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対談:自分の、論

対談人物(F:俺、A:安部ちゃん)

F:元気にしてた?

A:まあ、元気っちゃあ元気ですけどね………。

F:なんか元気ないんじゃない?君の信条はどうなったの?元気がなくても絶好調です、って言うと状況が追いついて来るみたいな。

A:あー、そんなこともありましたっけ。私もそろそそ良い年齢ですからねえ。

F:体力の問題かね?俺は元気だな、今んとこ。リタイヤして、あんなヒトやあんなヒトの世話をしないでも良くなって。でも面白いもので、ああいうヒトたちの世話をしなくても良くなると、他に世話をしないといけなくなる人々が現れるんだよね。

A:プラマイゼロなんすかねえ、人生。で、今日は何の対談です?

F:そうねえ、昨日、嫁が隣室で大相撲のTVを見てたのよ。

A:好きなんですか、相撲が。

F:らしいね。俺なんか全然分かんないけどね、相撲。いつも同じことしてんじゃん。場外乱闘とか、行司が脇差抜いて参戦、押しつぶされた審判が激怒して鉄拳、とか目新しいことがまったく無いよね?

A:ないでしょうねえ。私には、いつも同じこと、って言ってるあなたがわかりませんが。

F:まあ、それは良いとして、取り組みを終わった力士にインタビューするじゃん。で、聞こえたのが、「自分の相撲がとれなかったです」とかの言い回しだな。ここ、「良いまわし」じゃないからね、相撲だけど。

A:はいはい。いつもの言葉尻に対するイチャモンですね。

F:そんな言われ方すると心外だなあ(笑)。俺もココロを広く持とうとは努力してんだよ、最近は。でもさ、この言い方って良くあるよね、「自分の相撲」とか「自分のテニス」「自分の将棋」「自分の走り」とか。で、インタビュアーもスルーしてるけど、ここで言う「自分の」って、一体、何よ?

A:うーん、いつもの自分のパターンとか能力、フォームとかを指しているんじゃないですか?

F:俺もそう思ったんだけどさ、でも良く考えてみ?相手のある競技の場合、ひとりでやってるわけじゃないんだから、「いつもの自分のパターン」を守るとか、あり得るんだっけ?相手の状況とかによって、その辺、変化するもんじゃね?ひとりでやる競技だって諸々の環境が同一って、厳密にはないよね。だとすると、変化する環境に対して「自分の」とか言ってると、確実に負けないか?自分への過剰適応みたく。

A:相変わらず面倒なヒトだな。………そいう「変化する環境に対応する能力」も込みでの、自分なんじゃないですか?

F:そーら出た!

A:(怒)何ですか?

F:それ、もっともらしいメタなくくり方だけど、そういう能力を包んじゃった場合の「自分」って、ほとんど範囲がなくない?「自分」って言葉はもちろん自他を分けるけど、そーゆーもっともらしい詐欺師的な「自分」イメージを持ってくると、「自分」ってものの境界が限りなく曖昧になっちゃうんだよ。

A:その場合の「自分の相撲」って、あんた一体、何よ?それ、本当にあんたが所有する能力なの?って感じにはなりますね。

F:考え始めると、ちょっと頭がおかしくなるけど、「無限に枝分かれする環境に対応可能な自分であったはずなのに、それができませんでした、自分」って、それは「自分」とかに限定できる対象じゃないよね。彼ら、そこまで考えてモノを言ってんだっけ?

A:絶対、ないすね。

F:多分、「いつもの自分の相撲をとっていたら負けるはずはなかったのに負けた」つまりは、「通常であれば俺が勝ちのはずだったのに、相手だったり環境という変数が入ってきたばかりに、負けちゃいました。本当は、俺の勝ちっす」って言ってるんだよな。

A:いつものように感じ悪いですね(笑)。

F:つまりは「変数さえなければ、自分は勝てたんです」話なんだよ。しかし変数のない競技なんか、厳密にはない。あー、やっぱり「自分の相撲をとれませんでした」は間違いなんじゃない?無限定に広がる「自分」を前提にしている時点で、言葉の運用を間違っているとしか思えない。

A:正しく言うと、どうなるんですかね?

F:「自分の相撲をとっていたんで負けました」だろ?刻々と変化する環境に対して、限定的な「自分」のパターンに固執していたから負けたんです、が一番正確な気がするなあ。

A:何か身も蓋もない感じになっちゃいますね。

F:どすこい。

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