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選ばれなかった子供たち


当たり前に平等じゃない

恐ろしい言葉

1997年以降、携帯玩具からさまざまな分野に派生したメディアミックス作品『デジタルモンスター』シリーズ。
99年の映画『デジモンアドベンチャー』(以下デジモン)は東映アニメフェアの中の1作として公開され、たった20分であったが確実に子ども達の心を鷲掴みした。関東ではその放映日はテレビシリーズ第一話の放送日だったとかなんとか…映画について細田守の才能は枯れたとか子どもの描写のリアルさとか電脳生物と子どもの関係とか、色々語りたいことはあるんだけどそういった固い話は一旦置いておいて…作中に登場する“ある言葉”が大人になった今も脳に強く刻まれている。それは“選ばれし子供たち”である。


令和のオレのデジモン

選ばれし子供たち

子どもにとってアニメの主人公は、多くの場合が理想や憧れの投影である。小学校低学年の記憶の中の自分は「大きくなったらこんな風になりたい」と漠然と心焦がれた様に思う。(まぁ歳を食ってもアニメに心を注ぐ事はやめられなかったが…トホホ。)
『デジモン』の中で主人公達小学生は様々な共通点で繋がり、デジタルワールドへ行くのだが、それは彼らが“選ばれし子供たち”だからで、じゃあその世界の中で選ばれなかった子どもたちはただ平凡に暮らしてる??多分、否だろう。なぜならデジタルワールドで起こる問題が現実世界へ影響する描写もあるからだ。日常生活の中にもそれぞれにドラマがあってそれぞれに苦難も幸福もあるはず。
「いやいや…そんなとこまで描写してたら作品になんないじゃん〜野暮だよ〜バカだなオマエ〜。」
て思うだろう。だがオレはそれがきちんと描かれた作品を知っている…自分が選ばれなかった事に絶望しそれでも最後まで命を全うした“選ばれなかった子供達”が主人公だったアニメをオレは知っている…!!(CV関俊彦でお願い)

伝説巨神イデオンVHS版 接触篇・発動篇

イデの光とその導き

伝説巨神イデオンとは

1980年に放送された『伝説巨神イデオン』。最後は打ち切りだったが、その後劇場版2作にまとめられ特に2本目の『発動篇』のラストは、自作をほとんど褒めない富野由悠季が笑顔で「観てください」と言った*1 くらいに素晴らしいSFロボアニメなんだが、皆殺しとか全滅エンドとか悪い噂だけが一人歩きして、知った気になったオタク(笑)が多い作品でもある。オレはVHSで夜な夜な何度も観るくらい狂信してるんだけど、なんでそんなにイデオンがイイかって話は観てないヤツに話して解るほど浅くなくてだからと言って絶対観てほしい、ちょーオススメ!とも思わない。真に好きなモノや好きなコトは大っぴらに明かさずに、容易に知られたくない秘匿であるべきだって思う。突き放す様な事を言ってしまったが、大切なのはイデオンの中で起こる生命の選別の恐ろしさと現代を生きる僕たちがそうした選ばれなかった子供たちを生み出さない為にどうすべきか…という所にある。

復活のとき

突如始まった地球とバッフ・クラン星の戦争に巻き込まれて、主人公である少年コスモ達はなし崩し的に掘り起こした古代文明の遺跡(クソデカトラック笑)“イデオン”に乗る事になるんだが、このときまさかあんなラストを迎えるとは誰も想像しなかっただろう。ましてや70年代から80年代にかけてのロボットアニメはとにかく襲い来る敵をカッコよくぶちのめすってのが多かったし。だけどイデオンのOP曲には「迫り来る悪の力に 勇気を示せ」とあってガンダムでは「巨大な〜敵を〜うてよ〜うてよ〜…」なんて歌ってたじゃん。そこでイデオンはこれまでの富野作品とはまた一味も二味も違うかも…と思えたリアタイ勢はいなかったんじゃないかな。

