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無色な運命(後編)


「あぁ、久しぶり」
 
 自分はふっと気が抜けて、ついその声の方を見てしまった。そこにはかなり年下の女性がくっきりと立っていた。白いTシャツに青のジーンズを履いて、黒く真っ直ぐの髪をひとつに緩く括って垂らしていた。彼女は、自分が今まで見たことのない無垢で優しい表情で、自分に微笑みかけていた。

「本当に、久しぶり。ずっと会えたら良いなぁって待っていたの」
 彼女はもう一度、自分に話しかけた。自分はその声にとても惹かれた。もう、他のそれらは見えなくなっていた。
「初めてだと思う」
自分は、つい、その声に返事をしてしまった。
「そうかもしれない。でも、私はあなたを待っていたの。運命なのよ」
「運命? こうなったのは全て運なの?」
「運じゃないよ。運命だよ。定め、強い縁に結ばれたものなの」
「だけれど、自分は君を知らないし、君も自分を知らない」
「人柄も家柄も関係ないものなの」
「そんなの……どうやって分かるの?」
「一目で分かるよ。輝いているもの」
彼女はそう言って両手で彼女の心を覆い「あぁ。ありがとうございます」と、天に感謝を述べた。自分に逢えて嬉しくて仕方がないという風に、無邪気に笑顔を振りまいた。

 自分は、彼女に期待していた。だから返事をしたんだ。しかし、結局一緒かもしれないと少しがっかりした。溜息ひとつ。自分の息は直ぐに夏の湿気に溶けていった。
「……そう……らしいね」
「あら。あなたが他のそれらにとってもとても輝いて見えて、それらにもてもてなのとは別なのよ?」
「一緒だよ。母が言うには、自分は魂と肉体がずれてて隙があるんだってさ」
「駄目なことなの?」
「駄目に決まってるよ。こんな状態なんだから!」
 自分は少し声を荒げてしまった。自分の声にはっとなって周りを見渡す。幸い車が走っているのみで、この橋の上、自分の他に歩行者は誰もいなかった。

 彼女は少し悲しい顔をした。
「現世は大変ね。皆から祝福される死が少ないもの」
「死は祝うものじゃないよ」
「私は皆に喜んでもらったわ」
「どうして?」
「荒神様を鎮めるために」
「そんなの全然嬉しくない」
「私は嬉しかった。こうして運命を約束されたの」
「それでずっと待ってたの?」
「ずっと待ってた」
「何年も」
「何百年も」
 自分は彼女の瞳の中を覗いた。初めてそれらと目を合わせた。何色か分からない。とても深いと思った。吸い込まれそうだった。これ以上は危ないと思って、自分は視線を落とした。彼女の青いジーンズが目に入った。
「それは?」
「ふふ。素敵でしょ。あなたに合わせてみたの」
彼女は、まるでドレスでも着ているように、ふわりくるりと軽く回ってみせた。
「そんなことできるの?」
「人は何でもできるし、何にでもなれるよ」
「自分はできなかったよ」
「まだ終わってないわ」
「自分は運命を信じない」
「どうして?」
「恋でしょ?」
「その中のひとつは恋ね」
「そんなのただの勘違い。性欲で、思い込みだよ」
「きっかけはフェロモンとか遺伝子ってこと?」
 自分は驚いた。彼女の言葉から横文字が出て来るとは思わなかった。
「どうしてそんなことを知っているの?」
「長生きだもの」
 長生きと言ってよいのかは分からない。しかし彼女は、そんなの些細なこととまた無垢で清く微笑んだ。
「肉体も関係ないものなの」
「人柄も家柄も、肉体も関係ないものなの?」
「その通り」
「でも、その内、本当の自分を知ったら、きっとがっかりするよ」
「あなたとあなたの周りがそうだったように?」
「自分のこと、知ってるの?」
「何にも知らないし、何でも知ってる。何にも知らなくて良いし、何でも知りたいよ」
「運命だから?」
「運命だから」
 自分は、彼女に触れたいと手を伸ばした。しかし、怖くなって直ぐに手を引っ込めた。
「皆、自分に期待してた。でも自分は駄目だった」
「あなたが何者でも良いし、何者じゃなくても良い。ただ、あなたがあなただから良いの」
「本当は……」
「本当は?」
「本当は……」
 
