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どろどろの聖人伝(2023/11/13)/清涼院流水【読書ノート】


まえがき

レジェンドはキリスト教の「聖人伝」のことだった

世界最大の宗教であるキリスト教の2000年にわたる歴史を華やかに彩ってきたのが、聖人たちです。近年は「レジェンド」という言葉がそのまま日本語として用いられるようになりましたが、レジェンドの語源であるラテン語「レゲンダ」は、元は「聖人伝(=キリスト教の聖人たちの伝説)」を示す言葉でした。実際、英和辞書にも英単語レジェンド(legend)の意味として「聖人伝」が記載されています。
聖人と聞くと「清廉潔白な人」というイメージを浮かべる方は多いはずです。事実、聖人たちは大前提として清らかな人生を貫いたからこそ聖人として尊崇されているのですが、彼らの聖性が際立つのは、周囲にいた人たちのどろどろの愛憎劇に巻き込まれてしまったから、という面もあります。聖人たちは清らかだとしても、彼らの苦闘の人生を伝える聖人伝は、人間関係がどろどろしている逸話が多い、ということです。

キリスト教の聖人崇敬は極めて日本的な宗教観

キリスト教の聖人たちは、決して「願いを叶えてくれる多神教の神様」ではなく、「願いを叶えてくれる唯一神への執り成しが、かなり期待できる有力な仲介者」です。仏教で先祖の加護を求めて祈るのと同じように、キリスト教でも亡くなった方たちの加護を求めて、お祈りをします。その際も、「おじいちゃん、助けて」(おじいちゃんに助ける力があるという信仰)ではなく、「おじいちゃん、神様が助けてくださるように、天国で執り成してください」と祈るのが、キリスト教における祈りのスタイルで、聖人崇敬も、その一環です。前述の通り、教会公認の聖人たちは神様に取り次いで奇跡を起こす力が既に証明されているので、おのずと一般人の先祖より頼られる機会が多くなります。そうした聖人崇敬の頂点に位置づけられるのがイエス・キリストの母――聖母マリアです。聖母マリアは関連する聖人が多いため、本書では、さまざまなエピソードをご紹介します。

みんな大好きサンタさんは「聖人さん」という意味

サンタクロースの伝説には、彼が「元祖お金配りおじさん」としての面白い側面があります。この伝説は、4世紀のトルコに実在した聖ニコラウスに起源を持ちます。彼は、後のサンタクロースのモデルとなった人物です。

貧しい家庭への慈善活動:聖ニコラウスは、貧しい家庭にこっそり金貨を贈ることで知られていました。最も有名な話は、3人の貧しい娘たちに、結婚の持参金として金貨をプレゼントしたエピソードです。彼は暗闇に紛れて、彼女たちの家の煙突から金貨を投げ入れたと言われています。
秘密のギフトギバー:聖ニコラウスは、贈り物をする際には決して自分の名前を明かしませんでした。この習慣は、現代のサンタクロースが子供たちに名前を知られることなくプレゼントを届ける伝統へと発展しました。
サンタクロースの名前の起源:「サンタクロース」という名前は、聖ニコラウスのオランダ語名「Sinterklaas」から派生しました。オランダ移民がアメリカに持ち込んだこの名前が変化し、「Santa Claus」となったのです。
慈悲深い司教:聖ニコラウスは、リキアの司教としても知られていました。彼の慈悲深い行動は、彼が司教であった間も続き、貧困層や苦しむ人々への援助に尽力しました。
クリスマスとの結びつき:聖ニコラウスの死後、彼の記念日である12月6日が子どもたちに贈り物をする日となりました。これが後にクリスマスと結びつき、現代のサンタクロースの伝統へと発展したのです。
このように、サンタクロースの伝説は、遠い過去の実在した慈悲深い人物から始まり、時代を超えて今日に至るまで多くの人々に愛され続けています。

キリスト教の祝日として、クリスマスと並んで日本人のあいだでも広く知られているのはバレンタインデーでしょう。この祝日の元になったヴァレンタイン(ウァレンティヌスとも表記されます)というイタリア人司祭はふたりいて、どちらも3世紀のローマ帝国によるキリスト教弾圧で2月14日に殉教しました。同名の司祭が同日に殉教したというのはできすぎた偶然なので、ひとりの逸話がふたりの話に誤認されたと考えられています。
ヴァレンタインには特筆すべき逸話はなく、当時のクリスチャンの典型例で、ローマ帝国によるキリスト教弾圧下でも信仰を貫いたために処刑されました。
ヴァレンタインが人気になったのは、毎年2月14日頃から鳥たちがつがいをつくり始めるという伝説が中世にあり、たまたま2月14日に殉教したヴァレンタインが「愛の守護聖人」と見なされるようになったからです。やがて、聖ヴァレンタインの日(セイント・ヴァレンタインズ・デイ)に恋人たちがカードや贈り物を交わす習慣が1世紀のアメリカで自然発生的に生まれ、これを利用した製菓業界の戦略により、20世紀後半の日本では「女性が好きな男性にチョコレートを贈る日」という、聖ヴァレンタインとはなんの関係もないブームが一時的に流行しました。ですが、次第にチョコの強要がハラスメントと見なされるようになり、現在ではすっかり下火になっています。
なお、20世紀後半のカトリック教会の改革で、実在が疑問視される聖人の祝日は取り消され、聖ヴァレンタインも祝日が取り消されてしまった聖人のひとりです。その意味でも、バレンタインデーは、聖人とはなんの関係もない一時の狂騒でした。

史実ではないエピソードも実話以上の影響がある

歴史的事実と関係なく伝説だけひとり歩きするケースが多いのが、聖人伝の特徴。例:聖徳太子/シャーロック・ホームズ
都市伝説・神話のようなもの……

第1章:救世主イエスの処刑以前の聖人たち

危うく石打ちの刑で殺されるところだった聖母

救世主イエス・キリストの母マリアが、男性を知らず処女のまま神様の不思議な力でイエスを身ごもったというエピソードは、ノン・クリスチャンにも広く知られています。キリスト教への信仰心のない方が「そんなバカげた話があるわけない。だれかと婚前交渉しただけだろう」という印象を持たれるのは当然ですが、現代日本人と当時の人々の感覚には大きな隔たりがあります。イエスの母マリアは、天地を創造した唯一神を信じるユダヤ人(ユダヤ教徒)でした。現代でも、結婚前の女性が男性と密通したことがわかると処刑される国は実際にありますが、当時のユダヤ教社会も同じでした。ユダヤ教には「律法」と呼ばれる厳しい戒律があり、婚前交渉の罪を犯した女性は、群衆たちから死ぬまで石を投げつけられる「石打ちの刑」で残酷に処刑されることになっていたのです。気軽に婚前交渉できる社会ではなかった、という大前提がまずあります。
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大虐殺を招いた人騒がせな三賢者も聖人に

東方の三博士・東方の三賢者・三博士……と呼ばれる人たち。
キリスト教の伝承に登場する聖人です。彼らは「マギ」とも呼ばれ、新約聖書のマタイによる福音書にその訪問が記されています。彼らは、星の出現を見て、遠い東方から新しい「ユダヤ人の王」とされるイエス・キリストの誕生を祝うためにやってきたとされています。
伝承では、彼らの名前はカスパー、メルキオール、バルタザールとされており、それぞれ金、乳香、没薬という贈り物を幼子イエスに捧げたとされます。三博士の物語は、キリスト教の中で重要なエピソードの一つとされており、キリスト教の美術や音楽、文学においても頻繁に取り上げられています。たとえば、西洋美術においては、三博士の訪問は多くの巨匠によって描かれてきました。三博士の日は、キリスト教の暦では主に1月6日の公現祭(エピファニー)として祝われ、イエス・キリストが全ての人々にとっての救い主であることが啓示された日とされています。この日は東方から来た博士たちがイエスに会い、彼を礼拝したことを記念しています。
しかし、この三博士、実在も人数も定かでない。さらにそれらしいキャラ設定も加わり伝説の中で人々に愛されるという、初期の聖人伝のパターンがここに見られる。