スペース・ランナウェイ

超文明のイデオンが欲しいバッフ・クランから逃げる様にコスモ達は地球を離れ、様々な場所で争いを続けていく中で「イデに乗っているから襲われるんじゃないか…?いっそ捨ててしまえば良いのでは…?」と考え爆破しようと試みるが、どうしてもどうしても邪魔が入る。仕舞いにはバッフ・クランに取られそうになってしまい結局またイデオンに乗る運命を辿ってしまう。コスモ達が降りたくても降りられないのだ。無益な争いを辞めたくても止めたくてもどうしたって止められないのだ。何度となくコスモ達の命を救ってきた巨大メカ、イデオンが突然大きく恐ろしいものに変わった瞬間で初めて観た当時、僕はまだ高校生だったんだけど観ているこっちも血の気が引いてズォ…と冷や汗をかいたのを覚えているし、大人になった今も同じ様に感じてるから恐ろしいんよ…。

良き心・悪しき心

逃避行の中で確かに育まれる愛もあって、地球人のベスとバッフ・クラン人のカララとの間に新しい生命が宿った。それまでもイデは地球人の赤ちゃん、ルゥの危機に呼応するかの様に力を示してきた。
コスモ達はイデの真の思惑に気付いてしまう…。
「そうか…新しい生命…分かったぞ、イデがやろうとしてることが」
「イデは元々知的生命体の意志の集まりだ。だから俺達とかバッフ・クランを滅ぼしたら、生き続けるわけにはいかないんだ」
「だから新しい生命を守り、新しい知的生物の元をイデは手に入れようとしているんだ」
イデは無限のエネルギーを持つ集合意識であり、人類の希望である事に間違いはない。間違った使い方をしなければ永遠に人類の味方であっただろう。けれどこれまでの醜い争いの中で、人類の愚かさを見てその憎しみの心を根絶やしにすることもイデの導きの選択肢にあるのだと理解したコスモ達はどうすれば良いのだろう?
自分達がやってきたことが全て間違いで、この先の未来まで誰か(イデ)の手によって決められてしまう。そこに生きる意味はあるか?
思い出してほしいがこのアニメは1980年に放送されたものである…今から約40年前だぞ…?(汗

イデの導きに絶望するカーシャ

「じゃあ、あたし達はなぜ生きてきたの!」

コスモ達はもちろんバッフクランの人達も決して好きで人殺しをしているわけではない。それぞれがそれぞれに守るべきものを持ち、その星の人類の未来を思った結果がイデの意に沿わなかった。僕が思うにそもそもイデは人類に期待してなかった様に思う…憎しみ合い、歪みあって大切な人を殺しあうそれにウンザリしたんだと思う。イデの意思を見せられても尚、争いを止めない人類に心底ガッカリしたと思う。僕が崇拝する『デビルマン』の中でもそういった人間の醜さは描かれていた。あっちはもっと濃厚でドロドロ、ベタベタとしてるけど…。

僕が誰かを思いやることが本当にその人の為になるとは限らないし、逆にその人の言動を縛る鎖になっている事もある。そういう恐ろしさは日常で本当にすぐ近くに存在する。恋人を愛することも支配しているのと同ベクトルだから怖くて仕方ないじゃんね…産地直送新鮮美味なモノが受け取った時点で醜悪不味なモノに変わってるって想像するとゾッとする。そこまで気持ちや心に責任を持てないよ。

“人はわかり合えない”というテーマ自体は富野作品の中でも多く語られているし前年のガンダムでもしっかりと描かれていた。けれどもこれにはその先があって、それでも人はわかり合おうとするという所に美しさがあると僕は思う。それは富野と共にガンダムを作り支えた安彦良和も語っていた。*2(なんか2人は仲悪いけど笑)

