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『文鮮明教祖=弥勒菩薩=メシア』説の考察

56億7千万年~宗教的暗号解明!

家庭連合(旧統一教会)幹部:甘露密柑(竹内清治)先生が語る、弥勒菩薩の真実。怒り狂う弥勒信仰僧侶、憤る自称弥勒菩薩を静かに教えさとし、完全沈黙・完全論破されたという甘露密柑先生が語る宗教的暗号の秘密とは……

視聴後の感想:弥勒像の指のサインは景教徒がよく使ったシンボル。 中国の景教徒はキリスト(メシヤ)とミロクを同一視していた。 ミロクというのは、仏教における未来の救い主・来たるべきメシヤであり、キリスト教においては来たるべきメシアが、ミロクである。

視聴後の感想:秦河勝は原始キリスト教徒(景教)でありながら、仏教の弥勒というのはキリストと同一人物であることを理解していたからこそ、弥勒菩薩を崇拝した。 したがって、キリストの崇拝・礼拝のために広隆寺を造ったと考えるのが極めて自然な流れ。

秦氏の人々はまた、古代基督教の信仰——それもユダヤ的な基督教信仰を持っていたと言われています。
イタリアから日本に来たカトリック宣教師、マリオ・マレガ神父は、ザビエル以前の日本にすでに基督教が入っていたことを認めてそれを研究した人でした。彼は1952年の東方学会で、歴史学の教授たちを前に、その日本研究の論文を発表しました。
マレガ神父は、『秦氏の首長、秦河勝によって京都の地に603年に建設が始められ622年に完成した寺は、もとは仏教の寺ではなく古代基督教の教会であった』と書きました。それは、京都の葛野(かどの)の地に建てられました。しかし後に焼失したため(818年)、そこから数キロの京都、太秦の地に再建されました。
現在は「広隆寺」(別名 蜂岡寺はちおかでら太秦寺うずまさでら秦公寺はたのきみでら)と呼ばれる仏教の寺になっています。けれども、現在の広隆寺は創建当初の建物の面影を残すものではありません。江戸時代後期の儒学者・大田錦城《おおたきんじょう》(1765~1825年)は、広隆寺を見たとき、「寺という名はついているが、仏教の寺ではない」と述べました。そして彼はその著『梧窓漫筆拾遺ごそうまんぴつしゅうい』において、広隆寺は中国の長安にある景教寺院、大秦寺(だいしんじ)に倣ならって建立されたにちがいない、と書いています。

隠された十字架の国・日本~逆説の古代史(ケン・ジョセフJr.)

秦家の先祖たちの信仰について、風のうわさで「彼らは古代基督教の痕跡を持ち、ユダヤの影響が強く感じられる」と囁かれている。しかし、これは一般的に受け入れられている事実ではなく、ある研究者たちの興味深い仮説の範疇を超えない。かつて、秦河勝によって建てられた広隆寺は、不運な事情で火の手に包まれ、現在の太秦へとその場を移して再建された。
そのオリジナルの広隆寺がかつてどこに存在していたのかは、時間を越えた謎として私たちの前に立ちはだかっている。そして、大田錦城は彼の著作の中で、「広隆寺は中国の長安にある景教寺院、大秦寺を参考にして作られたのではないか」との考えを述べている。彼がそう感じた背景には、仏教とは一線を画する、キリスト教の強い影響を受けた建築のスタイルや装飾が見受けられたからだろう。

動画を拝聴した率直な感想

弥勒菩薩(マイトレーヤ)信仰が仏教の根本信仰ではないので、特定の弥勒信仰者以外からは相手にされないでしょうけれど、個人的には激しい口論、いや法論(宗論)を観戦してみたいと思いました。

イエスがメシアとしての使命を果たさなかったゆえ彼は十字架の道を歩まなければならなかったのである、イエスの十字架は失敗の象徴である
なんてことをキリスト教信者は受け入れるわけがないし、
弥勒菩薩とは来るべき再臨主文鮮明先生のことなのである
なんていえば、熱心な弥勒信仰者にとっては腹立たしいことでしょう。

統一教会信者「弥勒下生56億7千万年後というのは、物理的時間でなく宗教的暗号だったんです!」
仏教徒「あ、そう」
統一教会信者「弥勒様はすでに現れているんです!」
仏教徒「どうせマイトレーヤとかメシアとかいうんだろ?」
統一教会信者「疑うなら論破してみて下さい!」
仏教徒「スピ系相手にしてないからムリムリ」