なんの非もなく虐殺された最年少の聖人たち

聖なる無垢なる殉教者たち:幼子殉教者(Holy Innocents/ホーリー・イノセンツ)とは、キリスト教の伝承における聖人たちで、新約聖書のマタイによる福音書に記されている「ヘロデ大王による幼児虐殺」の犠牲者たちを指します。この出来事は、イエス・キリストの誕生時にヘロデ大王が、自分に取って代わる新たな「ユダヤ人の王」の誕生を恐れ、ベツレヘムとその周辺地域の2歳以下の男児を殺害したというものです。
マタイ福音書によれば、東方の三博士がヘロデ大王の元を訪れ、新たな王の誕生の知らせを伝えた際、大王は王位を脅かす存在を排除するためにこの残忍な命令を下しました。しかし、イエスとその家族は神の警告を受けてエジプトへ逃れたため、この虐殺から逃れることができました。幼子殉教者たちは、無垢であるにもかかわらず、キリストのために命を落とした最初の殉教者として敬われています。彼らの記念日は、キリスト教の伝統によって様々ですが、西方教会では通常、公現祭の後の日にあたる12月28日に記念されます。東方教会では、公現祭の前の日、つまり1月6日の公現祭の前夜に記念されることが一般的です。

狂王の大虐殺から幼児を守って消された祭司

祭司ザカリア・妻エリサベト・息子洗礼者ヨハネ
ザカリアは、新約聖書のルカによる福音書に記されている、祭司の階級に属していたユダヤの祭司です。彼はエリサベトと結婚していましたが、夫婦には長い間子どもがいませんでした。ザカリアがエルサレムの神殿で奉仕していたとき、天使ガブリエルが現れて、高齢にもかかわらず彼らに息子が授かることを告げました。ザカリアは疑いを持ったため、息子が生まれるまで言葉を失うという罰を受けました。息子が生まれたとき、ザカリアは「ヨハネ」と名付けるよう命じられ、その命令に従ったときに再び言葉を取り戻しました。彼の祈りは「ザカリアの賛歌(ベネディクトゥス)」として福音書に記録されています。
エリサベトはザカリアの妻で、新約聖書によればアロンの子孫であるとされます。彼女は長い不妊の後、天使の告知により息子を授かることになります。エリサベトはマリア(イエスの母)の親戚であり、マリアが受胎告知を受けた後にエリサベトを訪れたとき、未だ生まれていないヨハネが母親の胎内で跳ねたと記されています。これは、彼がキリストの到来を予感していたとされ、この出来事は「訪問」(または「マリア訪問」)として知られています。
洗礼者ヨハネは、エリサベトとザカリアの息子であり、イエス・キリストの先駆者とされる人物です。彼は荒野で布教活動を行い、人々に悔い改めとバプテスマ(洗礼)を受けることを説きました。ヨハネはイエスにもバプテスマを授けましたが、ヘロデ・アンティパス王の命で処刑されました。彼の生涯と犠牲は、キリスト教における改心と信仰の象徴とされています。


これらの聖人たちは、キリスト教の伝統の中で特別な場所を占めており、彼らの信仰と行動は多くのキリスト教徒によって尊敬されています。エリサベトとヨハネの祝日は、キリスト教の暦でそれぞれ異なる日に祝われますが、ザカリアには特定の日が設けられていない場合もあります。

『ヤコブの原福音書』によるザカリヤの悲劇

『ヤコブの原福音書』は新約聖書の外典の一つであり、その中には祭司ザカリヤの悲劇についての記述が含まれています。この文献は正典には含まれず、キリスト教の主流の伝統では通常は用いられませんが、初期キリスト教のさまざまな伝承を伝える文献として重要です。
『ヤコブの原福音書』によれば、ザカリヤは神殿で特別な祭司の務めを果たしていた際に、何者かに殺害されたとされています。彼の死は、息子のヨハネが荒野でイスラエルの人々に悔い改めを説く預言者として立つようになった後に起こりました。この書物では、ザカリヤが息子ヨハネの隠れ場所を明かすことを拒否したために殺害されたと述べられています。ヨハネはヘロデの兵士たちから逃れるために隠れており、ザカリヤは息子の居場所を守るために最終的な犠牲を払ったとされています。
この話は、ヨハネがイエス・キリストの到来を準備する役割を担っていたという初期キリスト教の伝承と結びついています。ザカリヤの悲劇は、信仰のために命を捧げるというテーマ、そして息子ヨハネの重要な使命に関連していると考えられます。ただし、この話は伝統的な聖書の文脈とは異なるため、一部のキリスト教徒にはあまり知られていないかもしれません。

偉大な預言者を謀殺した親子の悲惨な最期

カトリック教会の聖人たちは通常、帰天した日が「天国で聖人として生まれた日」として記念日になりますが、誕生日が記念日になっている聖人がふたりだけいて、それは聖母マリア(9月8日)と洗礼者ヨハネ(6月24日)です。このふたりは例外的に、胎内にいた時から清かったと考えられているため、誕生日が記念日となっています。
イエス・キリストの生誕を祝うクリスマスが12月25日になったのは古代宗教の影響であり、それを理由にキリスト教を批判する人は大昔から存在しましたが、12月25日は「イエス・キリストの生誕を祝う日」として後世に会議で決められた日なので、本当にその日に生まれたかどうかは重要ではありません

死後の世界に絶望し笑えなくなった奇跡の男

ラザロ:逃げ延びた先で初代司教となる。
ラザロ徴候(英語: Lazarus sign)は、脳死と診断された患者が手や足を自発的に動かす現象です。この現象は1984年にA・H・ロッパーによって神経学の専門誌『Neurology』で報告され、新約聖書の人物ラザロにちなんで命名されました。ラザロはイエスによって蘇生されたとされる人物です。ラザロ徴候は、ラザロ症候群(Lazarus syndrome)とは異なる現象であるため、混同しないよう注意が必要です。この現象の原因について、ロッパーは低酸素状態による脊髄反射(脊椎自動反射)と説明しています。現代医学ではこの説が一般的に受け入れられていますが、反対意見も存在し、延髄が関与している可能性を示唆する見解もあります。

実在しない女性が悪の総督を獄死させた話

ティベリウスとヴェロニカのエピソード
伝承によると、ベロニカはイエスの顔が奇跡的に現れた布(ヴェール)を持ってローマに行き、ティベリウス皇帝にその布を見せたとされています。ティベリウスの病気: 皇帝ティベリウスが重い病に苦しんでいたとき、ベロニカが彼にイエスの顔が映った布を見せた。
奇跡の癒し: ヴェールを見たティベリウスが奇跡的に病から回復した、またはヴェールに触れたことで癒されたという話が伝えられています。
信仰の広がり: この奇跡を通じて、ティベリウス(またはその周囲の人々)がキリスト教に興味を持った、あるいはキリスト教に対する迫害が和らいだという結末が語られることもあります。この物語は、歴史的な証拠に基づくものではなく、キリスト教の伝承や芸術作品によって広まったものです。ティベリウスの治世(紀元14年から37年)は、キリスト教がまだ初期の段階にあった時期であり、このような出来事が実際に起こったかどうかは不明です。

処刑されている最中に聖人となった男の大仕事

ニコデモの福音書」は、新約聖書の正典には含まれない、いわゆる「外典」または「偽典」とされる文書の一つです。この文書は、伝統的には初期キリスト教の時代に書かれたとされていますが、その正確な成立時期や著者については不明です。ニコデモの福音書は、イエス・キリストの受難、死、そして地獄への降下に関する詳細な記述を含んでいます。
この文書の中で、ディスマスとゲスマスの話は、イエス・キリストが処刑された際に一緒に十字架につけられた二人の盗賊に関するものです。新約聖書の正典にも、イエスと共に処刑された二人の犯罪者についての言及はありますが、彼らの名前は記されていません。ニコデモの福音書では、これらの人物に「ディスマス」と「ゲスマス」という名前が与えられています。

ディスマスとゲスマスの物語
ニコデモの福音書によると、ディスマスとゲスマスは、イエスと同じ日に十字架にかけられた二人の盗賊です。彼らの物語は、キリスト教の教えにおいて重要な意味を持ついくつかの要素を含んでいます。
ゲスマスの嘲笑: ゲスマスは、イエスを嘲笑し、イエスが本当にメシアであるなら自分たちを救ってみせろと挑発します。
ディスマスの擁護: 一方でディスマスは、彼らが受けている罰は自分たちの行いの結果であるが、イエスには罪がないと述べ、イエスに対して慈悲を求めます。
イエスの約束: イエスはディスマスに対して、その日のうちに彼と共に楽園にいることを約束します。これは、罪の赦しと救済のメッセージを象徴しています。
文化的・宗教的意義
ディスマスとゲスマスの物語は、キリスト教の教えにおける赦しと救済のテーマを象徴しています。ディスマスはしばしば「善き盗賊」として言及され、彼の最後の瞬間での信仰と悔い改めは、どんな状況でも神の慈悲が与えられることの例として挙げられます。
しかし、ニコデモの福音書は正典には含まれていないため、この文書の記述は教義的な権威を持つものではなく、歴史的な事実として受け入れられているわけではありません。それにもかかわらず、この物語はキリスト教の伝統や芸術作品において影響力を持ち続けています。

