満ちた日常の中で、どこかでタスクを終えることを優先し、不愉快な感情から逃げようとしていた。
早く早くと子どもを追い立てたり、家族の団欒よりは家事を優先したり、子どもの遊びに付き合うことに耐えかねてスマホを覗いたり。

次に何が起きるかわからない、ある意味混沌とした「今」と向き合うよりは、頭の中にある居心地のよい場所に逃げ込もうとしていたのではないか…。

裏にあるのは、自分が物事をコントロールしたいという欲求だ。

でも、順調だと思っていた妊娠生活で突然入院を告げられた。
人生は思い通りにはならないということを、思い知らされた。

自分の人生を自分でコントロールすることはできない。
そのことを認めることは辛いことだと思っていたけれど、認めてしまえば意外にも肩の荷が降りた。

何か、あるいは誰かに振り回される人生は嫌だと思っていた。
でも、振り回されることで得られる豊かさもあるのかもしれない。

入院生活を終えて、私が真っ先にしたことは、SNSアプリをいくつか消すことだった。
理由は、もっと家族との時間を家族と向き合いながら過ごしたいと思ったからだ。

幼い子どもと一緒にいることは、今しかできないことだ。
今できることを、逃げ腰でやるか。それとも、向き合うか。

向き合うことで、私が予想しなかった豊かな時間を経験できるのだろう。

ただ、私はわかっている。こんな風に理想を語ったとしても、きっとまた育児に嫌気がさし、自分の時間が欲しいと叫ぶ瞬間があるに違いない。
効率を考えたり、家族をほったらかして自分の趣味に没頭したり、子どもに「早く」と追い立てる瞬間があるに違いない。

それでもいいのだと思う。その度に、また自分が大切にしたいことは何かを考えて、自分の生き方を少しずつ修正するのだ。

単純なことの繰り返しだと思っていた日常の中には、こんなにも可能性が溢れている。
「今日はどんな日になるのだろう」
そんなことを思いながら、日々を楽しみたい。

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