不器用で無口な

「クリエイターの方は基本不器用というか、無口な方が多いんですよ。
もちろん作品で表現している方ですから、そういう方々に『話せ』というのも乱暴だなと思うんです。
ただ、そんな不器用な方も、お話を掘っていくと面白いんですよね」

「もちろん、浮遊月さんのようにたくさん色々お話ししてくださるのは、すごく助かります」

と打ち合わせ相手に告げられて、

「わたし、また喋り過ぎたんだろうなあ…」と思いながら、
つい「私が言わないと、誰も代弁してくれないので」と拗ねたように口にしてしまった。

なぜあの人はこういう動き方をするのだろう、
私ならこうするのに、と疑問を覚えるとき、
「そういう役割の人も必要だから」と言い聞かせることがある。

音楽家や写真家のように、全体の母数が多い仕事は、それぞれの役割が細かく分かれる。そのため、作り手がどんな言動をしようと許容されやすいように思う。無口であっても、饒舌キャラであっても。

一方、珍しい肩書きの人間は、一人で雑多な役割を背負わされることになる。好むと好まざるとに関わらず、目立つ人間がその肩書きのイメージをつくる。

言葉が多くなるのは、私の内側だけの問題なのだろうか。
外に、私の立場を代弁してくれる言葉があまりに少ないからではないのか。

言葉が足りないために、詩の世界が誤解されたり、マイナスな印象を抱かれることを、かつて私は許せなかった。

「どうしても伝えたいこと」なんて、実はなかなか形にできなくて、
「ここでちゃんと伝えないと、もうチャンスはない」「誰かを怒らせるかもしれない」という責任や義務感で動かされている場面が、今まで数え切れないほどあった。

そんな場面に置かれたら、不器用で無口で人見知りな自分なんて、消し飛んでいく。

「不器用」をゆるされる世界の方が健やかだとは思う。

生きることに特別不器用でも、素晴らしい詩を、ほとんど奇跡のような作品を書ける方も一定数存在する。
でも、創作を仕事にするには、よほど境遇に恵まれているか、ある程度器用じゃないと生き残れない側面も確かにある。

マネジメントも営業も経理も一人きり。優等生では自分を守れない。演出できない。支えもない。

「今回の企画にご登場いただくのは、まだまだ “これから” 活躍される皆さんなので」という社交辞令も素直に受け取れない自分。

“今”じゃないの? 10年も積み重ねて、それは“今”じゃないなら
私のやってきたことは、無意味のよう。

いつの間にこんな遠くへ来てしまったのか。

年齢的には少し上らしい打ち合わせ相手は、やや幼く、まさかそんな些細な言葉で私が揺れ動いているとは、感知していなさそうだ。

自分のことがちょっぴり嫌になってしまった。

そういったモヤモヤも含め、結局、自分の書いたもので更新していくほかない。
ほどよい諦めを胸に、目の前の課題と向き合っていく。

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