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今更☆ボフェミアン・ラプソディ

 「ボフェミアン・ラプソディ」はクィーンの映画 タイトルにもなり、大成功を収めた。まだコロナという言葉も無く、みんなで楽しく映画を楽しめていたほんの数年前の映画だ。
 
 私はその頃、ミュージシャンの伝記映画を追っていた。エイミー・ワインハウス、ジャニス・ジョップリン、ジェームス・ブラウンなど映画と伝記本を同時にウォッチする活動を1人で行っていた。
 ある日、映画館のチラシを見ていると、数ヶ月後に「ボフェミアン・ラプソディ」という映画があると書いてあるではないか?フレディ?クィーンが映画になる。嬉しすぎる!そうやって、数ヶ月が過ぎていった。
 今時クィーン?と言われそうだし、映画に一緒に行く友だちもいない。なので夫と約束していたが時間が合わず、また、クィーン愛が今一つな夫は諦めてDVDを待つわと言い始めてしまった。私はどうしてもロードショーの日か、その直後には見ておきたいという気持ちが強く、歯医者の予約をしていたにも関わらず、予約を中止し、映画館に向かうことにした。
 あの日の日記はこうだ。「今からフレディに会いに行ってきます」愛しすぎやろ。
 まだロードショー直後と言うことで、さして話題にもなっておらず、お客はぽつりぽつりといった具合であった。往年のファンのおじさま、おばさま、ロック好きなカップル、そして謎の主婦私。私は早めに到着し、ポップコーンやジュースを買い込んで席に着いた。
 映画が始まるときに映画会社のロゴマークと共に流れる映像、そのジングルでもう既に泣いていた。ブライアン・メイのギターやないかい!そして、旧ウエンブリー・スタジアムでのライブエイドへと画面が映る。
 フレディは、自分が同性愛者であることを、今の人たちのようにカミングアウトしていたわけでは無かった。近しい人たちや、交流が会った人には自然と伝わって分かっていたかもしれないが、決して「そうだよ」と、言うことはなかった。悲しい時代だ。恋人であったメアリーに伝えるのも悲しすぎた。富や名声を手にしても、何か分からない不安や恐怖に押し殺されるまではいかないまでも、言い知れぬ不安や恐怖が気づいたらある。そうやって生きていったのかなと思った。実際の話とは違い、エンターテイメントを追求しているのは分かっていたが、それでも良かった。フレディの近くにいて見ているような感覚になれた。
 その人にはその人なりの譲れない苦しみがあるものだ。他の人にとっては平気なものでも、その人にとっては辛すぎること。簡単に忘れれば良いと言えることも、その人にとっては、それができない。
 映画を見終わっても、その後の実話との比較も楽しかった。本やネットで実はこうですと書いてあるのを見ては楽しめた。色々調べてはえいがとかさねあわせた
 フレディのお墓の場所はメアリーしか知らない。最期の恋人であったジムさえも。住む土地さえも自由な遊牧民の狂想曲。そこには苦しみが伴い、自由なのに辛い。なんか羨ましくないところがフレディらしくてすき。
 今は新しいボーカリスト、アダム・ランバードを迎え活動しているクィーン。フレディは自分のことを忘れられるのはイヤだったというから、喜んでいるのかな?そうだったら良いな。
 

 

 

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