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ベトナム・カンボジア旅行記 -4日目- 凄惨な内戦の記録。

2年前のちょうどこの時期に行ったインターンシップツアーを、なぞるように投稿しています。今日は4日目。4日目はカンボジア観光省、トゥールスレン収容所、プノンペン国立大学、キリングフィールドを訪れました。一気に紹介すると記事がとんでもなく長くなりそうなので、トゥールスレン収容所とキリングフィールドをピックアップして紹介しようと思います。

前置きが長くなるので、写真だけ見たい方はトゥールスレン収容所、キリングフィールドまでスキップしてください。

カンボジアの歴史について

カンボジアといえば、どんなイメージを抱くでしょうか。国旗に描かれているアンコールワットのイメージが大きいかもしれません。
カンボジアの起源は、6世紀後半にメコン川中流域にクメール人が建てた国です。中国史料には「真臘」という名前で出てきます。7世紀にメコン川下流域の扶南(貿易港オケオで有名)を併合して、802年頃にアンコール朝が成立したとされています。アンコール朝は1432年まで26代600年続きましたが、タイの圧迫により崩壊しました。

帝国主義全盛の1863年にはベトナムに対抗するためにフランスの保護国となり、1887年にはフランス領インドシナに組み込まれました。第二次世界大戦でフランス本国がドイツにボコボコにされると、日本はフランス領インドシナへ進駐します。時の国王シハヌークはカンボジア独立のために日本に呼応しますが、終戦後は再びフランスの保護国に戻るのでした。

ようやく独立するも…

戦後、シハヌーク国王は国際世論に不完全な独立を訴え、その甲斐あって1953年に悲願の独立を果たします。シハヌークは1960年には国家元首も務めるようになります。しかし同年から隣国の戦争が本格化します。そう、ベトナム戦争です。この年に南ベトナム解放戦線が結成され、ベトナム内戦は激しさを増していきます。1965年にアメリカが北ベトナム爆撃を開始すると、1970年に事件が起こります。シハヌークの外遊中に親米派のロン=ノルが軍事クーデターを起こすのです。シハヌークは中国へ亡命するのでした。

プノンペンが血に染まった日

「クメール=ルージュ」。フランス語で赤いクメール人を示すこの組織は急進的共産主義を掲げました。指導者であるポル=ポトに率いられたクメール=ルージュは、ロン=ノルを破り、民主カンプチアを建国しました。民主カンプチアは集団所有を原則とした社会を創りだそうとしました。聞こえはよいのですが、実際はポル=ポトによる独裁で他派の幹部は粛清され、命令に従わないもの、反逆者は虐殺されていきました。その爪痕が刻まれているのが、以下に紹介するトゥールスレン収容所とキリングフィールドです。

トゥールスレン収容所

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トゥールスレン収容所は、1976年に元々小学校だった建物が強制収容所に転換された建物です。現在はトゥールスレン虐殺博物館として、拷問室が当時のまま保存されていたり、収容者の写真や、拷問の様子を描いた絵が展示されています。

あまりにも生々しすぎて、吐き気を催してしまう人もいるかもしれない。それくらい悲惨な展示でした。

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この写真は拷問室です。当時の拷問器具が残っています。血糊が床についてるんですよ。思い出すだけでも悪寒がします。それでも、昔はもっと血痕があったんだと、ガイドの方が仰っていました。
ABCDの合計4棟があるのですが、B棟には収容者の写真が展示されていました。老若男女、子供の写真までありました。それら全てがクメール=ルージュの犠牲者です。この収容所で尋問、拷問を受け処刑された人は約2万人。内2000人が子供だったということです。乳児は、母親とまとめて「処置」されたということです。

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自殺や脱走がないように回りは有刺鉄線で囲まれています。小学校が牢獄になった経緯も合わさり、私の脳裏にはミシェル・フーコーの顔がよぎったのでした。
この収容所から生還したのはたったの7人。その内の一人であり、ご存命であるチュン=メイさんにお会いすることができました。

キリングフィールド

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この日最後の研修場所であったキリングフィールド。これ、なんだと思いますか?




正解は、「慰霊塔」でした。ただの慰霊塔ではありません。内部には処刑された人々の頭蓋骨が積み上げられています。あとで載せるので、苦手な方は引き返してください。

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トゥールスレンに収容された人々は、プノンペン市内から15キロ、人の少ないこの地で虐殺されました。129の墓穴があり、内89の穴が発掘されています。数年前まで、散乱する犠牲者の身に着けていた衣服や骨の破片を踏まずには歩けなかったとのことです。

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墓穴のひとつ。ガイドの方も声を詰まらせながら解説していらっしゃいました。処刑する人も命令を遵守しなければ処罰されるので、殺した証拠として首を斬り報告に行ったようです。殺害はほとんどが撲殺。化学薬品での毒殺もあり、ナイフの代わりにヤシの葉が使われました。

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手向けられた多くの装飾品。女性とともにここでは乳幼児が撲殺されました。

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積み上げられた頭蓋骨たち。各頭蓋骨には死因を示すカラーシールが貼られています。下に処刑に用いられた器具がありますね。この頭蓋骨1つ1つに生命が宿っていたとは、信じられないというか、信じたくない、嘘であってほしいというような、なんと表現すればよいのかわかりませんが、大きなショックでした。

ポル=ポト政権のその後

ポル=ポト政権は1979年に崩壊しました。1975年に国内を統一したベトナムは、反ポル=ポトのヘン=サムリンを支援し、79年にポル=ポトはタイ国境へと逃亡しました。ヘン=サムリンはカンボジア人民共和国を設立。しかし軍事力をベトナムに依存していたヘン=サムリン政権は、ソ連の衰退によって援助が得られなくなったベトナムがカンボジアが撤退すると瓦解。
1991年にカンボジア和平協定が結ばれ、1993年には新憲法が制定、再びシハヌークが国王に就き、立憲君主国が成立しました。
シハヌーク王は2012年に逝去。激動の時代を駆け抜けました。

さて、ポル=ポトはというと、最期がクメール=ルージュ内での仲たがいによって1998年に毒殺、または服毒自殺したと言われています。(詳細は不明)

ポル=ポトの負の遺産は未だに根強く残っています。ポル=ポトは原始共産主義を唱えました。これは、農耕の時代であれば共有社会を創れる、という考えです。この思想の下、ポル=ポトはまず知識人を虐殺しました。まず眼鏡をかけていたら殺されます。カンボジアに学校を建てよう!みたいな話、耳にしたことありませんか?これは知識人が虐殺された結果、カンボジアでは教育水準が著しく低下したからなのです。また、ヘン=サムリン政権樹立後、タイ国境付近での抵抗にて、地雷を敷設しまくったので、タイとカンボジアの国境付近には今でも取り除かれていない地雷が残っています。地雷についても、数日後の記事で紹介する予定ですので、ご期待ください。

参考文献
『世界史用語集』全国歴史教育研究協議会編,山川出版社

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