コスモ最後の瞬間

コスモは少年なりに守るべきものの為に戦い疲弊し、時には大切な人を守れず哀しみに落ちた。それでもイデは彼を選ばなかった。次の生命の始まりの為に、彼も彼の恋人も家族も仲間も誰一人選ばれなかった。戦いが熾烈化する中で多くの子ども達がよく分からぬままに銃を人に向け、向けられる。お腹に子を宿すカララも例外なく、実の妹に撃たれ絶命してしまう。それでもなお、お腹の子はイデによって守られ生き続けていた。選ばれなかった子供たちは一体なんの為に生まれ、なんの為に死んでいくのか…そんなの今を生きる僕たちにも分からないよね。

いのりをいま君のもとへ

最終決戦でイデオンは敵の本拠地に突貫する。その位置を教えるのもまたイデの導きによるもので、最後の最後まで人類の良き心を試したが、双方が失ったものが大きすぎてもう戻れなかった。死が駆け巡る宇宙でイデだけが眩く煌めき、光り輝く。その時イデが発動した…光が全ての命を飲み込んでいく。文字通り全てを飲み込んで消し去った。そうしてイデは新しい生命体を作り出す…。

カララと新しい生命メシア

僕は死が恐ろしいものだと思わない。それはイデオンのラストにとても救われたからだ。憎しみあったはずの彼らも死後の世界では穏やかに話し合い理解し合っていた。自由に宇宙を飛び回り肉体という器から抜け出し、生きるという枷を外して仕舞えば心は何より純粋でいられる。オカルティックかもしれないけれど僕は富野由悠季は一度あっち側を見てきたんじゃないかと思う。それくらい素敵で柔らかい世界だった。そういった本当の死後の世界をアニメで、いや映像作品で観られるのは僕はこれだけだと思う。この発動編のラストだけだと思う。…知らんけど。大半の人はみんな生きる事に一生懸命で、自らの死を逃げだとか諦めだと言う。でも僕はそう思わないよ。悲しいかな誰しもが“選ばれし子供たち”になれるわけじゃない。確実に僕は選ばれなかった側だ…。みんなが人生の主役で羨ましい。勘違いだとしても羨ましい。(その強靭な精神が)

コスモに温かいキスをするキッチン

誰がどんな選択をしても自由だし、心のイデを発動して全て無に帰してしまうのも良いだろう。生を謳歌するのも素晴らしいことだ…でも全ての人類がそうなれるわけじゃない。生きることに向いてない僕みたいな人間も多くいる。でもきっと最後にはコスモ達のようにあっち側で自由に伸びやかに過ごせるビジョンを観せられてしまったら、この意味のない命だとしても死の瞬間まで良き心を無くさないでいたいと思う…かも。


長くなってごめんネ…


名前も知らない近所のネコがいて勝手にニャンちゅうって呼んでた。もう年寄りだったんだけどいつも寄ってきてすりすりしてくれてさ、オレは人見知りならぬ猫見知りして触るのついつい憚ってたんだよね…でもそれはさ、猫も知らないヤツに触られるのヤかもしんないって気遣いだったんだけど。ある日からスパッと見なくなって「あぁもしかしたら…」って思ったんだけど知らなきゃ何処かで生きてるのと同じで、所謂シュレディンガーの猫みたいなことで…でもある日その猫のお家に張り紙がしてあったんだよね。その猫ヤマトって名前でとっても長生きだったんだってさ…近所のみんなに愛されててそれを飼い主はもちろんだし、ヤマト本人もきっと感じてくれてたんだよね。そんなヤマトがさ肉体から解放されたあっちの世界が暗くて寂しい世界だったらオレはヤダよ…そんなの想像もしたくない泣いちゃうよ。絶対イデの最後みたいな柔らかくて優しい世界で自由にそらを駆け巡ってほしいよ。だってそうじゃなきゃおかしいもん…おかしいもんね。だから僕が心を注いだ生命達は今を生きるこの瞬間も、命尽きて終わってしまってもどうか自由でいてほしい。これを読むあなたの為に僕は祈って眠ります…。

THE END


脚注


*1『富野由悠季ワールドセレクション』富野由悠季監督インタビュー
*2 再び“ガンダム”と向き合った『THE ORIGIN』への道のり/安彦良和 マイ・バック・ページズ



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