救世主を貫いて回心したという兵士の伝説/ロンギヌス

新約聖書によると、処刑当日―――西暦30年4月7日金曜日の午後3時にイエスが十字架上で息絶えると、神殿の巨大な垂れ幕がまっぷたつに裂け、大地を地震が揺さぶり、人々は恐れ、逃げ惑ったそうです。そんな中、ローマ帝国の百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と発言したことも新約聖書には記されています。後年、この百人隊長は、死を確認するためにイエスの脇腹を槍で刺した兵士と同一視されるようになり、外典「ニコデモの福音書」ではロンギヌスという名で記されています。ロンギヌスの名前も先述のヴェロニカのケースと似ていて、「槍」という意味のギリシア語「ロンシユ」が、ラテン語に翻訳される時に人名と誤解されたようです。
のちに確立された伝説によると、ロンギヌスは元々は目の病気を抱えていたが、イエスの脇腹を刺した際に飛び散った血が入って目が完治。その奇跡体験以後、復活したイエスを信仰するようになり、カイサリアの町で2年間、熱心に布教活動を続けました。
キリスト教が激しく弾圧される中でロンギヌスは捕らえられ、すべての歯を抜かれ、舌を切られてもなお説教を続け、最後には首を斬り落とされて殉教したとのことです。
そうしたロンギヌスの伝説がひとり歩きし、十字架上のイエスを刺した槍は、願いを叶える聖なる力が宿った「聖槍」と見なされるようになります。11世紀、イスラム教から聖地エルサレムをキリスト教が奪還するために第1回十字軍が進軍した際、難所アンティオキアの攻城戦が苦戦していた中、ひとりの兵士がロンギヌスの槍を地中から見つけた熱狂で奇跡の勝利をおさめた、というできごともありました(ただし、この時の槍は戦闘後に偽物であったと聖職者が判断し、発見した兵士は焼き殺されています)。
イエス・キリストを刺した聖槍は1本しか存在しないはずなのですが、これまでに何本もの聖槍が発見されており、そのうちの1本は、カトリック教会の総本山である、ヴアチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂に安置されています。

聖杯伝説を生んだ勇気ある男の行動/アリマタヤのヨセフ

十字架に磔にされて死んだ罪びとたちの遺体は、十字架から降ろされたあと、見せしめの意味もあり、そのまま近くの地面に捨て置いて鳥や獣に食べさせ、朽ちさせるのが当時の風習でした。ところが、当時のユダヤ教社会で身分の高い地位にあったアリマタヤのヨセフと呼ばれる人物が、総督ポンティオ・ピラトに願い出て、イエスの遺体を埋葬する許可を得ました。アリマタヤのヨセフはイエスの弟子だったのですが、自分の立場もあり、そのことは秘密にしていました。ですから、イエスの埋葬を願い出た際も、「わたしは彼の弟子だから」とは言わず、「彼の立派な最後に感銘を受けたので」などと適当な理由をつけた可能性もありますし、賄賂を渡して便宜をはかってもらったことも考えられます(そこまでくわしい話は、新約聖書には書かれていませんが)。
アリマタヤのヨセフが所有していた、岩をくり抜いてつくられた新しい墓に、イエスの弟子たちが師の遺体を亜麻布に包んで埋葬しました。そして、墓の入口は大きな岩で塞がれます。イエスは生前、死の2日後に復活することを預言していたので、弟子たちが遺体を盗み出さないように、ローマ帝国の兵士たちが墓の前を警護しました。
イエスの死の2日後西暦30年4月9日日曜日、イエスの女性弟子の筆頭格だったマグダラのマリアが師の墓を訪れると、兵士たちは眠りこけていました。また、巨大な岩は動かされていて、イエスの遺体は墓の中から消えていました。
以後の40日間、イエスは500人の弟子たちの前に、空間を飛び越えられる「栄光の体」で何度も姿を現し、最後は昇天して消えました。そのさらに10日後―西暦30年5月28日日曜日に、イエスが天から送った不思議な力聖霊を注がれた弟子たちが覚醒した「聖霊降臨」によって、キリスト教会の歴史が始まった、とされます。
外典「ニコデモの福音書」によれば、その後、アリマタヤのヨセフが宗教的に異端とされ処刑されたイエスの遺体を埋葬したことに激怒したユダヤ教の指導者たちは、ヨセフを投獄しました。しかし、ヨセフは閉じ込められた独房から忽然と姿を消します。後日、故郷アリマタヤに戻っていることが確認されたヨセフは、「イエス様がわたしを牢から助け出してくださったのです」と手紙に記しました。
仮にアリマタヤのヨセフが申し出ていなくても、イエスの遺体が弟子たちに埋葬されていた可能性はありますが、敵対者たちに盗まれていたことも考えられます。アリマタヤのヨセフが自分の高い地位を利用してイエスを丁重に埋葬し、その後の復活の準備を整えた功績は大きいです。そのため、初期キリスト教文書にはアリマタヤのヨセフに言及するものが多くあり、12世紀になると、アーサー王の伝説と結びついて、「アリマタヤのヨセフが聖杯の最初の保持者だった」という説が唱えられるようになりました。
新約聖書には記されていませんが、伝承によると、アリマタヤのヨセフはロンギヌスがイエスの遺体を槍で刺した時に飛び散った血を杯で受け、それはあらゆる願いを叶える「聖杯」になった、とされます(「聖杯伝説」)。アリマタヤのヨセフによって聖杯はイギリスにもたらされ、彼が創設したイギリス初のキリスト教会が、のちに最盛期に英国最大規模を誇ったグラストンベリー修道院になった、とも語り継がれています。

解釈の違い: アリマタヤのヨセフに関する解釈には幅があり、彼が直接天から降りて来てミサを行ったという解釈も存在するが、これは伝説とされています。
山安由美氏の論文: 山安由美さんの論文では、聖杯物語と当時の歴史を軸に、アリマタヤのヨセフの捉えられ方とその変遷について考察されています。
経済的背景: アリマタヤのヨセフは議員であり、鉱山を所有するなどの背景からユダヤ人の大富豪であったとされ、子供たちの面倒を見ることが可能だったと記されています。
イエスとピラトとの関係: 彼はイエスとピラトの両方の友人であり、イエスの体をピラトから受け取る役割を果たしています。
中世文学における影響: アリマタヤのヨセフは「黄金伝説」や「聖母マリア被昇天」の章に登場し、ダヴィデ王の子孫というイメージが形成されています。また、ペルスヴァル、ガラアドなど、彼の子孫とされる中世文学の登場人物にとって重要な存在でした。
聖書外典における役割: アリマタヤのヨセフは『ペテロの福音書』などの聖書外典にも登場し、イエスとピラトの友人として設定されています。
後の伝説と文学作品: アリマタヤのヨセフはアーサー王の祖先としても言及され、マロリーによる「アーサー王の死」など15世紀後半からの文学作品にも影響を与えています。
公認と影響の拡大: 1516年には、グラストンベリー寺院とアリマタヤのヨセフが国家により公認されるなど、彼の影響は広範に及んでいます。
聖母マリアの夫との類似: アリマタヤのヨセフは聖母マリアの夫である聖ヨセフと類似していくとされ、文学作品においてそのイメージが重なっています。

第2章:聖人となった救世主イエスの弟子たち

十二使徒はイエス・キリストの直接の弟子であり、キリスト教の教えを広めるために活動した重要な人物群です。彼らはイエスから特別な力を授けられ、悪霊を払う能力を持っていたとされています。また、イエスの復活の証人であることが十二使徒であるための条件でした。十二使徒の名前とエピソードは以下の通りです:

  1. ペトロ(シモン):イエス・キリストの最も信頼された弟子で、キリスト教の初期教会のリーダーとして活躍しました。彼は聖霊降臨後、大胆にイエスの復活を宣言し、多くの人々を改宗させました。後にローマで殉教したと伝えられています。

  2. ゼベダイの子ヤコブ:ペトロと共に「雷の子」と呼ばれたほどの情熱的な使徒で、イエスの密接な信者の一人でした。彼はエルサレムで処刑され、初期のキリスト教殉教者の一人とされています。

  3. ヨハネ:イエスにとても愛された弟子で、「愛する弟子」として知られています。新約聖書のヨハネの福音書、三つの手紙、黙示録の著者とされています。彼は長命を全うし、平和的に死去したと伝えられています。

