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生きた人間の反応に影響されるべきか、「故人ならこう考えるだろう」に左右されるべきかファン活か

ぼくはSNSを使っていた当時からお知らせ欄を観ないようにしていました。ヘッダ写真をお借りしています。

noteお知らせ欄改定

するとnoteのお知らせ欄が変わってしまい残念だった。ぼくは何かをくさすnoteは極力書かないようにしていますが、自分が利用しているプラットフォームなどについてはまた別です。脳死で肯定してしまうことは改善の余地を潰し、腐敗を招くため。

noteのお知らせ欄は99以上のお知らせは99+と表示するのですが、昨日を機に変わってしまった。5桁ぐらい行く人もいるんだろうか。それについてのアナウンスはされたのか?

お知らせを観ない理由

お知らせ欄を観ない理由としては人の反応に一喜一憂していたらSNSに自分の気持ちが握られてるみたいでウワーだし、何より人の反応に合わせて自分の書き込み内容を変えてしまいそうでそいつはナンセンスじゃないのかなと思ったためだった。

人が反応してくれるから、本当はこういうことが書きたかったけど別なアプローチにしよう、とかの状況が始まってしまうと、それは自分の中に他者が介入した状態ではないだろうか?純然たる自己実現ではないのではないか?

とまで言い切ってしまうと、じゃあ死者はどうなるんだとぼくの中の客観視点が問いかけてくる。

故人に影響される、について

ぼくらが故人について語る時、よく「故人はそれぞれ遺された者の中に生きている」といったことを扱います。

ぼく自身、今はもう故人になってしまった人からそういう話をしてもらったことがある。「してもらった」と表現したように、それでいくらか救われたみたいな想いがあるから、この考えを一概に否定できないししたくないのでしょう。

でも死者はお知らせ欄に何も残すことはできないから、ぼくらがそれぞれ覚えているしかない。死者の遺したことと、生者が発信してくるお知らせは等価値なのだろうか?故人には伝達方法が遺されていないという点においては、故人の側の希少性が高い。人間は死を尊ぶものである。

すると生者から得る反応は、「お互い生きていればまた反応し合うこともあるだろう」程度の尺度となり、希少性が薄れる。自分の中で薄れた希少性から別に無理やり学ばなくたっていいのではないだろうか。

なぜかファン活の話

よく、好きな存在がいるなら。その対象が生きている(その活動的なものを引退しない間に)うちに応援しておけ、という言い回しが流れる事がある。余談ですがこれもまたもう少しぼくがあまり信用していない語で表現されるのですが、ぼくがその語を使いたくないため使いません。推薦という字のすいを使いますね。

しかしながらその応援の尺度も人によって様々である以上、応援の仕方を第三者に強要するような行為は軽くイカれてるんじゃないだろうか?そもそもなぜ好きなものが「応援対象」となってしまうのでしょうか?好きなだけで周りに推薦しなければならないのでしょう?

単純に、現代のバイラルマーケティングに分類されるファンマーケティングに無料乗り(ただのり・フリーライド)したいがために「ファンのあるべき姿」をファンに向けて強要しているのではないでしょうか。

「ぼく、きみのファンだよ!応援してるよ!」をSNSで発信するのは、現代だとただファンであることを表明したいがためだけではなく、その対象にエゴサーチしてもらいたいからみたいな意味も出てきてしまった。

とはいえファン発信はUGCになります。立派な宣伝行為に加担して挙げていることになる。本来なら対価をもらったって良いでしょう。しかしながらファンはその対象が何らか反応すると「してくれた」と思い、それが対価になる。属性……と言いますか内容としては「やりがい搾取」と変わらない。

お知らせ欄があるとこういうことになるから困りますね。いい夢を御覧ください。

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