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母の洗った白いカーテン(日々のたわごと 8/11)

茅ヶ崎のアパートに母が来た。

今年の夏は暑い。新聞記事を読むと、7月の平均気温は観測を始めた1898年以降と比べて過去最高だと言う。
家の中にいる分にはさして問題ないが、ずっと引きこもっているわけにも行かない。決死の覚悟で外に出て、今すぐにでも倒れるんじゃないかと思いながら家に帰ってはエアコンをフル稼働させている。

そうこうしている内に、夫婦共に体調を崩してしまった。
二人とも咳が止まらない。加えて、夫はある日急に坐骨の痛みを訴えて、立つにも座るにもうめき声をあげている。
私は咳のし過ぎで、みぞおちやら胸のあたりの筋肉が痛み、咳の度に海老のように体を曲げている始末だった。

そんな中で、二歳の娘だけが元気だった。
数時間毎に繰り返される、娘からの「何か食べたい」「散歩に行こう」という言葉に私は疲弊していた。
「ちょっと待って」「今日は行けない」と断り続けると、娘のフラストレーションもたまっていく。横になって休もうとする私の頬を娘が叩いた。
「痛い!」
高ぶる感情のせいか怒鳴り声に似た声が出てしまう。
怯える表情を浮かべる娘を見ながら、このままでは家族みんながぼろぼろになってしまうと思った。

助けを求めた先は、京都に住む母だった。
急な頼みを二つ返事で引き受けてくれた母は、電話した翌日には茅ヶ崎のアパートにやってきた。
バスで二時間、新幹線で二時間、電車で更に一時間、最後には最寄駅からタクシーに乗ったという母は、ちょっとそこまで散歩に来たかのように普段着で現れた。
いつもと違うのは片手に引いた小さなキャリーケースと、額に浮かべた大粒の汗くらいだろうか。
「京都も神奈川も同じくらい暑い」と言いながら、娘の姿を見つけるなり荷物の整理もそこそこに、早速娘と遊び始めた。

母にとっては、娘は初孫だ。
私の体調が悪いと言って連絡しても、母が真っ先に気にかけるのは、私ではなく娘のことだ。母の目には娘のことしか映っていないのではないかと思ってしまう。
それでも、今一番欲しているのは娘の遊び相手なのだから、ありがたい。
家にあるものはなんでも好きに食べたり飲んだりしてと母に言い残し、布団を敷いて横になった。

気がつけば部屋が暗い。
そこかしこに蝉の音が響く窓の外を見ると、オレンジ色に染まった夕暮れの空が見える。
時計を見ると、母が来てから五時間以上経っている。
二人はと探すと、自分に注目してくれる人がいることがよほど嬉しいのか、家中のおもちゃや絵本を次々に母に見せてはしゃいでいる娘がいた。
母は母で楽しそうにしている。
五時間もつきっきりで見ていてくれたのか。
私には健康なときですら難しいと内心舌を巻きながら、久しぶりに訪れた休息に心がほぐれていくのを感じた。

母が来て数日経った頃だろうか。夫も私も体調が徐々に回復してきた。
その日は夫の家族が集まり会食をする予定だった。
外は灼熱の暑さだ。夫は子どもを連れて二人で行ってくると言ってくれたので、母と留守番をすることにした。

2DKのアパートは家族三人で暮らすには何の不便もないが、さして面白みのある場所ではない。
ゲストルームがあるわけもなく、夫の仕事部屋に急ごしらえで作ったスペースで母は寝泊まりしている。
ここにいても暇だから近くのカフェにでも行ってきたらと言おうとしたら、母は黙々と洗濯機を回していた。
「小さい子がいないと掃除もはかどるねぇ」と晴れやかな顔で言いながら、今度は部屋中に掃除機をかけ始める。
埃が舞うからと窓を開けると、日差しのわりには心地良い風が吹き込み、カーテンを揺らした。

いそいそと立ち働いている母の姿に、既視感を覚えた。
そういえば、私が学生の頃も何度か母が下宿先に訪ねてきたことがあった。どこかに観光に行った記憶もないので、もしかしたら同じように体調不良のときに助けにきてくれたのかもしれない。
そのときもやはり母は、アパートの小さな部屋中を掃除していたのだった。

いつか洗おうと思っていた、窓辺にかかる白いレースのカーテンについた黒いカビも、母の手によって白くされた。
脱水して、そのままカーテンレースに戻された白いレースは、風が吹くたびにほのかに洗剤の香りを漂わせるのだった。

結局、今回も一度も観光をせずに、茅ヶ崎らしいものも何一つ見ぬまま母は帰っていった。
朝早いから見送りはいらないと母が言っていたが、出発の朝、物音で目が覚めてしまった。
ぼうっとする頭のまま椅子に座り、帰り支度をする母を眺めた。いつの間にか娘も起きて、母にまとわりついている。
「じゃあ帰るね」
玄関の扉を開けて振り返った母の表情は、ここ一番の笑顔というか、いかにも不自然であるけれど、絶対に笑顔でいようと心に決めた者の顔をしていた。
そんな母の表情に不意を突かれたのか、ありがとうの言葉も満足に言えなかったのだった。

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