命に好かれている
カンザキイオリの代表曲に『命に嫌われている』という曲がある。私はこの曲が大好きだ。しかし、私の人生の指針にしたい言葉は、どちらかと言うと「私は命に好かれている」だ。
このイザヤの御言葉(の前半)は、私が救われた時からずっと私の魂に語られている御言葉だ。それでも、本当の意味で受け入れることができるようになり始めたのはやっと最近のことで、それまではどことなく反発感を抱いていたように思う。
その反発感こそ、カンザキイオリのあらゆる曲に共感する心の根底にもあるものから繋がって生え出ているものなのだろう。いまだにその無用で不要な枝は私に繋がったままな気がするし、切り落とさねばならないものなのだと分かってはいるのだけれど・・・。
ところで、その根底にあるもの、そして根っことは何なのだろう?
「神様助けて!」と思っている人は、きっとこの世界のどこを見渡しても存在するのだと思う。それでも助けてもらえなかった、必要な時に現れてくれなかった、そう思っている人もまたたくさんいるのだろう。そして、神様は現れなかったけれど、今はどうにかその辛いことを乗り越えて、そこそこまあまあに上手くやってるから大丈夫、なんて言う人だっているだろう。
カンザキイオリの曲には、そういう人たちの心を捉えてしまえる力があるのだと思う。
でもそれって本当なのだろうか?
神様は私に現れてくれたし、助けてくれた。それを疑って、神様が差し出した手を取ろうかと迷ったのは私の方だった。
ここで言う「人」って誰だろう?私はイエス様のことなのだと思った。
イエス様は私の代わりに罪を負って十字架にかかってくださった。まさに身代わりだ。
この歌詞を聞くたびに思うのだ。そうだよ!私のための命?どうしてイエス様は私のためなんかに命を差し出してくれたんだろう?私なんかより、イエス様が生きた方が何よりも価値があるのに!って。
それでも、こうして私がイエス様の手を払い退けたとしても、イエス様が私のために命を捨ててくださった、身代わりに差し出してくれた事実はもうどうやったって変わらない。過去は変わらないのだ。
ただ私たちは、過去の意味づけを変えることだけはできるのだと思う。
無駄な、馬鹿な、あまりに愚かなことと意味づけるのか。
重大な価値があって、はかることのできないほどの宝だと意味づけるのか。
その選択をすることは、私たち人間の側にかかっている。
神様は前もってご自身の行動と、その選択肢を私たちに既に差し出したのだから。
私たちは、人のした行動を見てあれやこれやと批評することができるし、その批評の言葉を選ぶ自由がある。しかし、そこで否定的な批評を受けて自分が傷つくことは簡単に想像できても、自分が同じような否定的な批評を下した相手が、また同じように傷つくということについてはそう易々とは想像できないものらしい。
けれども、その難しい想像さえも、言葉を選ぶ自由と同じ自由によって、想像してみなければならないのではないだろうか。
批評や意味づけを与える対象が神様であってもそれは同じであって、そして、むしろ難しいくらいの選択をしてみせる方が張り合いがあって人生楽しいのかもしれない。神様だって肯定的な批評を喜ぶし、多少難しくてもそれを選んだ人を大いに祝福してくださる方なのだから。
私は命に好かれている。いや、もっと言って愛されている。
だからこそ、私はイエス様の手を取ることを選択し続けたい。イエス様こそが命なのであって、愛してくれるものには愛し返したいものじゃないか。
私は今日、「命に嫌われている」という選択肢を選ぶことをやめると、そう決心する。
2023/02/13
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