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最後から二番目の歌で席を立つ

この夜明けDAWNの刹那に

あの日の嫌な思い出や記憶は、血液に溶けて、駆け巡って、真夜中に蘇っては時間と健康と睡眠を喰い散らかしてゆく。それでも一筋の柔らかい月明かりだけは、夕暮れすらおっかなびっくり歩く僕の様な人間を啓蒙けいもうし、救いある方向へと導いてくれる。
ある一線ラインを越えればヤーナムは夜明けへと変わる。ただその一線がどこかは誰にもわからない。その一瞬の“狭間”をもしも感じ取れたなら、それは幸か不幸か人の道を外れる事になる。そういう矛盾をはらんでいるから夜は辞められない…辞められるもんでもないか。だからこうして今、この夜を誰かと…いや、これを読む“あなた”と分け合っていたい。

画面に映るのは…

僕は小さい頃から様々なサブカルに毒されてきた。それも半端なモノじゃない。令和の今だって80sや90sのVHSビデオテープを集めては悦に浸り、テレビデオにガチャコンとぶち込むその瞬間、絶頂エクスタシーすら感じる。サブスクの古い映像作品も赤・白・黄色の端子に変換してぶっ刺してブラウン管で観てる。それくらい映像作品を“観る”ということにこだわりを持っている。
これまでの人生の中で多くの映像作品を観てきたが、愛するほどのものはそう多くない。本当に特別スペシャルな作品はあんまり他人に教えたくはないもので…本当に大切に思う人にしか教えてない。それはその映画達に自分の心が映りすぎているからで、そんな破廉恥はれんちな共有はオタクとしてというより、人としてどうか?とも思う。自分はサブカルに対してかなり過激派で狂信者オールドタイプだと自覚しているので、仲良しこよしで肩を組んで好きなものを軽率に共有し合う「#〇〇好きと繋がりたい」なんてタグ付けしちゃうような程度レベルの低い自称オタク(笑)と同じ仲間だなんて思われたく無い。クソ喰らえf*** you。汚い言葉で申し訳ない。けれどそんな程度の覚悟の消費なら、もっと自分を簡単に高める物に時間や金リソースを割いた方が良い。

映画にみる“黄金の精神Heart of Gold

ある日、恋人と観たかった映画を別れてからふと思い出した。なんで忘れてたんだろうって不思議だったんだけど、きっと“付き合っている間に観るべきではない”という啓示だったんだろうと思う。そのどれもがラース・フォン・トリアーの映画で神への献身と愛をテーマにした『奇跡の海Breaking the Waves』や、ドグマ95に則った実験的映画『イディオッツIdioterne』や、スタジオの床に白い枠線と説明の文字を描いて建物の一部をセットに配しただけの舞台で撮影された『ドッグヴィルDogville』『マンダレイManderlay』といった所謂“黄金の心”を持った女性達の映画であった。
本来は『奇跡の海』『イディオッツ』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を黄金の心三部作と呼ぶが、僕は様々な映像作品の中に“黄金の心”はあると思っていて、それら全てを“黄金の精神”と呼ぶ事にしている。

小便はすませたか?神様にお祈りは?

