着たい服だけを着ていたい(エッセイ)

 服を着るのはすきだ。
 着ないでは生きてゆけない種族、社会的集団に属しているので、これで服を着るのが嫌いだったなら大変だとは思う。ともかく、どうせなら着たい服を着るのがすきだ。

 とはいえ比較的、世間的には無難な服を選ぶタイプだと思う。
 新しいアイテムの候補はまず黒かグレー、ネイビー、もしくはブラウン。なぜって手持ちの服のどれと合わせてもあまり喧嘩をしないから。数年前に買った春物のコートは珍しく薄いブルーで、だけどこれも色合いと模様がインナーの邪魔をしないから気に入って買ったものだ。
 ブラウスやカーディガンはともかく(スカートでも結構勇気がいるのだけれど)、コートの白は袖口が汚れるから除外。真っ白な毛糸の手袋なんて、自分でハンドルを握らなくてよい、雪かきのスコップを持たなくてよいトクベツな子にだけ、許された代物だと思ってしまう。なんて、季節外れの話はさておき。

 特にも二年ほど前までの話になるが、当時の私は、仕事に行くための服を考えるのが心底面倒で仕方がなかった。

 制服がない職場で、いわゆるオフィスカジュアルが敢行されていた。一定のルール内でコーディネートを楽しむことはできたけれど、そのわりには「これくらいの服装なら許されるかな」という絶妙なライン、妙にうるさい客層や(いわゆる)お局様の間の不文律を探りながら衣服を選ぶのにうんざりもしていた。
 最低限の清潔感は必要だけれど、あまり気合を入れ過ぎてもいけないから、当時は「たかが仕事に行くだけで、こんなにかわいいワンピースを着ていく必要はない」と思うようにしていた。
 服はすき、化粧は面倒だけれど嫌いではなく、だけど根本的には「服を着ている・化粧をしているという大義名分のため」。そんな気持ちで暮らしていたから当時、どんな服をクローゼットに入れていたのか今もあまり思い出せない。

 ところが当時の勤め先を辞めた途端、本当に着たい服しか着たくなくなった。
 転職して心身が解放されたことで、「着たくない服を着ている人生の時間、もったいなくない?」と思い始めたのだ。
 反動のように、アシンメトリーなデザインのスカートや、切り替えのかわいいワンピースを買い漁る。と言ったって、お財布にもクローゼットにも限度があるので1シーズンに1、2着の範囲だけれど。さいわい、転職先は以前よりも緩めのオフィスカジュアル――というか、人によってはジーンズにパーカーでも出勤しているので、とやかく言われる心配はなくなった。

 思えば以前の勤め先を辞める間際は、そもそも心身がガタガタだったので、生きていること自体が嫌だった。死ぬ方法こそ具体的には考えなかったけれど、生きていたくはなかったから、食べる・飲む・着る・風呂に入る……をどれもおそろかにしていた。
 きちんと心身を休めて、
「居たくもない職場にいるのは人生がもったいない」
「やりたいことをやるために人生の時間を使いたい」
「着たくもない服を着ている時間だって人生がもったいない」
 と、ようやく思えるようになった。
 今は反動の衝動買いも少しは落ち着いて、転職先にも気の抜けた服で通っているけれど、「服なんてどうでもいいや」ではなく「今日は気の抜けた服をこそ着たいな」と思って選べるならそれもいいかなと思っている。

 別段、裸体を隠して外を歩けさえすれば仔細にはこだわらない、という方もいる。
 私も正直、そう思う日だってある。
 気合を入れた服だけで365日、というのも疲れてしまう。シルエットや締め付け、素材だけの問題じゃあなくって、なんというか『気分』なのだ。一張羅で背筋の伸びる朝があるならば、同じように、着古した服でこそ肩の荷の下りる昼下がりもある。
 そういう緩急って、服をすきでいるために、人生をそこそこうまく回すために、仕事をまあまあ辞めずにいるためには必要だなという気がしている。たとえば今日は休日なのでユ○クロで買ったレギンスとショートパンツに、どこかのワゴンで数百円だったTシャツを合わせているけれど、今日はこれが着たかったからそれでいい。

 だけどやっぱりお気に入りのワンピースは勿体なくて、結局どうでもいい服で仕事に向かってしまいたくなる。貧乏性といえばそうなのかもしれない。あーあ、着たい服だけを着続ける暮らしへの道のりは存外遠い。

#ファッションが好き

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