  4. アンデレ:最初の弟子の一人であり、彼自身が弟であるペトロをイエスに紹介したことで知られています。伝道の旅の中で殉教したとされています。

  5. フィリポ:彼の伝道活動は主にギリシャ語を話す地域で行われ、異教徒へのキリスト教の広がりに重要な役割を果たしました。彼の死に関しては複数の伝説があります。

  6. バルトロマイ(ナタナエル):彼はイエスに対して最初懐疑的でしたが、後に熱心な信者となりました。彼の伝道はアジアやアルメニアにまで及んだと言われています。

  7. マタイ:税関員から使徒になった彼は、マタイによる福音書の著者として知られています。その後、彼は多くの地域で伝道し、エチオピアやペルシアで殉教したと伝えられています。

  8. トマス:「不信のトマス」として知られ、イエスの復活を疑い、自ら証拠を求めたことで有名です。伝承によると、彼はインドまで伝道に行き、そこで殉教したとされています。

  9. アルファイの子ヤコブ:彼に関する情報は限られていますが、教会の教えに忠実な使徒であったとされています。

  10. タダイ:伝承が混同しているため、彼の人生については不明な点が多いですが、彼もまた使徒としてイエスの教えを広めるために働きました。

  11. シモン:「熱心党」の一員とされ、イエスの教えを広めるために活動しました。彼の伝道活動の詳細は不明です。

  12. ユダ・イスカリオテ:イエスを裏切り、その後悔によって自ら命を絶ったとされています。彼の行動は、キリスト教伝承において重要な役割を果たし、裏切りの象徴とされています。

死後に伝説がひとり歩きした使徒最初の殉教者

ヤコブの英語名はジェームズ(あるいはジェイコブ)、スペイン語ではティアゴ。大ヤコブの遺体が発見された場所は「聖ヤコブの道」(サンティアゴ・デ・コンポステーラ)エルサレム・ヴァチカンと並ぶカトリック三大聖地のひとつ。

十字架そのものに恋してしまった救世主最初の弟子

一番最初の弟子はペトロの兄弟アンデレ。
Xの形をした十字架:アンデレ十字架。

妻の殉教を喜びマニアックな磔刑を望んだカリスマ

ペトロ(岩を意味する・本名シモン)
イエス様から『この岩の上に教会を建てあなたに天国の鍵を与える』とまで言われたが、三度の否認。
逆さ十字/サン・ピエトロ大聖堂

信仰を貫いた末に異端者から祭り上げられた双子

デドモ(双子)と呼ばれるトマス:インド周辺の布教に成功しトマの名で呼ばれ地域で熱烈に崇敬されるようになる。ローカルな発展を遂げた特殊な「トマス信仰」は、キリスト教の本流から外れた異端とされる。
「トマス信仰」とは、キリスト教の一部で見られる概念で、新約聖書における使徒トマスの疑い深い態度に由来する。特にイエス・キリストの復活に対するトマスの疑いを指し、彼が自らイエスの傷跡を見て触れるまで信じなかったエピソードに基づく。そのため、「トマス信仰」という表現は、証拠を求める慎重な態度や、疑いを持ちながらも最終的に信仰に至るプロセスを指すことがある。この概念は、信仰における疑問や懐疑主義の重要性を示唆しており、信仰が盲目的である必要はなく、疑いを通じてより深い理解や確信に至ることができるという考え方を示している。
トマスの福音書」には、異端の神秘主義グノーシス派の特徴が見られる。
『トマスの福音書』は、新約聖書には含まれていない初期キリスト教の文書の一つ。この福音書は、使徒トマスに帰されるもので、紀元1世紀から2世紀に成立したと考えられていますが、正確な成立年代は未だに確定していません。特徴的な点として、イエス・キリストの言行録を中心に構成されており、伝統的な福音書のような物語性やイエスの生涯の物語は含まれていません。イエスの教えや格言、寓話などを集めたもので、114の短い章から成り立っています。1945年にエジプトのナグ・ハマディで発見された一連の文書(ナグ・ハマディ文書)の中に含まれており、この発見によって広く知られるようになりました。この文書は、初期キリスト教における多様な神学的思想や信仰の形態を理解する上で重要な資料とされています。しかし、正統派キリスト教の正典(聖書)には含まれておらず、一部の学者からは異端的な内容を含むと見なされています。また、この福音書がキリスト教の主流派に与えた影響や、歴史的な背景については、現在も研究が続けられています。

布教先の各地で続々と壮絶に殉教する使徒たち

十二使徒のひとり『バルトロマイ』はヨハネの福音書で『ナタニエル』として登場。バル=~の子、トロマイ(タルマイ)という意味のニックネーム。
天正遣欧少年使節をローマに派遣した戦国武将・大村純忠の洗礼名『バルトロメウ』は使徒バルトロマイに由来する。

影が薄い使徒たちは伝承の中で殉教

イエスを裏切った後に自殺したイスカリオテのユダの代わりにくじ引きで選ばれたマティアは、くじ引き以外のエピソードはない。
影の薄い小ヤコブ。使徒フィリポより初代教会の福音宣教者フィリポのほうが記述が多い。マタイは祭壇の前で刺殺される。

キリスト教を世界宗教に発展させた功労者の受難

サウロ⇒パウロ
自ら『使徒パウロ』と名乗っているが、自称使徒。古参の12使徒たちとは人間関係の軋轢があった。
「12使徒は宣教に専念できる恵まれた立場にあるが、わたしはテントづくりをして自分の活動費をまかなわねばならない」と愚痴を書いている。


新約聖書には27の文書が含まれており、そのうち使徒パウロが著したとされる13の文書は以下の通り

  1. ローマ人への手紙 - キリスト教の基本的な教義を説明しています。

  2. コリント人への第一の手紙 - コリントの教会の問題に対処しています。

  3. コリント人への第二の手紙 - パウロの宣教活動とキリスト教の奉仕について語っています。

  4. ガラテヤ人への手紙 - 異なる教えに惑わされないように警告しています。

  5. エフェソ人への手紙 - キリスト教徒の行動規範と教会の性質について述べています。

  6. フィリピ人への手紙 - キリスト教徒としての喜びと謙虚さについて教えています。

  7. コロサイ人への手紙 - キリストの至高性とキリスト教徒の生活について説いています。

  8. テサロニケ人への第一の手紙 - キリストの再臨と信仰生活について励ましています。

  9. テサロニケ人への第二の手紙 - 迫害に直面する信仰を強化する内容です。

  10. テモテへの第一の手紙 - 教会の指導者としての役割と責任について指導しています。

  11. テモテへの第二の手紙 - 個人的な励ましと宣教活動の継続を促しています。

  12. テトスへの手紙 - 教会の組織化と健全な教えの重要性について説いています。

  13. フィレモンへの手紙 - 隷属のオネシモスとその主人フィレモンの間の和解を求める個人的な手紙です。

これらの手紙は、初期キリスト教会の信仰と実践に大きな影響を与え、キリスト教神学の形成において重要な役割を果たしました。


新約聖書の残りの14の文書で、使徒パウロが書いたものではないものは以下の通りです:

  1. マタイによる福音書 - イエス・キリストの生涯と教えについて記述しています。

  2. マルコによる福音書 - イエスの公生活と伝道を描いています。

  3. ルカによる福音書 - イエスの生涯、特に彼の慈悲と救済に焦点を当てています。

  4. ヨハネによる福音書 - イエスの神性と彼の教えの深い意味を探求しています。

  5. 使徒言行録 - 初期キリスト教会の成立と初期宣教活動を記述しています。

  6. ヤコブの手紙 - 実践的なキリスト教の生活と信仰について語っています。

  7. ペテロの第一の手紙 - キリスト教徒としての苦難と忍耐について励ましています。

  8. ペテロの第二の手紙 - 異端の警告とキリストの再臨について説いています。

  9. ヨハネの第一の手紙 - キリスト教徒としての愛と信仰の真実性について強調しています。

  10. ヨハネの第二の手紙 - 真理と愛に関する短い手紙です。

  11. ヨハネの第三の手紙 - 個人的な事柄についての短い手紙です。

  12. ユダの手紙 - 不道徳と偽教師への警告を提供しています。

  13. ヨハネの黙示録 - キリストの再臨と最終的な勝利を予言する啓示文学です。

未熟だった後継者たちも成長した末に殉教

ペテロから聞いたイエスの逸話をまとめてものが『マルコによる福音書』
イエスが逮捕されたとき、全裸で逃げた男のことが書かれている。
本人でなければ書けないエピソードだから、この男はマルコ本人だと言われている。

そして、若者が、体に亜麻布をまとい、イエスに従っていたが、人々に捕らえられそうになると、亜麻布を捨てて裸で逃げ去った。
[マルコによる福音書 14章51-52節]

マルコ金持ちの坊っちゃん、最後の晩餐はマルコの家の高間と呼ばれる2階。イエスの昇天の10日後に弟子たちに注がれた精霊降臨の舞台でもある。
ルカ:『ルカによる福音書』『使徒言行録』の作者
テモテとテトス:パウロを手助けした功績から聖人認定