昔からラースの映画が好きで、観られるものはほとんど観た。ずっと昔に書いた記事でも少し語ったが『ダンサー・イン・ザ・ダークDancer in the Dark』(以下DitD)は誰しもが通るとは思う。世間では軽率に「暗くて悪趣味だ」とか「救いのない鬱映画だ」と触れ回る人間もいるが、オレは愚かなソレをある種の指標にしていて、安い感性に踊らされたのだなと心の中で哀れんでいる。ただ前提として勘違いして欲しくないのは、この映画に限らず何か創作物に対する批評は好きにしてもらってかまわないし、そんなの誰かが許可したりしなくたって自由に感じ、尊重するべきだと固く思っている。けれども「イイ」も「ワルイ」もそれなりの覚悟と責任を持って発言してほしいし、あくまで“個人的な意見”として留めておいて欲しい。昨今の流行貴族ミーハーはなぜか、考察や研究に対して異常なまでに固執していて、感情や感覚的な微妙なニュアンスな心を蔑ろにし、そこに根拠ソースを求めすぎる傾向にある。「YouTubeで〇〇が言ってた。」とか関係者ならまだしも、無関係な“搾取家イカサマ”の言葉を鵜呑みにして、それを観て自分がどう感じたかという事は重要視しない。そんな他人のフィルターを通して見たモノに、もはや精神的、感覚的な価値はほぼ無いだろう。
人間として何かを摂取するって事は、それなりに何かが変わるって事だからカタカナの“テキトー”じゃなく、相応しい“適当”の精神を持って摂取しなくちゃあ平等フェアじゃあ無い。
オレがこれから書くことは、映画評論家の誰かが言っていた事でも、ネットに書かれていた事でもない。オレの心が感じて固めた論理だから。大きく偏っているし「それは違うんじゃね?」って意見もわかる。だからオレはDitDについて覚悟を持って書くね。
もしもまだ観たことが無ければ、続きを読む前にフラットな気持ちで観てみてほしい。その上でオレのこの戯言たわごとが、少しでもあなたの精神的価値を高めるバフになるとするならば、人生に置いてそれほど幸せな事はないだろう…。

『ダンサー・イン・ザ・ダーク』

ダンサー・イン・ザ・ダーク』(原題:Dancer in the Dark)は、ラース・フォン・トリアー監督、ビョーク主演の、2000年製作のミュージカル映画。『奇跡の海』と『イディオッツ』に次ぐ「黄金の心」3部作の3作目とされる。アイスランドの人気女性歌手ビョークを主役に据え、手持ち撮影主体のカメラワークやジャンプカットの多用によるスピーディーな画面展開、不遇な主人公の空想のシーンを明るい色調のミュージカル仕立てにした新奇な構成の作品である。

Wikipediaより

はじめにDitDを語る上で我々が日々視聴する、エンタメの中の暴力性の消費と、ミュージカル映画の小狡こずるさを理解しているかどうかがかなり重要になってくる。

我々はエンタメの中の暴力を消費している

1997年公開のミヒャエル・ハネケ監督作品『ファニーゲーム』。2008年セルフリメイクされた『ファニーゲーム U.S.A.』。映画と現実の虚構もさる事ながらこの映画の中で圧倒的不条理パーフェクトな暴力を観る事が出来る。この映画も一部では酷評され、あまりに悲惨過ぎて発売禁止の運動も起こった。けれどミヒャエル・ハネケがこの映画をただサディストに向けた悪趣味で作ったわけもなく、我々がエンターテイメントとして日々消費している映画・アニメ・漫画、その中でヒーローは正義の名の下に力を行使する。悪の存在を徹頭徹尾てっとうてつび許しはしない。だがそれもれっきとした“暴力”である。それを喜んで観るのならば、『ファニーゲーム』の中で起こる暴力も本質は同じで喜んで観るべきである。と伝えたかったのだと僕は思う。どんな大義名分があろうと“人が人を殴る”ということに変わりないのだ。実際にこの映画の中ではグロテスクなスプラッターシーンは一つもない。チープな表現は何もなく全てが緻密に計算されている。キチンと組み立てられた純度の高い暴力は「あぁ…どうか…」と嗚咽し祈るほど無慈悲に行われる。救いへ向かう一瞬の希望も映画のルールを破り、第四の壁を越えリモコンを持つ悪魔が巻き戻しボタンを平気で押しやがる。そんな絶望の空間を約二時間観る羽目になる。本当に折れるのは覗き見ている我々の心だ…だがそれすらもこの映画の前ではくだらぬ祈りで、その矛盾した偽善の心が人間としての醜さを自己に投影される形で表現している。もし観終わった後、後味の悪い不快感が胸の内にちゃんと残るならば、今一度エンタメの中の暴力性について考えるべきである。
そしてこの映画の話はDitDにも大きく影響するので出来れば観てもらいたい。

