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諦:2019年の漢字を一文字で

会社の新年会的なイベントで、「今年の漢字を一文字で示す」というのをシニア・マネジャーとして言うというのをやりました。
これはもともと、僕が所属している会社の部門で、毎年マネジング・ディレクターに昇進した人がマネジング・ディレクターとしての心持ちを漢字一文字で示すというのを恒例行事としてやっていて、それをグループでもシニア・マネジャー、マネジャー向けにやってみたみたいな漢字です。

とはいえ、自分の今の心持ちを漢字一文字で示して伝えるのは色々と考えるきっかけにもなって面白かったです。その時に示した漢字をここでも残して置こうと思います。

諦。これが僕が選んだ漢字です。

これは、よく知られる読み方としては「あきらめる」「てい」「諦観のてい」のようなイメージがあると思います。

ただ、少し前にあきらめるの本当の意味を知ってから、あきらめるという言葉が好きで、事あるごとに思い返すようにしています。

あきらめる、は本来「明らめる」として、「本質、道理を見極める」という意味があります。それを「あからむ」「あきらむ」と言っていました。
また、現代で当たっている諦めるという漢字の成り立ちは、「辺:謹んで言う、作り:木で組しめた神を祀る祭壇=言葉で締めくくり、あきらかにする。」という様子の象形になっています。

本質を見極める視点

諦には四聖諦、二諦などと言う真理にたどり着くための考え方があります。例えば、二諦であれば「俗世の中にある真理と究極の真理、というように。

少し前から、ものごとを考える時に対立構造でものを考えることをやめたのですが、物事の本質についても同じことが言えると思います。

物事の対立の中からではなく、振り子のように動く物事の状況や振り子の極からみた視点、真ん中の視点、色々な視点を広く持って、その中から本質を見極めていく視点を持って行きたいと言う思いが込められています。

ある一方向からしかものをみないのではなく、色々な角度、立場や視点が変わったらどうなるか、前提が変わったらどうなるか、など色々な可能性で物事を見るとある面では正しいこともある面ではそうではなかったり、Aと認識しているものが、ある側面ではBと呼ばれていたり、物事は1面的にみているとその存在、本質を確実に見誤ります。

そうではなく、自分自身の視点や軸を局面によって柔軟に移動させ、色々な側面でものを見、考え、実行する。それがしなやかな思考であり、行動であると最近強く感じます。

それは仕事人としての自分でも、生活者としての自分も同様で、「諦」の視点を持って今年1年は過ごして行こうと、そんな風に思っています。



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