多くの伝説を生み出した女性弟子の筆頭格

マグダラのマリア(マリア・マグダレナ)

マグダラのマリアによる福音書

結婚式の最中に別れさせられた弟子が最長老に

使徒ヨハネはマグダラのマリアの婚約者であった説

第3章:大殉教時代に伝説となった聖人たち

猛獣に喰い殺されると決まって大喜びした司教

イグナティオス(イグナチオ)⇒イエスが「……この子のように自分を低くする者が天国で一番偉い」といった子ども。
「私は猛獣に噛み殺されて殉教したいのだ」

7人の息子を順番に殺され自分も殉教した聖女

  1. フェリキタス(ペルペトゥアとフェリシティ)

    • ペルペトゥアとフェリキタスは3世紀のキリスト教の殉教者です。フェリキタスはペルペトゥアと共に投獄され、妊娠中だった彼女はペルペトゥアと共にカルタゴで処刑されました。

    • ペルペトゥアの記録によると、彼女たちは皇帝セプティミウス・セウェルスの誕生日を祝う軍事競技会で処刑されました。ペルペトゥアの第一人称の物語は、彼女の死後に「ペルペトゥアとフェリシティの受難」の一部として出版されました。

    • ペルペトゥアとフェリシティは、ローマのミサのカノンで名前を挙げられている殉教者の中に含まれています。

  2. フェリキタス(ローマのフェリキタス)

    • ローマのフェリキタス(紀元101年 – 165年)もまたキリスト教の殉教者であり、聖人とされています。彼女は7人の殉教者である息子たちの母として伝説に描かれています。

    • フェリキタスは裕福で敬虔なキリスト教の寡婦で、慈善活動に身を捧げ、多くの人々をキリスト教に改宗させました。彼女と彼女の子供たちに対する非難が、皇帝マルクス・アウレリウスに達し、彼女たちは殉教しました。

ローマのフェリキタス(またはフェリシティ)

  • 生涯の概要:フェリキタスは紀元101年から165年にかけて生きたとされ、キリスト教の殉教者であり聖人です。彼女について確実に知られていることは少なく、ローマのマクシムス墓地に埋葬されたことが記録されています。

  • 伝説としてのフェリキタス:フェリキタスは、7人の殉教者である息子たちの母としての伝説があります。彼女は裕福で敬虔なキリスト教徒の寡婦であり、慈善活動を行い、多くの人々をキリスト教に改宗させることで、多くの人々に影響を与えました。これが異教の祭司たちの怒りを買い、彼女と彼女の子供たちに対する非難が皇帝マルクス・アウレリウスにまで達しました。

  • 息子たちとの殉教:異教の祭司たちが皇帝に彼女たちへの対応を迫り、フェリキタスと彼女の息子たちは逮捕され、殉教しました。彼女は自分が息子たちより先に殺されることを望まず、彼らがキリストへの信仰を否定しないように励まし続けました。息子たちが一人ずつ処刑された後、フェリキタスも殉教しました。息子たちは様々な方法で殺されましたが、具体的な方法については完全には確かではありません。

  • 記念日:フェリキタスと彼女の息子たちの殉教は、西方教会では7月10日、東方正教会では1月25日に記念されています。

新婚初夜に天使を口実にして夫を拒んだ花嫁

セシリア(チェチリア)

斬り落とされた自分の首を持って歩いた聖人

デオニュシウス:斬首された丘⇒殉教者の山=モンマルトル
サン・ドニ=聖ドニ/英語名デニス

ふたりの聖女が時を超えて共鳴しつつ殉教

キリストの聖女アガタ⇒アガサ・クリスティ(Agatha Christie)

聖人アガタ(Saint Agatha)は、キリスト教の聖人の一人で、カトリック教会、東方正教会、聖公会、ルーテル教会によって尊敬されています。彼女は紀元3世紀にシチリア島のカターニアで生まれ、殉教したとされています。アガタは特に乳がんの患者、鋳造工、鐘の鋳造者、そしてシチリア島の守護聖人として知られています。
殉教: アガタは、ローマ帝国のキリスト教迫害時代に生きていました。彼女は信仰を守るために拷問を受け、最終的に殉教したとされています。
信仰の象徴: 彼女は純潔と信仰の堅固さの象徴として尊敬され、多くのキリスト教徒にとって信仰の範とされています。
祝日: アガタの祝日は2月5日です。特にシチリア島のカターニアでは、大規模な祭りが行われます。
芸術における描写: アガタは芸術作品で頻繁に描かれ、しばしば乳房の切断という殉教時の拷問を象徴するアイテムを持って表現されます。

聖ルシア(Saint Lucia)

キリスト教の聖人で、特にカトリック教会、東方正教会、ルーテル教会、聖公会で尊敬されています。西暦283年頃にシチリア島シラクサで生まれ、304年頃に殉教したとされています。聖ルシアは光と視力の守護聖人として知られ、特に失明や眼病の患者の守護聖人とされています。
生涯: 若い時期にキリスト教への深い信仰を持ち、貞節を誓いました。彼女の母親が病気になった際、ルシアは聖アグネスの祈りを通じて母親の治癒を神に請い、その願いが叶ったとされています。
殉教: 彼女の信仰が原因で、ローマ帝国の迫害を受け、若くして殉教しました。彼女の死については複数の伝説がありますが、最も有名なものは、彼女が自らの目を抉り出し、それでもなお信仰を守り続けたというものです。
祝日: 聖ルシアの祝日は12月13日で、スウェーデンや他の北欧諸国で特に広く祝われています。スウェーデンでは「ルシア祭」として知られ、光と希望の象徴として冬至の暗闇を祝います。
文化的影響: ルシア祭では、白いドレスを着た女性がキャンドルを持ち、ルシアの冠をかぶってパレードする伝統があります。これは、聖ルシアが光の象徴とされていることに由来しています。
象徴: 聖ルシアは、しばしばキャンドルやランタン、目を象徴するアイテムと共に描かれます。これは彼女の視力に関する伝説と、光の守護聖人としての役割を表しています。

サンタ・ルチア(Santa Lucia)

火あぶりされている最中にも余裕を見せた聖人

ローマのラウレンティウス
聖ラウレンチオ助祭殉教者、St. Laurentius M.、イタリア語:San Lorenzo martire、225年-258年8月10日(英語名:ローレンス/Lawrence,Laurence)
キリスト教の聖人である。258年にローマで殉教した7人の殉教者のうちの1人である。カトリック教会、正教会、聖公会、ルーテル教会で崇敬されている。ラウレンティウスとは「月桂冠を戴いた」という意味である。
スペインのウエスカの小さな町で、信仰深い家庭に生まれ育った。その時代、ウァレリアヌス帝の治世下でキリスト教は禁じられていたが、ラウレンティウスの家族は密かにその教えを守っていた。少年時代から神への深い信仰を抱いていた彼は、成長するにつれて学問にも熱心に打ち込んだ。やがて、その才能と献身が認められ、ローマの七助祭の中で最も重要な地位にまで昇り詰めた。
ローマでは、シクストゥス2世が教皇として君臨していたが、ラウレンティウスはその執事として教会の財産管理と、貧しい人々への慈善活動を担っていた。しかし、258年の暗雲が集まる中、皇帝の命により教皇とラウレンティウスを除くすべての執事が逮捕される事態に。教皇はラウレンティウスに、教会の財産を速やかに貧しい人々に分配するよう命じ、彼自身も間もなく逮捕される運命にあることを告げた。
8月6日、教皇シクストゥス2世は斬首された。そして、ラウレンティウスも運命の鉄槌が下る。逮捕された彼は、皇帝の命令で教会の財産を渡すよう求められたが、彼は困窮している人々や身体に障害を持つ者たちを連れてきて、彼らこそが「教会の真の財産」であると力強く主張した。
8月10日、その勇敢な行動の代償として、ラウレンティウスは生きたまま熱した鉄格子の上で火あぶりにされた。伝説によれば、彼は殉教の最中、自らを焼く兵士に向かって、「こちら側は焼けたから、もうひっくり返してもよい」と言ったとされる。この言葉と彼の不屈の精神に心を打たれた多くの人々が、彼の死後、キリスト教に改宗したと言われている。

皇帝から愛され憎まれ2回殉教した美青年

セバスティアヌス(セバスチャン)

哲学者50人を論破し皇帝から求愛された才媛

アレクサンドリアのカタリナ
英語名:キャサリン(Catherine)/フランス語名:カトリーヌ(Catherine,Cathérine)/ロシア語名:エカテリーナ(Екатерина)

