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誰かの理想は捨てる。

家族のため、夫のため、母のため、父のため、子のため、友達のため、先生のため・・・

理想的とされるステレオタイプ的な生き方と自分とのギャップに苦しみ、ストレスを抱えている人は少なくありません。

私の勤めている病院は整形外科ですが、頸の痛み、腰の痛みの背景にこうした心理的ストレスによる自律神経障害があることも珍しくはなく、先日リハビリを無事に終了した同世代の既婚女性の方もそのような背景を持っている方でした。

誰のための理想か

夫は比較的高ステータスな資格を持ち、個人事業主としてバリバリ働いており、経済的に困窮してはいませんが、夫の帰りは遅く、自分も正職員として働いていて、まだ手のかかる小さな子が1人います。

必然的に平日の子育てや家事労働は奥様の役目になり、慌ただしく家事と仕事と子育てをする毎日で、ついイライラで娘や夫につらく当たってしまい、そんな自分にも嫌気がさしているとおっしゃってました。
 
もっと娘の話をゆっくり聞いてあげたい、仕事の遅い旦那さんをきちっと労ってあげたい、こうしたい、あーしたいという理想はあるけど、理想とは程遠い現実に大きなストレスを抱えていました。
 
それは誰のための理想なのか?
その理想が叶うことで、夫や子が喜ぶのではなく、まず自分が喜べるのでしょうか?

自分のための理想でないのであれば、その理想は捨てた方が身も心も軽くなります。
 
我が家も同じような境遇で生活し、子育てをしてきましたが、とっくの昔に「誰かのため」の理想は捨て去りました。

土日など、私だけが朝から仕事があるときは、妻子は寝ており、自分で朝食を作り、皿を洗って出かけます。

特別、期待もしてないから、裏切られることもないし、大きなストレスもありません。

だから私も好きに野球にいけるし、土日も後ろめたさなく、思いっきり仕事ができます。

やりたくなかったら買って食べればいいし、究極仕事に行かなければいいのです。

すべての選択権は自分にあります。
 
我が家では子のため、妻のため、夫のために自分が無理をすることは良しとはせず、たとえ結果的にそれが誰かのためになったとしても、あくまで自分がそうしたかったからのそうしたとのスタンスをとります。
 
なりたい自分になるために理想は必要ですが、その理想が自分のための理想ではなく、誰かのための理想であるならまったく意味がありません。

我が家も結婚当初や子供ができてすぐの頃は同様に悩んでいました。
互いの家族の親をみてあんなふうにたくさんご飯をつくって、テキパキと家事をこなして、ホコリ1つない家にできたらどんなに素敵だろうか。

でも無理なものは無理。
それをやって楽しくない人生なら、家事代行頼めるぐらい働いて、週末は外食して、それでいいじゃないか。

実際にはそうしてなくても、それで良いと思えたことで、随分と気持ちが楽になったものです。
 
彼女とは同じ家族構成で共働き夫婦の同世代として色々と話をしながら、リハビリを進めていきました。

彼女が自分の人生を生きるにはもう少し時間がかかりそうですが、少し前向きに自分の人生と身体に向き合うことができたのではないかと思います。

理想の自分になるために

元気になりたければ体を動かせばいい。
お金持ちになりたければお金持ちがやるように行動すればいい。
もしくはお金持ちがしないことをしなければいい。
優しくなりたければ優しくすればいい。
 
なりたい自分になるためには「そのように振る舞えばよい」という単純な理屈はしばしば聞かれますが、人が考え方や個性をどのように獲得するかに関することについて社会心理学者ダリル・ベムの「自己知覚理論」を用いて説明しています。

自己知覚理論とは?

