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無色な運命(前編)



  黒と茶色。二匹のダックスフントが行ったり来たり。飼い主が投げたテニスボールを追い掛けて順番に咥えては飼い主の元へと持って行く。息を荒げて涎まみれの口角をめいっぱい上げ、もっと投げてと体いっぱい。全身で喜びを表して催促していた。

ぽーん。

飼い主の手からテニスボールがまた、フェンスを越えないよう控え目に投げられる。黒と茶色は走り出した。檻の外の自分より、檻の内の黒と茶色の方が、自由で生命を謳歌していると思った。


 豊洲。海辺のショッピングモール。時刻は夜。だけれど空はまだかろうじて明るい。粘着質な海風。茹だるような暑さ。季節は夏か。いつの間に夏になったんだ。頭が上手く働かない。ずっとそうだ。

 自分はドッグラン横の良く分からない白いウンコみたいなベンチに座っている。全身は汗で覆われてびちゃびちゃ。長期間散髪せずに放置したボサボサで癖の強い髪も更に相俟って、晴れた夕暮れの元、自分は濡れ鼠のようだった。黒と茶色の横、白いウンコの上の濡れ鼠。

 ウンコに似合わないのは、自分が着ているこのワイシャツだ。綿70%、麻ほとんど30%の品が良く質の良い長袖のワイシャツ。さっきまで空調でガンガンに冷えた映画館にいたので気が付かなかった。周辺の人を見渡すと、皆半袖だ。いつの間に夏になっていたんだ。白いTシャツだったら白いウンコにぴったりだったのにな。

 見たばかりの映画の内容は覚えていない。半分は寝ていたと思う。悲鳴か何かで壁やら椅子やらが振動して目が覚めたからたぶんホラーだったんだろう。久しぶりに外に出た。ここ数日は家に籠って、どこにも出掛けなかった。知らない間に夏になっていたのだから、数日どころじゃないかもしれない。久しぶりの外出だったのに、心躍ることもなく、ふらり独りで入った映画で寝てしまうなんて、自分はなかなかに図太い。

 太陽が半分、海に沈んだ。ほぼ海の、そのまた向こうに見えるビル群の裏に突き刺さっていった。夏の夕日は大きい。学校の制服姿の若い女性3人が夕日を背に動画を撮っていた。本当に学生かどうかは知らない。側には水上バス乗り場があり、何の役に立つのか分からない赤いクレーンと小さな跳ね橋がある。それらは夕日に照らされて黒いシルエットとして浮かび上がった。その向こうには晴海大橋。と、そのまた向こうにも何かの橋。そして一番向こうにはレインボーブリッジのシルエットが見えた。もう少しそれらのシルエットを眺めていたかったのだが、暗くなりきる前に、ぽっと電飾が付いた。

あぁ……残念だ。

 映画もがっかりだったし、ちょっとでも地球を感じられれば癒されると思ったのに、カラフルなLEDライトが……無機質な人工物が、更に自分を追い詰めた。そもそも、ここの海は水平線が見えない。東京の家の近くで地球を感じるなど、最初から無理があったんだ。ここではどこへ行こうと人間が付いて来る。実家が東京にあるのだから、人工物からは逃れられない。

 帰ろう。そう思って立ち上がった時、黒と茶色が自分の前を通ろうとした。そして立ち止まった。それから自分の方を見ると、血相を変えて、ぎゃんぎゃんと吠え出した。わんわんじゃない。普通の吠え方じゃなかった。酷く興奮して、正確には、自分の隣の白いウンコに向かって吠え出した。飼い主はそれに全く気付いていない。「あぁもうすみません」と自分に向かって軽く頭を下げた。自分は、あぁまた始まったか、と思った。飼い主は「ほら行くよ。もう、どうしたの?」と黒と茶色をなだめながら海沿いの遊歩道へと向かう。

 こんなに人がいるモールなら大丈夫かと思ったのに。ずっとじっと、白いウンコの横の白いウンコの上から視線を感じた。しかし、これは見たら駄目な奴だ。自分は横の白いウンコを見ないようにして、自分の白いウンコから離れた。自分は、飼い主に引っ張られてそわそわと進む黒と茶色の後に続いた。

 暗くなるまでぼうっとするべきじゃなかった。いや、ぼうっとしているのだから、外出するべきじゃなかった。速足で家へと向かう。いろいろなものを見た。見ていて見ないふりをした。ほとんどは口を利かない。口が利いても「ちょうだい。ちょうだい」と一方的で、それらに答えてはいけない。何で自分ばかりこんな目に合うのだろう。いっそのこと自分もそれらの一部になってしまおうか。自分は後悔ばかりだ。後悔ばかりだから後悔の塊に追われるんだ。

 自分はさっき以上に濡れ鼠になりながら、どうにか朝潮大橋までやって来た。ここが問題だった。水門があるのだ。開いていても、多少なり水が滞っている場所にはそれらも大量に滞っている。それらの色は白とは限らないし、黒とも限らない。何色であったとしても自分には厄介な存在だったし、結局は人間が創り出したものだった。肉体だけじゃなく精神も引っ張られる。魂と言えようか。水門では数えきれない程それらに声をかけられたし、体中を触られて引っ張られた。もう嫌だと思った。限界だと思った。それらの存在が限界なのではなく、自分の人生が限界だと思った。水が流れる音が聞こえた。

 その時、自分の横からそれらとは違う、清い声が聞こえた。


ご清覧賜りまして誠にありがとうございます。
是酔芙蓉ぜすいふよう

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眠れない夜に

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