シエナのカタリナ/シエナのカテリーナ (イタリア語: Santa Caterina da Siena, 1347年3月25日 - 1380年4月29日)は、ドミニコ会第三会の在俗修道女であり、イタリア文学とカトリック教会に多大な影響を与えた神秘家、活動家、作家。1461年に列聖され、教会博士でもある。

権力を用いて聖遺物を次々に見つけた皇帝の母

聖ヘレナ(コンスタンティヌスの母)
聖ヘレナ(Helena、246/50年 - 330年8月18日)は、古代ローマ帝国の皇后(アウグスタ)、コンスタンティヌス1世の母。キリスト教会の聖人。
生まれた場所に諸説あり、メソポタミアのカパル・パカルともエデッサともビテュニアともいわれる。身分は低く、セルビアのナイッススにあった旅館、または酒場で働いていたところを捕虜としてコンスタンティウス・クロルスの手に陥る。
コンスタンティウスの妾(正妻ともいう)となり、274年にはコンスタンティヌスを生む。293年にコンスタンティウスがマクシミアヌス帝の娘フラウィア・マクシミアナ・テオドラと結婚するために政略的に離婚させられる。
再婚することもなく、あいまいな立場であったが、306年にコンスタンティウス1世が死にヘレナの息子が副帝に任命されたことにより、彼女の皇后としての地位が追認された。
313年頃にキリスト教に改宗。その後は私財を投じて巡礼・慈善・教会建立の仕事をしてキリスト教のためにつくした。325年、アウグスタの称号を受けた。330年に死去。彼女の死後にビテュニアのドレパヌムという街はヘレノポリスと名づけられた。
伝説・逸話
320年頃、ゴルゴタに巡礼し、キリストが磔になった十字架を発見した、とされる。伝説によればヘレナは息子のコンスタンティヌスに依頼されてこの地を訪れ、9月14日に探し出したという。このとき同じ場所で聖釘(せいてい/キリストに打ち付けた釘)も見つかった。聖釘と十字架の破片はモンツァ(イタリア)の博物館が所蔵している。この十字架をめぐるヘレナの伝説は4世紀末にヨーロッパから起こった。
・イエスの脇腹を刺した槍を発見。
・イエス生誕に来訪し救世主として礼拝したという3人の博士(王)の遺骸を発見しコンスタンティノポリスに運び、ミラノ司教であった聖エウストルギウスに懇願されてこれらを贈与した。
・聖母マリアがイエスを産み落とす時に使った飼い葉桶のまぐさをローマに持ち帰った。
・ヘレナがキリスト教に改宗したきっかけは、
聖シルウェステルが異教徒との争論の際に示した奇跡のためであった。
セントヘレナ島は1502年5月21日、ポルトガルの航海家ジョアン・ダ・ノーヴァによって発見された。島名はコンスタンティヌス1世の母でキリスト教の聖女である聖ヘレナにちなむ。

神からも悪魔からも愛された砂漠の隠修士

聖大アントニウス(英語名:アントニー/Antony)
聖大アントニオス(ギリシア語: Αντώνιος, ラテン語: Antonius、251年頃 - 356年)、あるいは大アントニオは、キリスト教(正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会)の聖人。修道士生活の創始者とされる。ラテン語から聖アントニウスとも表記される。正教会では勤行者克肖者聖大アントニイと記憶される。

第4章:中世教会で伝説となった聖人たち

会議中にキレすぎて投獄されたサンタクロース

ローマ帝国の皇帝コンスタンティヌスがクリスチャン弾圧を中止、キリスト教を擁護したことで、ずっと迫害されていた教会は急速に発展を始めます。それまでのクリスチャンたちは人目を避けて地下墓地(カタコンベ)でひっそりとミサ(聖餐式)を行っていたのですが、皇帝の援助で荘厳な教会が次々に建てられ、聖職者たちは豪奢な衣装を身にまとうようになりました。そして、外敵の脅威が消えた教会では、今度は内紛が始まりました。第3章最後の話で述べたように、教義をめぐってアリウス派とアタナシウス派が激しく対立を始めたのです。この問題に決着をつけるため、キリスト教の歴史上初めて、各地の司教を集めて議論を戦わせる公会議が西暦325年に開催されました。この時の会議はニケアという土地で開催されたので、第1ニケア公会議と呼ばれています。第1ニカイア公会議
公会議の参加者は、各地から集められた300人以上もの司教たちで、当時まだ受洗していなかった皇帝コンスタンティヌスが議長を務めました。参加者の中には、のちに「サンタクロース」と呼ばれて世界中から愛される、司教ニコラウスもいました。
ニコラウスは、のちにキリスト教の全教派で正統となるアタナシウス派(=イエスは「父なる神」とともに最初から存在していた、という考え方)を支持し、アリウス派(=イエスは「父なる神」につくられた存在である、という考え方)を快く思っていませんでした。
公会議の議決権を持つのは司教だけで、アリウスは司教ではなかったので、議決権はありませんでしたが、アリウス派のリーダーとして同席していました。議決権を持たないアリウスが、おそらくなにか挑発的な言葉を吐いたのでしょう。本書のまえがきでも述べたように、多くの慈善活動で知られる立派な人物であったはずのサンタクロースが、この会議中にアリウスと口論になった末、彼を平手打ちにしました。
「アリウスよ、貴様の主張はイエス様への冒だ!断じて聞き捨てならん!」
平手ではなく握り拳で殴ったという説もあり、その時の光景を描いた絵画が何枚も存在しています。つい熱くなってしまったニコラウスは、冷静に議論すべき公会議の場を彼こそ冒潰したとして、皇帝により司教職を剥奪され、投獄されてしまいます。
今では全世界で愛されているサンタクロースが、会議でキレすぎて投獄されていたというのはショッキングな話ですが、それはもちろん例外的なエピソードで、生涯を人助けに捧げた彼を神は見捨てませんでした。投獄された夜中、サンタクロースの囚われた牢獄にイエス・キリストと聖母マリアが現れ、彼は皇帝に没収された祭服をふたたび与えられて、司教として復権することをゆるされたのです。現実的に考えると、サンタさんの夢を見た翌朝、子供の枕元にプレゼントが出現するように、牢獄でイエスとマリアの夢を見て目覚めたニコラウスの枕元に彼を慕う者たちが祭服を置いておいたのかもしれませんが、そんな仮説は野暮で、サンタクロースには、ふさわしくないでしょう。
第1ニケア公会議の参加者リストは複数残っていて、ミュラの司教ニコラウスの名が含まれるものと、含まれていないものがあります。そのため、ニコラウスは本当は参加しておらず、後年に名前が追加されたとする説もありますが、暴行事件で投獄されたことによって当時のリストから除外された可能性もあるかもしれません。
ニコラウスが亡くなったあと、その棺は彼が司教を務めていた、トルコ南西部のミュラの教会に眠っていました。同地がイスラム教徒たちに侵略された時に遺体はイタリア南東部のバーリの町に移され、そこに建てられた聖ニコラウス大聖堂は、サンタクロースの聖地として、世界中から多くの人々が巡礼しています。ニコラウスは船乗りたちの支援もしていたことから「船乗りの守護聖人」と見なされるようになり、航海が重要な交通手段であった時代に人々から信仰され、彼の人気は高まりました。

高い柱の頂上で3年も暮らし観光地化した聖人

シメオン・スタイライツ(Simeon Stylites)
登塔者聖シメオン(とうとうしゃせいシメオン、アラビア語: مار سمعان العمودي‎ mār semʕān l-ʕamūdī、ギリシア語: Άγιος Συμεών Στυλιτεσ、ロシア語: Симеон Столпник、英語: Simeon Stylites、390年頃 - 459年)は、正教会・非カルケドン派・カトリック教会で崇敬される聖人。最初の登塔者。
「登塔者」は正教会における訳語。正教会以外の場面(カトリック教会ほか)では柱頭行者との訳語がある。シメオンについては他にシュメオーン、シモンといった転写もなされる。