私達は自己を認識するため無意識に2つの手がかりを自動的に参照しています。一つは、内観的に自分の内面を感じ取るという意味での『内的な手がかり』と、もう一つは、自分の行動や周囲の状況、他人の反応という『外的な手がかり』です。
 
べムは、自己の心理状態を知る時に、内的手がかりから直接的に感情を経験するよりも、外的手がかりから客観的な観察を通して知覚する場合が多いという事を指摘します。
 
このように『自己の内的心理』を、自己の行動や周囲の反応といった『外的手がかり』から推測して知るという考え方を、自己知覚理論といいます。
 
ベムは人は自分が何者であるかに関する推論を、自分自身の行動を観察することで組み立てるのだと主張しました。
 
自己知覚理論はもともと、フェスティンガーとカールスミスの認知的不協和を立証する経験主義的な部分への反駁として提唱されました。
 
認知的不協和とは、個人の内面心理に、正反対の矛盾する認知が複数存在していて、不協和を起こしている不快な緊張状態のことを言います。
人は「外部の環境要因」で認知的不協和の緊張を低下させられない場合には「内部の認知要因」を変容させて認知的不協和を解消しようとします。
 
そのことは、あるレベルまでの不満足(不協和)であれば、『自己肯定的な物事の認知』をして不快感を和らげることが出来るということを意味しますが、べムは、自己知覚理論によって自分自身の直接的な経験による認知的不協和だけでなく、自分の行動や他者の経験を間接的に観察することによってもその認知的不協和を知ることが出来るということを主張しました。

すこし難しいですが、先の患者さんは「本当は自分も疲れている、家事なんでやりたくない」という内面心理に対し、「やらないと理想的な妻になれない」「夫にがっかりされてしまう」といった矛盾的な心理も存在し、認知的不協和を起こしている状態でした。

それを「家事をする」という外的知覚により「理想の妻」という認知の方を認め、「やりたくない」という気持ちを抑え込もうと試みていたといえますが、それは本来の「自分」ではないために、余計に心理的緊張が高まっている状態になっていったといえます。

このような認知的不協和がもたらす心理的緊張はそのまま身体の緊張にも影響を与えます。
肩周り、呼吸筋、横隔膜、腰背部筋そのどれもが硬く、緊張し、身体の動きを縛りつけていました。

当然ながらそれは「痛み」に繋がっていきます。

「やりたくない」という「自分」の気持ちを大切にすれば「今日はやりたくないから寝る」といった行動とるほうが正解だと思います。

それによって「理想的な妻」「理想的なお母さん」といった自分の認知とまた不協和を起こすことになりますが、先に述べたように「誰かのための理想」は捨ててしまえば、不協和は生まれません。

このように外的行動によっても「本当の自分」を知ることができます。
外と内が不協和を起こしている状態であれは、それは誰かの理想のための行動であり、身体にその答えがはっきりとでます。
 
理想の自分が誰かのためではなく自分のためであるのであれば、そのように振る舞い、行動することで、理想の自分に近づけるのだと思います。

まとめ

自己知覚により、自分の行動から自分の思考を明らかにするばかりか、行動の前には存在しなかった思考も推測することができる
 
私たちの行動は、しばしば周囲からの微弱な圧力(期待など)によって決まりますが、私たちは必ずしもその圧力を認識することができない。

「理想の自分」と「他者から見た理想の自分」が一致していない場合は個人の内的心理に矛盾が同居することになる。

行動によりその不協和を解消することができるが、「自分」を犠牲にすれば、更に不協和は強化され、心と身体は緊張は増す。
 
自分の心に従って行動すること、まずは考えるよりも行動してみて心身の反応をみること、それはともに「本当の自分」を教えてくれることであり、「理想の自分」なるための手段となる。
 


我々は、他の人と同じようになろうとして、自分自身の3/4を喪失してしまう。

We forfeit three-fourths of ourselves in order to be like other people.

             ショーペンハウアー


最後までお読みいただきありがとうございました。


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#生き方  #自己知覚理論 #人文社会科学 #認知的不協和 #フェスティンガー  #哲学 

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