助走

実家にいる。徒歩圏内に人と落ち着いて話せる店がないため、
知人と会うためにタクシーを呼び、喫茶店に来ている。
(雪道を歩くのは、記憶していた以上に時間も気力も持っていかれる)

喫茶店では、話が終わった後も大概「残ります」と言って、その場に居残る。
さっきまでいた相手の話の輪郭を頭の中で辿りながら、
書きはじめの助走をつけるため、本を開く。
パイを追加注文をする。

コーヒーの味に慣れた舌に、水が美味しい。
やけに大きなグラスだ。
よく冷えたグラスに、吐息はたちまち白い膜を張る。

その曇った表面をなぞりながら、また本の中に戻る。

今読んでいるのは、イ・ランのエッセイ集『悲しくてかっこいい人』。

読みながら集中していると、ふと花のようなシャンプーの香りがして、誰か来たのかと顔を上げる。

自分のおろした髪の毛から香ってきたようだ。
鼻先に毛先を持ってくる。
実家にある、普段と違う銘柄を使ったので、他人のような気がしてしまった。

こんな風に無意識に何かの存在に慣れ、気づかなくなっていくのだろう。
苦いコーヒーの味に慣れてしまうように。

本の中に戻る。

いつまでも、こんな助走のような気分で過ごしていけたら、
それは至福だろうか。それとも地獄だろうか。

見るとうんざりしてしまう、少し前の自分がノートに描いた設計図。

書き出しに迷う時間が苦しくなる前に、
もうほんとうに、ほんとうに書かなくては。

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