ローマ帝国で最初は迫害されていたキリスト教が容認され、勢力を急拡大するにつれて、利権を求める者たちが聖職者の地位を奪い合い、都市の教会は腐敗しました。その一方、真摯に信仰と向き合うことを願う者たちは砂漠で孤独に修行する隠修士となりました。そんな隠修士たちが次第に共同生活するようになったのが修道院制度のはじまりですが、あくまで孤独を貫き、いつまでも群れるのを嫌った者たちもいました。中でも特筆すべきは「柱頭行者(ちゅうとうぎょじゃ)」や「登塔者(とうとうしゃ)」(英語名スタイライツ)と呼ばれるシメオンです。シリアのアレッポの近くに立てた高い柱の上の非常に狭いスペースで3年も生活したことから、彼は「柱頭行者」と呼ばれるようになりました。それ以前にそんな生活をした者は知られておらず、彼自身が発明した、それは修行の新ジャンルでした。
シメオンは10代前半の頃、最初は修道院に入り、極端に禁欲的で過激な独自の苦行を続けました。彼がヤシの葉をねじってつくった縄で全身を縛ったところ、それが肉に食い込んで死にかけたことがあります。その時は、修道士たちが液体で縄を柔らかくして切り裂くという治療を3日も続ける必要がありました。生還したシメオンは、「お前のように過激な修行を好む者に共同生活は無理だ」と、追放されてしまいます。
修道院を追われたシメオンは、以後しばらく崖のような狭い空間で、ひっそりと苦行を重ねながら暮らしていましたが、いつしか「だれよりもストイックな修行者」という彼の噂が広がり、弟子になることを希望する者が殺到したため、逃げ出します。
その後、シメオンは訪問者に修行の邪魔をされないように、高さ3メートルの柱の上で4年間、生活しました。
彼は人々から隠れているつもりでそうしたのですが、逆に目立ってしまい、彼を訪ねる人が途切れませんでした。努力する方向を勘違いしたままエスカレートさせて、シメオンは、次に高さ6メートルの柱の上で3年、その後、高さ10メートルの柱での10年間を経て、最終的には高さ20メートルもの柱の上で20年も暮らすことになりました。支援者が運んできた食事を吊り上げて食べていたようです。柱の頂上には手すりがついて、シメオンは基本的に、ずっと立ったままでした。

回心して修道士として生きた遊女が伝説に

アンティオキアの聖ペラギア
聖マルガリタ:修道士処女(モナコパルテノス)
⇒芥川龍之介:『奉教人の死』モデル

修道士たちから何度も毒殺されかけた修道院長

ヌルシアのベネディクトゥス

霊視の奇跡でテレビの守護聖人となった聖女

アッシジのフランチェスコ(フランシスコ)に仕えた
アッシジの聖女キアラSanta Chiara:クララClara/英語名:クレアClare

周囲の妨害に負けず神学を大成させた教会博士

トマス・アクィナス:神学大全

英雄でありながら魔女として火刑にされた聖女

ジャンヌ・ダルク

国王の改宗に捨て身で抵抗し処刑された宰相

ヘンリー8世ゆかりの英国国教会(アングリカン・チャーチ:Anglican Church)聖公会
トマス・モア:ヘンリー8世に反対し、1535年処刑

戦闘時の負傷がきっかけで霊的に覚醒した改革者

イグナチオ・デ・ロヨラ(イニゴ)
イエズス会創始者:「キリスト教を全世界に伝えるために、われらは、いかなる危険も恐れない」
霊操霊操(れいそう)とは、キリスト教の修練法の一つで、精神的な成長や内面の浄化を目指す宗教的な実践を指す。この概念は、特にカトリック教会や正教会、一部のプロテスタントの伝統に見られる。霊操は、祈り、瞑想、省察、黙想などの精神的な練習を通じて、神とのより深い一体感を求め、自己を見つめ直すことに重点を置いている。
霊操の歴史は古く、初期キリスト教の修道士たちによる荒野での隠遁生活にその起源を見ることができる。中世には、イグナチオ・デ・ロヨラによる「霊操の手引き」が広く知られるようになり、キリスト教徒の霊的生活に大きな影響を与えた。この手引きは、30日間の瞑想と黙想のプログラムを提供し、個人の霊的な成長を促進するために用いられる。
現代では、霊操は日常生活の中で神との関係を深め、個人の霊性を育むための方法として、多くのキリスト教徒に実践されている。また、リトリート(静修)など、集団で行われる霊操のプログラムも存在する。これらは、個人が社会から離れ、静かな環境で内省と祈りに専念する機会を提供する。

改革精神ゆえに修道女仲間から虐待された聖女

アビラの聖テレジア(テレサ/テレーズ):大テレジア/イエスのテレジア

1515年3月28日:テレジアは、スペインのカスティリア州のアビラに生まれた。19歳のとき、高い理想をもってカルメル会修道院に入ったが、当時の修道生活は、規律・修道精神が緩慢となっていた。そのことに失望したテレジアは、信仰に対する疑問などに襲われた。しかしこの苦しみをとおして、「魂の奥底で、神とともに生きる」祈りと瞑想の深い神秘の体験をした。1562年、本来の会則に立ち返った「女子跣足カルメル会」をアビラに創立し、10数人の修道女たちとともに厳しい生活を始めた。彼女の改革に反対する人びとも多かったが、十字架の聖ヨハネなどの援助によって17もの女子修道院を建て、当時の社会に大きな影響を及ぼし、16世紀におけるカトリック教会改革の原動力ともなった。
多くの本を書いたが、中でも自分の神秘生活を著わした『完徳の道』、『霊魂の城』は、今もなお多くの人びとに読まれている。1582年10月4日帰天。1622年3月12日に教皇グレゴリオ15世によって列聖。1970年9月27日に教皇パウロ6世によって教会博士にあげられた。記念日は10月15日である。

跣足カルメル会(せんそくカルメルかい)
1562年にスペインのイエズスの聖テレジアによって創立された修道院です。アビラに創立されたこの会は、祈りに専念する厳格な修道院として次第に発展し、世界各地に設立されました。跣足カルメル会は、男子修道会・女子修道会・在世会から成り立っています。跣足カルメル在世会は、社会や家庭など自分がおかれた場で生活しながら、男子カルメル会や女子カルメル会と同じ霊性と使命を生きるように召されている信徒の集まりです。
カルメル会は共同生活を営みながら、祈りと黙想のなかで神の愛の実現を目ざすもので、1日2時間の黙想が義務づけられ、厳格な生活を営みます。古来、聖母尊崇も盛んで、「カルメル山の聖母の修道会」ともよばれています。

テレジアは、病気療養期間中に神との一体感を味わう神秘体験をしました。イエス・キリストが彼女の前に現れたとか、天使が彼女の心臓に槍を刺し、痛みと同時に恍惚とした―――などとテレジアが異様な証言をしたことで、彼女は悪魔に憑かれたか、それとも真に神の啓示を受けたのかで修道院内で物議をかもすようになります。
一方、時代とともに戒律のゆるくなった修道院での生活は、神秘体験を経たテレジアの高い理想を満足させるものではありませんでした。ぬるま湯のような環境に耐えられなくなったテレジアは、かつての厳しい戒律を復活させた「跳足カルメル会」を発足させ(「洗足」という言葉は、修道士や修道女が靴を履かず、素足やサンダル履きであることを示します)、友人から資金提供を受けて小さな修道院を創設しました。
テレジアの理念は崇高でしたが、彼女の活動はゆるい規則に慣れた旧体制の修道女たちから激しく批判されます。後世に「修道院の改革者」として讃えられるテレジアは、当時は仲間となるはずの修道女たちから激しい批判を浴びせられ続けたのです。
テレジアは宗教裁判にかけられ、彼女が精魂込めて書いた著作は燃やされ、異端者として投獄されました。しかし、少しずつ理解者も増え、テレジアの活動は容認され始めます。テレジアは、既足カルメル会が支持を得るためにスペイン全土を旅し、存命中に国内に16の女子修道院を創設。また、テレジアの理念に共鳴し、のちに「十字架のヨハネ」と呼ばれる修道士と彼の同志が男子修道院をふたつ創設しました。テレジア同様、この十字架のヨハネも神秘思想家として評価され、のちに聖人に認定されています。
アビラのテレジアが「大テレジア」あるいは「イエスのテレジア」と呼ばれるのに対し、「小テレジア」あるいは「幼きイエスのテレジア」「小さき花のテレジア」と呼ばれるリジューのテレジアについては第5章でご紹介します。

第5章:現代にも影響を及ぼす伝説的な聖人たち

聖母からストーキングされ叱責された聖人

フアン・ディエゴ・クアウトラトアツィン(Juan Diego Cuauhtlatoatzin): 1474年から1548年にかけて生きた16世紀のメキシコのインディオの農夫で、グアダルーペの聖母の出現の幻視者として知られています。彼は50歳の頃にキリスト教の洗礼を受けました。
1531年12月9日、メキシコ・グアダルーペのインディオ、フアン・ディエゴの前に聖母が現れたとされる。聖母は、司教に聖母の大聖堂を建設する願いを伝えるよう求めた。ディエゴは病気の親類の助けを求めにいこうとしていたため、話しかけてくる聖母をふりきって走り去ろうとした。すると聖母は彼を制止し、親類の回復を告げた。ディエゴが戻った時、病気だった親類は癒されていた。聖母に司教へしるしとして花を持っていくよういわれたディエゴは、花をマントに包み、司教館に運んだ。司教館に花を届けた際、ディエゴのマントには聖母の姿が映し出されていた。彼の証言により、テペヤクの丘には大聖堂が建立され、彼の体験は多くの人々に伝えられました。彼は2002年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖されました。

激しい弾圧下でも信仰を貫いた日本の殉教者たち

パウロ三木は安土桃山時代のキリシタンで、日本の初期キリスト教殉教者の一人です。彼は1564年頃に生まれ、1597年に長崎で磔刑に処されました。彼の本名や正確な出生地については不明ですが、摂津国(現在の兵庫県)の出身とされています。また、彼の父・三木半太夫は阿波国(現在の徳島県)出身で、戦国時代の「最初の天下人」三好長慶に仕えた武将でした。
パウロ三木は幼少期にキリスト教の洗礼を受け、安土のセミナリオ(神学校)の第一期生として教育を受けました。22歳の時、イエズス会に入会し、修道士(イルマン)として日本での布教活動に従事しました。彼は優れた説教家として知られ、多くの人々をキリスト教に導いたと伝えられています。
しかし、1596年にサン=フェリペ号事件が起こり、キリシタンに対する弾圧が強まる中、パウロ三木は大阪で捕縛され、京都を引き回しにされた後、長崎で殉教しました。彼の最後の言葉には、自分を処刑した人々を許すという強いメッセージが込められていたとされています。
パウロ三木は殉教後、1627年にローマ教皇ウルバヌス8世によって「福者」に、1862年にピオ9世によって「聖者」に列せられました。彼を含む26人の殉教者は「日本二十六聖人」として知られ、その記憶は長崎市西坂公園に立つ日本二十六聖人記念館や、徳島市徳島本町にある「聖パウロ三木・カトリック徳島教会」などで今も尊ばれています。

周囲の妨害に屈せず少女が信仰を貫き聖地誕生

ベルナデッタ・スビルー(ベルナデット)は、1844年1月7日にフランスのルルドで生まれた聖女です。彼女はルルドで聖母マリアの出現を体験し、後にヌヴェールの愛徳女子修道会の修道女となりました。ベルナデッタによって発見された泉の水により、不治の病の治癒例が多く見られ、ルルドはカトリック教会の重要な巡礼地となりました。彼女は1933年にカトリック教会によって列聖され、記念日は2月11日です。ベルナデッタの生涯は苦難に満ちていましたが、彼女は困難にも関わらず、深い信仰を保ち続けたことで知られています

反省ゼロの連続殺人鬼を祈りで回心させた聖女

リジューの聖テレーズ(テレサ/テレジア)本名: マリー・フランソワーズ・テレーズ・マルタン)少テレジア・幼きイエスのテレジア
1873年1月2日にフランスのアランソンで生まれたカルメル会の修道女。マザー・テレサ(コルコタの聖テレジア)の「テレサ」という修道名はテレーズの名からとられている。
「幼きイエスと尊き面影のテレーズ」という修道名を持ち、カトリック教会の聖人であり教会博士の一人。若くして亡くなりましたが、その著作は広く読まれ、日本でも人気のある聖人です。彼女の思想「小さき道」は、病人、パイロット、花屋、宣教師、子ども、弱い者などの守護聖人とされ、1997年に教会博士に加えられました​​。

革命家と疑われ狙撃されながらも愛された改革者

ヨハネ・ボスコ(ドン・ボスコ)/本名: ジョヴァンニ・メルキオッレ・ボスコ、1815年8月16日 - 1888年1月31日
19世紀の北イタリアのカトリック司祭で、教育者です。彼はサレジオ会と扶助者聖母会(サレジアン・シスターズ)の創設者であり、カトリック教会および聖公会で聖人として崇敬されています。ボスコはイタリア統一運動と産業革命の時代に青少年教育に貢献し、貧しい青少年たちのために生涯を捧げました。彼は1934年に列聖され、出版関係者の守護聖人としても知られています。彼の記念日は1月31日です。

自分を乱暴し殺した青年をゆるした現代の聖女

マリア・ゴレッティ(Maria Goretti)
11歳で殺人被害者となったイタリアの少女。カトリック教会の殉教者、聖人。彼女を列聖した教皇ピウス12世から「20世紀の聖アグネス」と讃えられ、その生涯から少女や青少年、貧しき者、犯罪や性的暴行の被害者の守護聖人とされている。

ユダヤ教から改宗しナチスの犠牲となった聖女

エーディト・シュタイン(1891年10月12日 - 1942年8月9日)は、ドイツ生まれのユダヤ人哲学者、カトリック修道女で、ナチスによるホロコーストの犠牲者です。彼女は哲学者フッサールの弟子であり、フェノメノロジー(現象学)の研究者としても知られています。
カトリックへの改宗後、エディットはカルメル会に入り、テレジア・ベネディクタ・ア・クルーチェ(十字架のテレジア・ベネディクタ)という名を受けました。彼女は第二次世界大戦中にナチス政権下でユダヤ人として迫害を受け、1942年にアウシュヴィッツ強制収容所で命を落としました。
1998年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖され、カトリック教会の聖人として崇敬されています。彼女の記念日は8月9日です。彼女は哲学者、カトリックの殉教者、ユダヤ人の改宗者、そして宗教的な模範として広く尊敬されています。

聖母のお告げを受けた子供たちの悲運

ファティマの聖母
1916年春頃、ファティマに住むルシア、フランシスコ、ジャシンタら3人の子供の前に平和の天使とする14-15歳位の若者が現れ、祈りの言葉と額が地につくように身をかがめる祈り方を教えた。その後も天使の訪問は続いた。1917年5月13日、ファティマの3人の子供たちの前に聖母マリアが現れて毎月13日に同じ場所へ会いに来るように言った。子供たちは様々な妨害に遭いながらも、聖母に会い続けて様々なメッセージを託された。聖母からのメッセージは大きく分けて3つあった。

ルシア・ドス・サントス/フランシスコ/ジャシンタ(1917年撮影)

現代人に聖人の聖性を示した伝説の聖女

マザーテレサ(Mother Teresa, 1910年8月26日 - 1997年9月5日)
コルカタの聖テレサ(Saint Teresa of Calcutta)は、カトリック教会の修道女にして修道会「神の愛の宣教者会」の創立者。またカトリック教会の聖人である。本名はアルーマニア語でアグネサ/アンティゴナ・ゴンジャ・ボヤジ(Agnesa/Antigona Gongea Boiagi)、アルバニア語でアニェゼ/アグネス・ゴンジャ・ボヤジウ(Anjezë/Agnès Gonxha Bojaxhiu)。
「マザー」は指導的な修道女への敬称であり、「テレサ」は彼女の敬愛したリジューのテレーズにちなんだ修道名である。コルカタ(カルカッタ)で始まったテレサの貧しい人々のための活動は、後進の修道女たちによって全世界に広められている。
生前からその活動は高く評価され、1973年のテンプルトン賞、1979年のノーベル平和賞、1980年のバーラト・ラトナ賞(インドで国民に与えられる最高の賞)、1983年にエリザベス2世から優秀修道会賞など多くの賞を受けた。1996年にはアメリカ合衆国史上5人目の名誉市民に選ばれている。

多くの聖人を生み出した聖人の中の聖人

ヨハネ・パウロ2世(羅:Ioannes Paulus II, 伊:Giovanni Paolo II, 1920年5月18日 - 2005年4月2日)
ポーランド出身の第264代ローマ教皇(在位:1978年10月16日 - 2005年4月2日)。ヨハネス・パウルス2世、ヨアンネス・パウルス2世とも表記される。本名はカロル・ユゼフ・ヴォイティワ(Karol Józef Wojtyła)
ハドリアヌス6世以来455年ぶりの非イタリア人教皇にして、史上初のポーランド人教皇である。同時に20世紀中、最年少で着座した教皇でもある。カトリック教会の聖人で[、教皇ヨハネ23世とともに列聖された。神学と哲学の2つの博士号を持っていた。
冷戦末期において、世界平和と戦争反対を呼びかけ、数々の平和行動を実践し、共産党一党独裁下にあった母国ポーランドを初めとする各国の民主化活動の精神的支柱としての役割を果たした。世界129か国を訪問し「空飛ぶ聖座」と呼ばれた。
また、生命倫理などの分野でのキリスト教的道徳観の再提示を行うとともに、エキュメニズムの精神からキリスト教内の他宗派や他宗教・他文化間の対話を呼びかけたことは、宗教・宗派の枠を超えて現代世界全体に大きな影響を与え、没後も多くの信徒や宗教関係者から尊敬を集めている。

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