原理講論には書いていないけれども、"甘露密柑先生個人的解釈"・御教えにより、統一教会信者が『弥勒菩薩 = メシア = 文鮮明師』説を信仰している仮定としましょう。
イエス様を神と信じるのも、文鮮明師をメシアと信じるのも、自由です。
信仰のない者が常識的直感にそぐわないからといって、信仰そのもを否定することは許されません。
ただし、信じる対象が間違いだったり邪悪なもの(悪習・迷信・悪魔信仰の類)はその限りではありません。その人自身、また周りを不幸にすることはあっても幸福にすることはありえないからです。

弥勒信仰も文鮮明師信仰も、数ある信仰のひとつなのですから、一般のひとに無理して明かす必要はないでしょうし、押し付ける必要もありません。尋ねられてはじめて、自分はアボジ信仰(文鮮明師信仰)だと明かせばいいのです。文鮮明先生は再臨のメシアであり下生の弥勒菩薩である!と過剰なまでに吹聴する必要はないのです。

ところで、【弥勒菩薩(マイトレーヤ)=メシア説】は、元はミトラ教(イスラムの秘教集団)からきており、やがてブラヴァツキー(通称ブラヴァツキー夫人/ブラバッキー夫人)の近代神智学(神智学協会)に合流していきます。現在も、マイトレーヤをメシアとして信仰する "秘密結社" がたくさん存在します。もちろん、正統的仏教徒が弥勒をメシア(キリスト)と同一視することはありません。

マイトレーヤーは転生を繰り返しているので、マイトレーヤの前はメルキゼデク、メルキゼデクの前はセムというふうに、とにかくややこしいのです。
セム→転生→メルキゼデク→転生→マイトレーヤ(弥勒)
『弥勒菩薩=メシアキリスト』は神智学の専売特許です。
セム→転生→メルキゼデク→転生→マイトレーヤ(弥勒)/ハイアラーキー(白色同胞団)の親分がマイトレーヤになります。
文鮮明先生とマイトレーヤは関連性がありません。

弘法大師空海について

動画の中で甘露密柑先生がさかんに空海弘法大師のことを語っておられました。
空海最澄及び鎌倉仏教の開祖(法然親鸞一遍日蓮栄西道元)は、マイトレーヤと関係があるものの、キリスト・メシア、つまりイエス様とか文鮮明師とか、いっしょくたにするのは間違いです。
マイトレーヤは、ハイアラーキー(白色同胞団:グレート・ホワイト・ブラザーフッド)のトップ。マイトレーヤは個人名であり、キリスト・メシアは役職名のようなもの。つまり、メシアのマイトレーヤとは『マイトレーヤ社長』みたいなものです。

空海と景教

熱心に稲荷信仰を広めたという、弘法大師空海が開いた真言密教の総本山、高野山の奥之院に『大秦景教流行中国碑(’だいしんけいきょうりゅうこうちゅうごくひ)』という石碑があります。

大秦景教流行中国碑拓本

この石碑は、中国西安にある碑林博物館所蔵のものを、イギリスの宗教学者エリザベス・アンナ・ゴルドン(Gordon, Elizabeth A.)夫人が忠実に再現して、模造碑として明治44年(1911年)に建立したものです。

