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46. 選択肢は多い方がいい

 個人的に、私は何をするにも選択肢は多い方がいいと思っています。
そのことに気がついたのは、ごく数年前。私がこの世で一番尊敬している、開発研究者の吉藤オリィさんが「人にとってとても不幸な事は、選択肢がなくなる事だ」と仰っていたのを聞いたことがきっかけでした。(オリィさんについてはまたいつかきちんとnoteを書きます)

その時から「うんうんそうだよね」と、同調はしていたものの、きっとこの時点ではまだ、その言葉の本質を理解することはできていなかったのでしょう。
本当の意味で理解をすることができたのは、オリィさんを知ったその2年後。当時付き合っていた彼が、癌で亡くなった直後のことでした。

その時の私は、会社勤めをしながらの一人暮らし。彼とは籍が入っていなかったため、当然会社から「忌引き」なんてものはもらえず。
お通夜と葬儀の2日間だけ休みをもらって、彼が亡くなったその日も私は働いていました。

職場はギリギリの人数だったため、普段から一人休むと誰か代わりの人が出勤をしなければいけない状況。そのためか、私の状況を知っていても誰ひとりとして「休んでいいよ」と言ってくれた人はいませんでした。(というか、上の上司2人が自分のことしか考えない人たちだった(悪口))

正直、その時の私は精神的に働ける状態ではありませんでした。普通なら、会社を休むか辞めるかして、実家に帰るという選択をとったのかもしれません。実際、SNSで知り合った自分と同じ境遇の死別仲間は、親を頼って仕事を休んでいる人もたくさんいました。
だけど、私は親と折り合いが悪かったため、そういった手段をとることもできず。亡くなった彼に申し訳ないので、どれだけ現状が辛かろうと、自ら命を絶つという選択もできません。

そうなると、その時の選択肢は「生きるためにお金を稼ぐ=仕事に行く」の1つしかなくなります。そのため、私は葬儀翌日から夜も眠れず、食べれず、それでいて吐きながらの状態で会社に行っていました。
「選択肢がない地獄」を、この時ほど感じたことはありませんでした。

そこからいろいろと準備を重ね、彼が亡くなって1年半ほど経って転職。今は地元の総合病院の小児科で、医療クラークとして働いています。

小児科といえど、総合病院のためか、私が勤めているところは風邪の子だけではなく「不登校」の子供たちも多く来院します。小学生中学生と、年齢に関わらず、学校に行けない理由もさまざまです。なかには、「自分でもどうしてか分からないけれど行けない」という子もいます。

子供たちの伏目がちに俯いている表情を見るたび、私は彼が亡くなった直後の自分と、その子たちを重ね合わせてしまうんです。

 義務教育となる小学生中学生のうちは、学校が世界のすべてに思える子供も少なくないのかもしれません。
‟子供は学校に行く”という、当たり前に定められた世の中のルールから外れると、ダメな子として世間や大人から認識される。だって、学校へ行くのは「当たり前」だから。

だけど、その当たり前とされるルールのなかに、選択肢はあまりにも少ないように感じます。

たとえば、大人が会社へ行きたくなかったら、転職をしたりフリーランスになったりと、今と違った方向性を選ぶ手段は、いくらでもあるでしょう。なんなら年齢に関係なく、また大学へ通い直すことだって可能です。
しかし、子供の場合はそうもいきません。
住んでいる区域や親の仕事の都合で、通う学校は強制的に決まります。転校をしたくても、義務教育のうちは子供だけで行きたい学校を決めることもできません。
ならばひとりで生きていくために、社会で働くか?そう考えようにも、まず、小学生を雇う企業なんてどこにもないでしょう。中学生くらいになれば、住み込みで働ける場所はあるのかもしれませんが、ものすごく厳しい道のりになるはずです。

そうなるとやはり、子供のうちは決められた学校へ行き、決められたクラスで、決められた30~40人ほどのクラスメイトの仲から友達を作り、生きていくという選択肢しかないんです。

酷だなぁ、と感じます。
世界には何万人、何億人という人がいるのに、たった30人ほどの人間と馴染めないだけで「あの子は人付き合いが上手くできない」「だから学校へ行けない」という評価をくだされる。自分で選んだ学校でもないのに。

私は小学校~中学校と通常通り学校へ通っていましたが、学校がものすごく楽しかった記憶もなければ、勉強もなんのためにするのかよく分かっていませんでした(高校は楽しかった)
もし今、自分に小学生くらいの子供がいたとして、「学校はなんのために行くの?」と問われても、上手く答えることができるか、正直自信はありません。もちろん、大人になった今、勉強の大切さや人付き合いの重要さは身に染みて理解しているつもりです。知識だけではなく、心身の発達にも、同年代の子と接することのできる学校という場は、きっと必要なのでしょう。また、自分の年齢的に、子を心配する親の気持ちも分かります。

ただもう少し、親元でしか生きていけない子供たちにも、選択肢のある世の中になればいいなと、最近はそのように思うんです。そして、自力で生活ができるようになった大人は、選択肢があることの大切さを見失わずにいて欲しいと感じます。

 時々、「選択肢が多いと迷うから嫌だ」と言っている人を見かけます。その気持ちも分からなくはないのですが、選択肢があるというのは、それだけで贅沢なことです。選べるって、幸せなことです。きっと私たち大人は、ひとりじゃ何もできなかった子供の頃より、何をするにも選択肢の幅は広がっています。選択肢さえあれば、その後は自分の力で物事を良い方向に変えることだって、いくらでも可能になるんです。

診察室で、「学校へ行けない」と俯く子供たちに、私は立場上なにも言う権利はありません。安易に言葉を吐いたとしても、その後の責任を負うこともできません。
だけどもし、そういう子供たちと直接話す機会があるならば、カケラでもいいから、今とは別の選択肢を一緒に探してあげられる大人でありたい。

居場所も、やりたいことも、自由に選択ができようになった今、そのように思います。



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