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前衛だと思われたいアヴァンギャルドほど前衛じゃないものはない

別にぼくは横尾忠則について正負の感情を持ち合わせてはおらず、これを書いたあとも別に変わらない。ヘッダ画像をお借りしています。

そしてまたぼくは夏の暑さにやられており、命の輝きを失おうとしている。つまり全方向から打ちのめされんとしており、そのすべてに対抗しうる強い心を持たねばならないのだ。そんな中で横尾の書評を読み、素直に思ったことを吐露しているだけだと言いたい。こんなに建前を並べるということは、ぼくは今から批判しなければならないのだ。

横尾忠則は美術家らしい。何をしているのか知らない。隈研吾とか安藤忠雄とか岡本太郎みたいな辺りにいる。ぼくの脳においては。

その彼が書評を書いているわけです。文字で勝負してない人が文字で勝負しに来ているような構図に見えないこともない。

でその書評がふざけた印刷をされていた。書評欄には独立したコーナーが見開きで5つぐらいあり、個人の商標欄がそれとは別に6-7個ぐらいある。その7個のうちの1つが大先生だった。

どのような印刷かというと字が逆さに印刷されてい、逆さではないゴシック体の巨大な字が背景的に正位置にて印刷され、「未 完」と書かれている。

読者は、紙面を逆さにしないと大先(大先生のことだ)の書評が読めない。まずこの時点で、大先は読者に不便を強いるダークパターンマーケティングに足を一歩踏み入れている。

またその奇をてらった印刷、何がしたいのかわからん。南方熊楠に大層思い入れがあるのかも知れないが、その本の書評を逆さに印刷し、正位置で未完と書く状態で表現されて何を思えというのか?南方熊楠が(もはや南方熊楠の話だったのかどうかすらも忘れてしまうぐらい記憶に残らなかった)何某かの「完成」状態をひどくつまらないものだとその本の中で評しており、未完の状態つまり完成までのプロセスに意味があるんだってことを書評の表現で示したんだろうけど、別にそうする必要があるか?

奇しくもいまはまともな暦の中にいる人々にとっては盆らしい。盆とは休みだ。先祖の霊など次第に関係なくなって来て久しいが別に仕方ないんじゃないか。

つまり盆である時期に書かれた書評はいつもとは違う層に読まれる可能性があるのだ。そこへこの奇をてらった紙面が提示されてみろ、とでも考えているんじゃないのか?

昨今のマス媒体も面白いわね、とか思わせたいのだろうか?つまり紙面に貢献しているつもりなんだろうか?この大先生は。

そりゃ美術の世界からマスメディアに乗り込んできて、といいますかマスメディアからたぶん依頼されて書評を書いてくれと言われ、金を稼いでいるはずだ。だったらまず字で勝負すべきじゃないのだろうか。

なぜ当該大先の書評が「奇をてらった」という評価を得るのかといえば、他の人は字を逆さに印刷させるなどというわがままをせず、一定のルールに従順な姿勢を示しつつ書評を書いているからだ。

つまり大先は紙面でこんなことを続ける限り、ルールを逸脱することで美術家とやらの矜持を示したい人、でしかない。そんなもん芸と言えるのか。

少し以前にも似たようなことがあった。その時は印刷面は普通だったが、背景になんか書いた奴(偉い歴史的人だった気がする)の顔が印刷されており、黒い部分はいちいち文字を反転させてやらねばならず、クソ読みづらかった覚えがあり、メディアからの注意書きで※なんだか知らねえけどこのように表現してます 的な言い訳が記載されていた。

ところが今回はその言い訳も書いてなかった。奇をてらったことをしてんだから、メディアがいちいち言い訳すんなとか大先は言いたいのだろうか。

でもそれもこれもルールを逸脱している時点で乾いた響きにしか聞こえぬ。だって大先生は、こんなしちめんどくせー印刷を全国の印刷業者かなんかの全店舗に実際に足を運んで「美術表現としての矜持を保つために、こんなクソめんどくせえ印刷をさせてしまい、申し訳ありません」とでも言ったのだろうか?

言ったのであれば納得する。言ったのであればニュースになるだろう。でもなっていない。じゃあ単なる常識はずれだ。

そしてぼくは横尾に感謝せねばならないのだろう。このように「生きるための反骨的精神・衝動」を与えてくれた大先生に感謝すべきなのだろう。すべてが斜めに見えていたぼくのこの惰性の中に、このアヴァンギャルドな表現という水に対する一点の墨を与え、ぼくの心の波紋を掬い上げてくださった行為に感謝せねばならないのだろう。

ぼくが生きていたいのかどうかは置いておいてだ。

でもそもそも、美術ってもの自体が「その美術が発出されることで、何ら関係ない聴衆である第三者から何らかの反応を引き出す、その第三者の感情に何かをもたらす」ために存在していることを考えれば、ぼくがこのように何の見返りもなくこのインスタレーションに対する反応を書いていることこそがこの奇をてらった表現に対する最大の敬意を払った行為になっちゃってるので腑に落ちないんだけど。

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