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ベジタリアンと培養肉のN1分析について勝手に想像する

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#ニュースからの学び

ぼくは自分がベジタリアンではないし周りにもベジタリアンがいない(もっとも本人がマイノリティであることを恥ずかしく思い―――もちろん、恥ずべきであるとぼくは思っていない―――、周りに一切自己がそうであることを言えずに黙っていた結果、今まで一切ぼくが預かり知らないのかも知れなかったり、何かしらの大きな経験を経て趣向が変化した人がいるのにも関わらずぼくが把握できていなかったりするのかも知れない)。

もっとも好きな人にベジタリアンは普通にいたりします。ぼくは映画ファンではないのでジャンルは違うけど、映画の中にいる人々は普通にベジタリアンだったりしますよね。なので映画好きな人とかはベジタリアンという概念について映画好きでない人よりも近しいと言えるのかも知れない。

そんな中でベジタリアンと培養肉の可能性について考えたい。ぼく自身が当事者じゃないので(培養肉加工業の利害関係者でなければ、ベジタリアンが周りにいるわけでもないし、当のぼくも違うという意味だ)、蚊帳の外から興味本位で書いているように見えるかも知れなく、それだけが懸念点である。

そして別にぼくは培養肉業をベジタリアンにぶっ刺すマーケティング方法を探したいわけでもない。加工業にもベジタリアンにも味方したいわけでないし、両者とも別に滅びてくれとか物騒なこと言いたいわけない。

培養肉とベジタリアンの関係とはいくつかに分けられる。

1:肉は肉だから食うわけない
2:肉は肉だけど、動物が死んでないから食う
3:ベジタリアンの身内がいるけど、肉という物の喜びについて教えたいから買って食う

また1は派生として、「その肉は命を殺した肉じゃないけど、何かを殺した末にある『肉』という概念がこの世にあったから結果的に産まれたもの」であるから食わない、という「1B」みたいな仮定により1の結果に至るケースがあるはずである(1Bに対して、1を1Aとする)。

さらに「1C」として、とにかく肉に類するものは食えない、がある。

もっと言えば、2と3は結果的に同じだ。

N1分析といいますか、購買という結果に至るまでのプロセスを場合分けしているだけのような気がしてきました。

あと培養肉を作るために生きた動物からえぐりとった細胞、という行為を結果としてどう受け取るかも考え方として存在する。アニマルライツに限りなく穏便に従うのであれば……動物を傷つけた時点で食い物として終わってる気がする。

そうなると培養だろうがなんだろうが食えるわけがない……だが、アニマルライツとベジタリアンは交差する部分とそうでない部分があるような、同心円ではないような気がする。

培養肉はだめだけど代替肉なら上記の3つの諸条件をあっけなくクリアするような……気がする。代替肉が食えない理由があるとしたら、「そもそもそこまでして生き物をぶっ殺した結果の味を求めようとする行為がアニマルライツ的にダメっす」ぐらいでしょうか。ここまで来ると或る種の「ひねくれ」を感じずにはいられないような……

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