ミュージカル映画の小狡さ

僕はミュージカル映画が正直好きじゃあない。それはほとんどの作品が音楽や歌い出す理由付けがキチンとなされていないからだ。その上、大した物語ストーリーでもない事を無責任に良い音楽や歌でぼやかしている。だがDitDの中での華やかで美しいミュージカルシーンは、移民として貧しい生活をするセルマが現実逃避の為に脳内で無意識に作り出すただの幻想に過ぎない。現実に何も影響もしなければ、音楽や歌が多くの問題を解決するわけじゃない。主演のビョークの素晴らしい歌が、作中のセルマを豊かにするわけじゃない。あくまで地獄へ降る階段をほんの少し緩やかにするだけだ。DitDまでのラース作品を知っている人ならば、なぜこんなに芸術性や技法や表現に拘る監督が一転エンタメ性の強いミュージカル映画というジャンルをやるんだ?と思ったに違いない。けれどDitDは絶対にミュージカル映画でなければ成立しない仕掛けがあるのだ。

最後から二番目の歌

主人公のセルマがミュージカルについて
「最後から二番目の歌が始まると映画館を出るの。そうすれば永遠に映画は終わらないわ。」という台詞がある。
僕はこの思想が大好きだし、この台詞の中にセルマの柔らかい心がしっかりと写っているように感じる。それは昨今のオタクが無くしてしまった食い尽くすような消費行動とは大きく違う。忍び恋のように密やかに慈しみ愛する。そういう精神は現代人の我々は見習うべきだと僕は思っている。だが本当に重要なのはこの「最後から二番目の歌」という言葉ワードだ。
作中でセルマは彼女にとっての最善であり最良の選択を取るが、それは観ている我々からすれば決して心良い結果ばかり生むわけではない。
「あぁ…どうかこれ以上…こうならないでほしい…。」と思えば思うほど、悪い方向へと速度を増し、石は止まることなく転がり続ける。無実の罪で絞首刑を言い渡され、独房で一人寂しく打ちひしがれても、どうせ病気で視えなくなってしまうこの眼でさえ、もう二度と愛する息子の顔を見れないとわかっていても、それでもセルマの心は息子の眼にこの先きっと映る未来や希望の為に折れなかった。それは紛れもない黄金の精神で、彼女は彼女の心に従い、何も憎む事なく果たすべき使命を果たしたのである。それを僕は単に胸糞悪いバッドエンドとは思えない。首に縄がかかり最後の瞬間が迫る時、セルマが確かに現実で歌うのは『最後から二番目の歌』だった…。
この映画を観終わった時の衝撃と喪失感はとても簡単に消化できるものではない。人によっては体調を悪くするかもしれない。あの最後ラストシーンを観てしまったら観る前の自分にはもう戻れない。けれど僕が本当に伝えたかったのは、もしも我々がセルマが言っていた「最後から二番目の歌」で席を立てていたら…どうだろうか?この映画が終わることはなかっただろうし。彼女が落ちる音を聞かなくて済んだだろう。もしかするとそれは映画としてナンセンスなのかもしれない、観ることをやめる事で完成するなんて間違っているかもしれない。けれど上述した『ファニーゲーム』でも言った通り僕らは大小に関わらずエンタメを消費、いや浪費している。日々増えてゆくコンテンツに翻弄され、テキトーな話題作りの為の流し見や、ぼーっとただ視界に映すだけの視聴や、作業用に片手間で〜なんて贅沢すぎるだろう。そういったぞんざいな消費ばかりを繰り返している。そんな変わり果てた同志達を見るのは悲しい…ただ椅子に座って待っているだけが“観る”ではないんではなかろうか?リモコンは“あなた”の手にあるのだから。

吉川れーじ

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