私はこういう話を、日本の古代史の学者として有名な方にお話ししたことがあります。ところが、「空海が景教の教えを取り込んだなんてことはありません」と否定するのですね。アカデミックな学者は、空海と景教のつながりが理解できない。
しかし、空海の伝えた仏教(密教)をよく知っている高野山のお坊さんたちは、「ええ、うちは景教から来ていますから」と、いとも簡単に認めるのです。私自身、高野山のお坊さんに聞いてみました。
「空海は中国で景教を学んだのでしょうか?」
「ええ、そうですよ。実際、今も高野山では、儀式の最初に十字を切ります。これは景教の儀式から来ています」
「明日朝五時半にいらっしゃい。ちょうど法要があるから、それに来れば見られますよ」
そう言われて翌日、参加してみました。たしかに礼拝の最初に十字を切っていました
その風習が、密教に取り入れられている。お坊さん自身が、今も法要の最初に切る十字は「景教の儀式から来ています」と言うのです。
空海はどうして、景教にふれるようになったのでしょうか。
空海は、唐の時代の中国にわたりました。けれども渡る前に、すでに日本で、古代基督教徒であった秦氏、あるいは景教の人たちと接触していたようです。
空海の出身地、讃岐(香川県)は、じつは秦氏の人々が多く住んでいるところでした。その地には景教徒も多かったでしょう。また、空海の先生であった仏教僧「勤操(ごんぞう)」(758~827年)も、もとの姓を秦といいました。
空海は彼らのパワーに驚き、基督教、景教のことをもっと勉強しようとして、彼らの紹介で当時アジアの基督教の中心地であった中国の長安に行ったのだ、と述べる人々もいます。
そのとき、のちの天台宗の開祖・最澄も一緒に、唐にわたりました。
最澄は日本に帰るとき旧約聖書を持ち帰り、一方、空海は新約聖書を持ち帰ったということです。ところがのちに、空海は最澄とケンカをしてしまいます。
つまり二人は、景教徒たちが中国で漢文に訳した聖書を、分けて持ち帰った。じつは天台宗と真言宗の違いはそこにあるのです、と。――これは高野山のお坊さんから聞いた話です。
高野山では、空海の持ち帰った新約聖書が読まれていた、と聞きます。今も某所には、空海の持ち帰った『マタイの福音書』が保管されていると。こういったことを、当時ゴードン女史が熱心に調べて、その結果、今の高野山に景教の碑が立つに至ったわけです。
一般に、九世紀に空海は唐の時代の中国にわたり、そこで仏教を学んで、それを日本に持ち帰って広めたとされています。空海が持ち帰った仏教は「密教」といって、シャカが説いた原始仏教とは似ても似つかない教えでした。ある学者は、それは”景教と混合した仏教だった”と述べています。

隠された十字架の国・日本~逆説の古代史(ケン・ジョセフJr.)

空海は中国にいる間に、景教に関してかなりの知識を吸収しました。彼が行った中国の長安には、すでに景教の教会が四つもありました。空海のいたところは、景教の教会のすぐ近くでした。
彼は景教徒の景浄という人物にも会ったと言われています。この景浄は、『大秦景教流行中国碑』の碑文を書いた景教僧です。空海は他の景教僧とも、長時間にわたって会ったことが知られています。
空海はまた日本で、死に就こうとするとき、
「悲しんではいけない。わたしは…弥勒菩薩のそばに仕えるために入定(死ぬ)するが、56億7000万年ののち、弥勒と共に再び地上に現われるであろう」(仏教では、弥勒が現われるのは、約56億7000万年の未来とされている)
と言いました。将来人々を救いに来るという「弥勒」の出現のときに、自分も復活するというこの信仰は、原始仏教にはなかった思想です。
これはまさに、
”キリストが再臨 (再来)するときにクリスチャンは復活する”
という基督教信仰、景教の信仰と同じものです。
このように空海の説いた真言密教は、じつは景教と混合した仏教だった、ということが言われます。それは一つの理解です。 しかし別の学者は、もっと大胆な仮説を言っています。じつは空海は、日本で景教徒になったのだと。
彼は日本にいたときに、秦氏や景教徒にふれて景教徒になり、「もっと景教を学ぶために」中国へ行ったのだというのです。中国へ行ったのは仏教を学ぶためではなくて、じつは景教の本場でもっと学びたかったからだった。
そして彼は中国で景教を身につけて、帰国。高野山を一種の景教の修道院のようにしていた。
けれども、後世の人々は、やがて空海を”仏教の大宗教人”として宣伝するようになります。その際、後世の人々は、空海の言葉を全部仏教的なものに変えたりはしませんでした。だいたいの基本線は元のままにして、若干、幾つかのものを仏教的な表現に変える。
やはり空海への尊敬がありますから、そういうふうにする。こうして、「空海の教え」とされるものが後世に伝わっていったのではないか、と思われるのです。
こうした仮説は、ある人は、「行きすぎではないか」と思うかもしれません。しかし、後に述べる聖徳太子のこともそうですけれども、日本の歴史を見ると、仏教でないものが仏教に変えられてきたということが、実際何度もありました。それで私は、それもあり得ると思っています。
空海の説いた密教の儀式には、十字を切るという景教の風習が見られるだけではありません。ほかにも、景教の儀式を様々に取り入れているのがわかります。
密教には「灌頂(かんじょう)」という儀式があります。空海自身、それを立派な信者になったしるしに受けました。
しかし、灌頂は真言宗以前にはなかったものです。これはじつは、基督教の洗礼式を取り入れたものと指摘されています。
空海は灌頂を受けて、「遍照金剛(へんじょうこんごう)」という灌頂名を授かりました。「遍照」とは広く照らすの意味で、これは景教徒の訳した漢語聖書『マタイの福音書』5章16節の、「あなたがたの光を人々の前で輝かせ」から取ったものでしょう。空海が、自分の師、恵果和尚(けいかわじょう)から授けられた灌頂用の金属製の器は、ペルシャのものを真似たものと言われています。そして景教で香炉が使われていたように、密教でも火舎香炉(かしゃこうろ)を用います。