 本当は、自分は死んでしまいたかった。この東京で、裕福な家庭に生まれて、外見にも恵まれて、十分な教育を受けて、皆から愛されて、期待され、調子に乗って、そして……自分はこの社会に、世界に乗り切れなかった。存在を持ち上げられるだけ持ち上げられて、期待に応えられないと分かれば、突き落とされた。世界から愛されるマスコット鼠は、濡れ鼠になって白いウンコに相応しい横脇へと追いやられた。
自分は顔を上げて、もう一度、彼女の瞳を見た。やはり彼女の瞳は何色でもなく、どこまでも澄んで深く晴れ渡っていた。

「優しいのね」
 彼女はいつもずっと無垢に笑う。
 濡れ鼠になっても死にきれない自分は、いまだに誰かの期待にしがみ付いている。
「大丈夫」
 彼女は、そっと手を伸ばして自分の心に触れた。
「時間も空間も、生死も関係ないものなの」
「運命だから?」
「運命だから」
 自分もつられて、ふっと手を伸ばして彼女の心に触れた。
「それでも、自分には運命が分からない」
「良いの。私は知っているし、知らないから」
 自分には運命が良く分からない。しかし、運命は良いものだと思った。
「死んでも良い?」
「死んでも良いし、生きても良い」
「君が祝福してくれるから?」
「今までもこれからも、ずっと祝福しているわ」
「もし、今この瞬間に消えてしまって、会えなくなっても」
「消えてしまって、会えなくなっても、また待つわ」
「何年も?」
「何百年も」
「期待して?」
「何も期待しないで」
「運命だから?」
「運命だから」
 
 自分は彼女と心と心、魂と魂を繋いで、ずっと見つめ合った。唇を重ねたような気もするし、重ねなかった気もする。熱は感じたような気もするし、何も感じなかった気もする。変わらず彼女の瞳に色はなかったが、世界に色はあった気もするし、やっぱりなかった気もする。
 自分は彼女と、時間も空間もない本質で重なり合った。自分は、彼女を受け入れた。運命を受け入れた。そうして、彼女は消えてしまった。彼女はなぜ消えてしまったのだろう。自分はまた期待してしまったのだろうか。それでもなぜか、自分は、後悔はしていない。
 

 やっとのことで水門を通り過ぎて朝潮大橋を渡り切り、月島に着いた。ここまで来ると街中が温かく美味しい香りに包まれる。もんじゃを楽しんだ人々は、ほろ酔い過ぎて出来上がり、ストリートを陽気に騒ぎながら闊歩していた。お世辞にも爽やかとは言えない生暖かい海風の中、世の営みは今日も変わらず育まれていく。もうそんな時間になるほど、夜は更けていた。
 あんなに白いウンコに脳内を占領されて、全く働かなかった自分の頭は、数時間前が嘘のようにはっきりとしている。家のマンションに到着して、エレベーターを使わず階段で4階まで昇り、自分は何ごともなかったように家のドアを開けた。実際、何ごともなかった。
 
「おかえり。外はどうだった?」
 と、母は少し気を使いつつも出迎えてくれた。今までは、この気を使われる違和感が絶望と羞恥で耐えられなかったのだが、今日はむしろ感謝を感じた。
「うん。暑かった」
 と、自分は答えた。母は、自分の顔を見ると「少し近付いたみたいね」と微笑む。いつもの自分であれば、ここで直ぐに部屋に籠ったのだが、今日はもう少し人と触れ合っても良いと思った。自分は、珍しくリビングのソファに腰かけた。父は入浴中だった。長風呂だから2時間は上がって来ない。
「汗だくなのに……お風呂もうちょっと我慢してね」と言って、母は最近はまっている海外ドラマを見るために、70インチの4Kテレビを付けて配信アプリを開いた。「何か見たいのある?」トップ画面に流れるトレーラー動画を、ぽちぽちと回す。その中に、何度も生まれ変わる犬の映画があった。母はそれを見て「そうそう……」と思い出した。
「パパがね……ペットを飼いたいって言うの。何が良いと思う? 次の休みに見に行かない?」

 母はずっと生きものを飼いたがっていた。今まで父も母も出張が多かったため我慢していたのだが、後はこの地で余生を楽しむのみ。長年の夢が叶うのだ。母は瞳をきらきらとさせて、母の未来には何の不安もないということを見せつけて来た。
 自分はボサボサで癖の強い髪をいじりながら答えた。
「……蛇は駄目。鼠を食べるから。犬だったら黒か茶色が良い。後、メスが良い」
 そこまで言って、少し考えた。そして、

「……それから、白いウンコをする生きもの以外が良い」
 と、付け足した。


ご清覧賜りまして誠にありがとうございます。
是酔芙蓉ぜすいふよう

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