隠された十字架の国・日本~逆説の古代史(ケン・ジョセフJr.)
火舎香炉

京都に、空海による真言密教の道場、東寺という寺があります。そこのある執行職の家に、十字架を使った秘密の祭があって、私の友人はそれを実際に見たことがあると言っています。それは明らかに十字架であったと。
また東寺には、「天使」を描いた古代基督教の美術様式によく似た絵があります(牛皮華鬘 ごひけまん:1086年製作)。同じような天使の絵は、岩手県の中尊寺にもあり(華鬘)、さらに中央アジアの景教遺跡にも見いだされています。

隠された十字架の国・日本~逆説の古代史(ケン・ジョセフJr.)
中尊寺金色堂の華鬘:迦陵頻伽(かりょうびんが)
中尊寺の華鬘をモチーフにした郵便切手~1962年(昭和37年)発行:迦陵頻伽 紫

真言密教ではまた、病気平癒のための加持祈禱ということを行ないます。人々の病気が治るように祈ってくれるわけです。真言密教が民衆に広まったのは、この加持祈禱ということがあったからです。仏教の他の宗派でも、加持祈禱を行ないます。
ところが原始仏教には、そういう病気を治すための加持祈禱というようなものはありませんでした。かつて中国において、景教徒たちは、人々の「病気平癒のための祈り」ということを盛んに行なっていました。仏教界が病気平癒の加持祈禱を始めたのは、それに刺激されてのことだったと、学者が述べています。

隠された十字架の国・日本~逆説の古代史(ケン・ジョセフJr.)

結論:弥勒菩薩と文鮮明師の関連性は全くない

統一原理によれば文鮮明師は、イエスの生まれかわりではなく、ほんらいのイエス様の使命(子沢山の家庭を持ち天宙の王となる)を受け継ぐ者であると主張しているわけです。
弥勒仏(マイトレーヤ)は何度も転生しています。輪廻転生を否定する統一教会が、弥勒菩薩を文鮮明師と結びつけるのは教義に反しています。

したがって、文鮮明氏とマイトレーヤとの関連性は全くありません

ナイロビに突如あらわれたマイトレーヤさん

『マイトレーヤー(弥勒菩薩)=メシア』説についてはベンジャミン・クレームさんが詳しく解説されています。大変興味深く面白いです。
2010年 ベンジャミン・クレーム来日講演会 [質疑応答]


竹内清治先生プロフィール

竹内清治(たけうちせいじ):1947年生まれ。愛媛県八幡浜市出身。九州大学に在学中、仏教に縁し、出家修道を志す。求法中に回心を体験し、その後は世界平和の統一運動に加入し、キリスト教、仏教諸派、儒教等の東西宗教の研究を重ね、講義、講演、執筆活動を日本国内だけでなく、韓国、台湾でも展開している。新東洋文化研究所所長。

著書:慈愛の先祖供養―宗教宗派を超えた最高の先祖供養

【目次】
第1部

先祖の供養とは?
先祖を大切にしてきた日本人
日本人と供養の心
仏教の伝来と先祖供養
先祖の救いを切望する日本人基督教信徒
葬送に対する価値観の変化
宗教心を失いかけてきた日本人の危機
人は霊界で永遠に生きる
来世(霊界)は実在するか
諸宗教で説く死後の世界
人間の霊魂と永遠の世界
輪廻転生の説に対する見解
正しい先祖の供養
親、先祖に報恩感謝の心を持つ
供養の根本的な意義
供養は真心を尽くすことが大事
血統の因縁と家系の法則

第2部:
最高の先祖供養
最高の先祖供養とは
待ち望んできた弥勒慈尊
弥勒降臨の時代と場所
弥勒慈尊を仰ぐ最高の先祖供養
弥勒慈尊は親の徳で平和の世界を開く
真の愛と家庭祭祀の法
神の天地創造と人間始祖の罪
人類の救済とメシヤの再臨家庭祭祀の法

オウム教義の批判と克服:光言社 (1997/5/1)


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